最後のひと刺し

対抗心が邪魔なのである。無元塾は合気道なのだけど、白石先生の技にもそのお師匠の成田先生や平井先生の話にも剣術が出てくる。日本刀は、よく時代劇でやるように刀と刀を合わせて力み合うような使い方はしないのだそうだ。成田先生の本に出てきたが、「誰もそう言う使い方をしても折れない太い刀を使って戦おうと考えなかった」らしい。白石先生の技で、相手が爪先立ちになってジタバタしている状態で、ズシンと震脚をしてズバッと胴を切るのを見たことがある。実際のお侍さんの戦いでもそんな風に勝負が決まっていたのかもしれない。

成田先生の本に「無対立」とあるが、聞こえの良い宣伝文句ではない。習うほどに相手をどうこうしてやろうと言う気持ちが邪魔なことがわかる。しかし、そもそものところ、無対立を目指すなら、なんで決闘みたいな状況になってるの?という矛盾に突き当たる。

例えばだ。人が生まれたなら必ず死ぬわけだね。多くの人が老人、いや中年までも生きられなかったであろう近代以前の人たちは、どうやって死のうか、どうせ死ぬなら、なんかかっこよく死んだ方が得だよね、っていつも考えてたのかも。きっと、少年の頃から、さてどうやって死のうか、っていろいろ考えを巡らせていたんだろう。

そう言えば私の祖父は子供の頃、切腹の練習をさせられたそうだ。大学を卒業する年だったか泊まりに行った夜に黄疸が出て病院に行くって時に「戦友はみんな死んだんだ」と言っていた。江戸時代の仇討ちの話をネットで検索してみた。現代には法律とかあるけど、なんか共感してしまう。社会の見えない柵とか、社会のがんじがらめの持ちつ持たれつ、現代の身分制度である階級制度とか、そういうものに踏みつけられ、見捨てられた人たちの思いが、世界中でマグマみたいに溜まって蠢いているように、最近の世の中のニュースから感じられる。

一度きりの死ぬ時をどうやって迎えるのかを考える時、もしかしたら今まで怖がっていたものがそれほど怖くないようにも思える。社会の成り立ちを考える時、自分も他人もみな死ぬことをコミで考えるとうまく帳尻が合うのかもしれない。もしかしたら、ありとあらゆるものを怖いと感じるのは、死を迎えるエネルギーをどう使うのかを考えていないかったからかもしれない。

自己意識は間違いなく私一人だけのものだ。しかし、死はどうだ?死も私一人のものであって欲しいと思ったがそう単純ではない。でも、自己意識の次くらいに自分だけのために使ってみたいと思ったりする。これからも、いろんなものに負け続けるのだろうけど、もしかしたらパッと散る必要と価値がある場面に出会い、何かを遂げられるかもしれない。そんな風に最後の時を迎えられたらいいなぁ、と思うと共に、そんな場面に出会うことなく負け続けて最後を迎えられるといいなぁとも思う。

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