木賃宿の少年の瞳で僕は、日々のニュースを睨んでいる(2688文字)
むかしの話。
卒業旅行で1ヶ月エジプトに行った。
初めての海外旅行だった。
なのに、宿も予約しないで出掛けた。
就職が決まり、浮かれていて、だから無茶をしたのだと思う。
町に着くと、何よりもまずは、その日の宿をさがすのだった。
見つからない日は野宿となる。
危険きわまりないことだと今ならわかる。
でも、若さは無知と恋仲にある――
と、まあ、『ライ麦畑でつかまえて』ふうに表すならそんなわけで――。
こわがることもなく、埃だらけの車のボンネットに並べられたパンを買って食べていた。
お金はあった。
物価の安さもあり、その気になればたぶん豪遊できた。
円は、とことん強かった。
街中で、すれ違いざま
「ちゃーいにぃーず」
と吐き捨てられたら、
その背中に向かって
「のー、じゃぱにーず!」
と怒鳴っていた。
日本人であることを誇っていたのだな。
南京虫がいるようなベッドで眠り、泥水の出るようなシャワーを浴びていたが、そういうのもまあ『深夜特急』ごっこというか、『地球の歩き方』ごっこというか、要するにプリテンドだったわけである。
そんな旅で、1週間くらいが経った頃――、
アブキール湾でエビを食らい、貝を食べたら、次の日の列車の中で盛大に吐いた。
腹痛、発熱、下痢、嘔吐、関節痛、脱力。
ロバのアジザに引かれて、ガバメントホスピタルに行き、診察を受けた。
ゼスチュアで、
いたいいたい、げろげろ、ぴーぴー、へろへろ、
みたいに伝えると、
「ゆーしゅどどぅりんくぺぷし」とかなんとか医師は言った。
――ぺぷし?
「いえす、ぺぷし、こーく」とかなんとか、また医師は言って、見えない瓶を手にすると、顎を上げて、それを飲み干すゼスチュアをした。
ガバメントホスピタルだから無料ですよ――、と看護師さんに微笑まれて、嬉しかったけど、ロバのアジザにバクシーシ(チップ)を――、と御者にこれまた微笑まれちゃったから、政府に負けてもらったぶんのお金を、優しい目をしたロバに差し出し、ま、結局、イーブンとなった。
南京虫のいるホテルに戻り、
どう見てもヤンキーにしか見えない、歳の頃15かそこらの、おそらくは宿の経営者の息子とおぼしき若者に、
「あいうぉんとぺぷし」
と伝えると、
にこりとも笑わず、しかし――、
厨房にある、なんとか稼動しているらしき音を響かせている巨大な冷蔵ボックスから彼は、
ちゃんとペプシコーラを取り出し、
僕に与え、
右手を突き出し、10円くらいに相当するマネーを要求した。
僕は彼に、その5倍程度を支払い、もう4本くれ――、と要求した。
彼は、非常に驚いた顔をした。
部屋に戻って、5本のペプシを次々と飲んでは、吐き、飲んでは、下し、そんなふうにして内臓の洗浄を行った。
夕飯を食べに出掛けることもなく、ベッドに横たわり、夜を迎え、気持ち悪さに耐えられなくなり、またペプシを買いたいと思って階下に降りて、若者に、
「もあぺぷし」
と伝えてマネーを差し出した。
若者は、眉を寄せ、なにゆえか僕を睨み――、
けれども厨房に行き、ボックスからまたペプシを取り出しながら、こんなふうに歌った。
「じゃあぱーにーずぃずべーりーぐー、じゃあぱーにーずぃずおーはーよー♪」
歌声は、実に侮蔑的に響いた。
僕は想った。
おそらく彼は、観光業に携わる者の知恵として――、親父さんか誰かに教わったのであろう、その歌を。
意味は、たぶんこんな感じ。
日本人はちょろいぜ、カモだぜ、カネ離れがいいぜ♪ 挨拶は「おはよー」だ♪ おぼえとこっと♪
日本人観光客をブタと目しているのだ、――と感じられた。
少年の瞳に宿っているのはまぎれもない敵意だった。
部屋に戻り、ペプシを飲み、吐いて、下し、それからやっぱり僕は階段を下りた。
厨房に行くと、冷蔵ボックスの前に少年が座り込んでいた。
ペプシを盗まれまいという意図なんだろうな、と想像できた。
カネを渡し、ペプシをもう3本――、みたいに告げると、彼は、またあの歌を歌いながら瓶を取り出し、僕に差し出したが、しかしそのあと――、
瓶を手に去ろうとする僕の背中に向かって、不思議な声音で呼び掛けた。
「へいじゃぱにーず」
僕は振り向いた。
ポケットから彼は、コインと紙幣を取り出した。
そして真剣な表情で、それらを床に並べた。
「ぷらいす。あっぷ。だうん」
価値の序列を教えてくれているのであった。
もちろん僕は知っていた。
でも彼には思えているようだった。日本人はカネの価値を知らないと。
ペプシごときに、一晩にいったいどれだけのカネを払い続けるのか――?
彼はそう言いたかったのだと思う。
「ゆーあくれいじー」
と彼は言った。そして、ボックスの前で眠った――。
朝までに、もう何度か僕は厨房を訪ねた。
その度に彼は、ぴくりとして、ちゃんと目を覚まし、律儀に僕からカネを受け取り、瓶を差し出した。でも、もう何も言わなかった。
さらに2日ほど、それを繰り返し――、いくらかよくなり僕は宿を出て、再び南下を始めた。
ルクソールで、学校に上がる前くらいの男の子に声を掛けられた。
男の子は、石細工のスカラベ(ふんころがし)を差し出した。
買ってくれ、ということだ。
「1000」と彼は言った。
僕は首を振った。
去ろうとする僕の背中に男の子は、
「500」
と言った。
いきなり半値である。
買ってあげたかったけど、木賃宿の少年の瞳がどこからか僕を睨んでいた。
男の子に背を向けたまま僕は、手を振り、購入しない意思を示した。
男の子は、僕の正面に回り出て、
「100!」
と叫んだ。
瞳が僕を見ていた。
その瞳をしっかりと見詰め返しながら僕は、
「のー」
と応えた。
「10」
と、男の子は言った。
1000から10か、と思ったら笑えた。
笑いながら僕は、彼に、もう一度
「のー」
と繰り返した。
すると、不思議なことになった。
男の子は、眉を八の字にして、なにやら親和的な瞳で僕を見たのだ。
そしてスカラベをくれた。
――あのスカラベ、どうしたんだっけ?
――そうだ、大事に日本に持ち帰り、足を悪くして寝たきりだった祖母に、お守りだよ――と言ってプレゼントしたのだった。
さらに南下し、アブシンベル宮殿に向かうトラックの荷台で、風に吹かれていたら、じゃあぱーにーずぃずべーりーぐー、の歌が聞こえた――ような気がした――。
――時代は変わって、
円安である。
外国人観光客が日本に、大挙して押し寄せている。
国内の物価は馬鹿みたいに上がり、日本人の生活は苦しいのに――、
海外からの観光客は、これまた馬鹿みたいにカネをばらまいて日本を買い漁ってくださっている。
じゃあぱーにーずぃずべーりーぐー、の歌なんて、もう誰も歌わない。
木賃宿の少年の瞳で僕は、日々のニュースを睨んでいる。