Gのお尻(4477文字)
つやっぽい話を書く。
黒々とつやっぽい話。
――その昔、ペントハウスに住んでいた。
1つしか部屋がない最上階。つまり僕の横にも僕の上にも誰も住んでいなかった。
東と南に長々と、部屋を取り囲むようにバルコニーがあった。西にはバルコニーがなく、窓が遮光グラスだった。終日太陽に照らされていた。
四方に、より高い建物はなく、だから辺りのビル群や、それを含む町並みは、切り立った頂から見下ろす山岳地帯みたいに思われた。
ある階より上は、ピラミッドのように、あるいは段々畑みたいに上すぼまりで、なので最上階のバルコニーからは、下の階や、そのまた下の階や、さらに下の階のバルコニーが見えたのだけど、真っ直ぐに切り立っている階より下については、あるのかないのかわからないくらいに皆目視野に入らなかった。そのためか、天空に浮かんでいるような錯覚を楽しめもした。
周囲から見られることのないポジションだった。なので、台風の日に、素っ裸になってベランダに出てみたりした(海水パンツを穿いて出ようかと思ったのだけど、意味がないので穿くのを省略した)。スチュアートハイウェイや、アリゾナハイウェイで遭遇した雨嵐を、全身で、都心にいながらにして再体験してみたかったから。バルコニーには天井がなく、だから僕は空に対して剥き出しで、雨も、風も、雷も、オーストラリアのアウトバックや、アリゾナの荒野で感じたそれに酷似していた。さすがに野宿(バルコニー宿?)はしなかったけど。
室内もなかなか面白かった。梁が不思議な形に尖っていて、天井が山小屋みたいに三角で。
ペルシアンブルーのカーテンとペルシアンブルーのベッドリネン。壁は白。曖昧なところのまったくない、ギリシャの教会のような白だった。
食事をしないので、冷蔵庫はなかった。
そこに独りで住んでいた。セミダブルのベッドをときどきの誰かと分かち合うことはあったけど。
青空みたいに自由だったってこと。
真っ黒羊の丘と命名し、僕は、このペントハウスを、僕の自由と同じくらいに愛し、大切に思っていた。
――そんな棲みかに、ある雨の夜帰宅すると「珍客」がいた。
玄関ドアの前にいた。
招いてなんかいない客。
彼を、ここではGと呼ぼう。
ツヤツヤと黒光りして、親指くらいの特大サイズで、長すぎるとしか思えない触角をひくつかせながらGはいた。
部屋で食事をすることがなかった。365日外食だった。
だからであろう、室内でGを目撃したことはなかった。
なのに……、と思った。なぜ、特大のGがいるのだ? 我が家の玄関前に!
――正座をしてんのか?
って訊いてやりたくなるほどの佇まいでGは、玄関に向かってきちんと這いつくばっているのだった。
僕は何が苦手かってGが苦手なんである。
3大怖いものは、
1、お化け屋敷
2、ジェットコースター
3、G
なんである。
――やむを得ない。出直すか。いや「帰り直す」か……。
と思って僕は踵を返した。
エレベーターでくだり、近所の居酒屋で過ごした。
そして1時間ほどののち、決意し、酔いで恐怖をなだめすかしながら再帰宅を試みた。
いなくなっててくれよ、と祈るような気持ちでエレベーターに乗り込んだ。
最上階でエレベーターを降りた。
で、左に向かって90度ターン。玄関は、エレベーターを降りて左手にあるのだった。
いったん目を閉じた。
そして、えいやっとばかりに見開いたら、果たしてヤツは……、
そこにいた。
Gでさえなかったら……、と思った。例えば相手がカマキリだったら、 僕は怯まず、ひと跨ぎしてドアを開けただろう。
でも、Gなのだ。
玄関ドアに向かって小一時間も正座(?)し続けたGなのだ。
開けたら最後、ここぞとばかりに室内に猪突猛進しやがるに違いない。
――踏み潰す?
……んなことできたら僕じゃない。
Gは、僕を意識しているようだった。触角の動きでそんなふうに思われた。
カマキリは、人と視線を合わせることのできる昆虫だ。明らかにこちらを見ている、という目付きをする。
かたや、Gと目を合わせたことはない。でも、Gには把握されている気がする、こちらの動きや表情のみならず、こちらの気持ちの内まで。
だから余計に怖いのだ。
カマキリどころか、ヘビだってサソリだって僕は怖くない。
ヘビについては、子供の頃、捕まえて、ベルトみたいに腰に巻いたりしていたし、サソリについては、スチュアートハイウェイ脇の砂漠で、寝袋から這い出ての朝、靴の中に入り込んでいるのを見つけて、おやおやと思いながら逆さにして平然と振り落としたりしていた。
ヘビ1ダースよりも、サソリ1カートンよりも、G単体のほうがはるかに僕は怖いのだった。
黒くて、速くて、賢げで、ほんっとーにもう大っキライ!
玄関前から動かないGを見下ろし、僕も動けなかった。
嫌な汗が流れた。
だが、次の瞬間気が付いた。
おう。今夜の僕の右手には、傘があるじゃないか!
会社からの帰路、ぽつぽつと降り始めたので、コンビニで買い求めたビニール傘。
悟空に如意棒。
あひろにビニール傘。
――そりゃ、ま、リスクはあるけどな。
と思った。つんつん、とかやったら、ぶああっ、とか飛んでくるかもしれない……。
――ぎゃあっ! だよな、そんなことになったら……。
でも。しかし。だけど。ねばーすれす。
ヤツに動く気配はない……ってことはこのままいつまでも帰宅できないってことで。
――会社に戻って寝袋で寝よっかな?
だなんて半ば本気で考えつつ、しかし酔いにも助けられ、結局僕はトライしたのであった。
右手を伸ばし、
へっぴり腰で……、
つんつん。
お尻を突つかれてGは、左に90度回転した。すなわち、僕に向かって正対してきた。
――よ、よせよ!
唾を飲み込みながら、体勢を入れ替える僕。
Gの左側面方向に回り込み、再びお尻を……、
つん。
びゃーっ! とか走り出すでしょう? 普通は。だってGなんだから。
あるいは、ぶああっ、と飛ぶとかさ。
いや、飛ばれたら怖いけど。
でもヤツは走らなかった。飛びもしなかった。数センチほどゆっくり前進しただけだった。
――つ、ツワモノよのう。
と思った。悠然としていやがる……。
いくらかのリスペクトを抱きつつ(抱くなよ)、また……、
つ、つん!
少し力を込めて突いてみた。
と、
ささささっ、
と今度はGらしく、速やかにヤツは前進した。その距離約1メートル。
――うまいぞ!
と僕は喜んだ。
玄関から遠ざかったGの右手には、そう、エレベーターの扉があるのであった。
エレベーターは最上階に止まったままのようだった。
勇気を振り絞って僕は、Gの後方に立ち、右手を精一杯伸ばしてエレベーターのボタンを押した。
なんでそんなことをしたのだろう?
Gが、エレベーターで下降してくれるとでも思ったのであろうか?
ともあれ僕はボタンを押した。
扉が開いた。
エレベーターの中は明るい電気で煌々と照らされていた。
そして、Gのお尻を、もうひと突きしてやろうと思った。なんならゴルフの要領で、エレベーターの中に打ち込んでやろうか……、やるで、ぐへへ、やったるで!
恐怖で少しおかしくなっていたんだと思う。
玄関前はフリーになったのだから、Gなんてもうほっといて、さっさと部屋に入っちゃえばよかったのに。
なのに、混乱していた僕は、右目の隅で、エレベーターの扉が開き、煌々とした光がそこから漏れ出すのを確認したまま息を止め……、
そして、Gに向かって傘を……、
……すると!
なんと、なんと! なのであった。
びっくりしたなあ、もう!
Gのヤツ、何を思ったのか、右に90度体をターンさせた。
すなわち、エレベーターのほうを向いた……。
で、次の瞬間、
ささささっ!
と、すごい勢いで走り込んだのであった。エレベーターの中に。
エレベーターと、最上階の床の間のわずかな溝をどう突破したのかわからない。
いくらか飛んだのか、あるいは溝より長い体をしていたのか?
ともあれ、ともあれ。
僕、酔っていたからかな、エレベーターの中に半身を突っ込み、1階のボタンを押し、お客さまお帰りです~♪ みたいな感じで迷いなく扉を閉めてしまった。
縦長の、スリット状の窓の向こうに、エレベーターの中の床が見えた。
床の真ん中にGはいた。
走り込んだままの姿勢で、つまりこちらに向けてお尻を見せながら、黒々と、泰然としていた。
エレベーターがくだり始めた。
――アッパレなヤツだったな、敵ながら。
と僕は思った。
で、ダイ・ハードを演じきった俳優さながらの心持ちで玄関に向かい、鍵を開け、ドアを開き、中に入り、ドアを閉め、内鍵を掛けた。
そして、気が付いた。
――1階で、降りてくるエレベーターを誰かが待っていたりしたら……、
その絵面が浮かんだ。
エレベーターが1階に到着する。帰宅した誰かは、中に誰も乗っていないのをいくらかは不審に思いつつも、ま、いいか、と乗り込もうとする。と、降りてくるのである。Gが。あの悠然とした身のこなしで、慌てることもなく、堂々と。いくらか酒の入っていた帰宅者は、目をごしごしとしたりなんかして、でも酔っぱらってるもんだから、あ、これは失礼、気付きませんで……とか言って道を譲り、Gの退出を待ち、しかるがのちに、近頃のGはエレベーターを使うんだなあ、明日会社に行ったら総務のみっちゃんにも教えてやろう、とか、女子にGの話なんてするからモテないのに、そこんとこわきまえもせず、テキトーな気分で自分の階に上昇してゆくのであろうなあ。
とか想像したら、その帰宅者にも、みっちゃんにも申し訳ないことをした……と反省し、でも、みっちゃんなんて人知らんし、と思い直し、ともあれヤツはなかなか立派なGであったな、とか、ノドモトスギテアツサヲワスレテいい加減なことを考えながら僕は靴を脱いだのであった。
実話である。
どっかの部屋がバルサンでも炊いて、煙を逃れて最上階にたどり着いたGだったが、やはりダメージを受けていたがために動作が緩慢で、ゆえにすばやく走ったり飛んだりすることかなわず、人から見たらそのありさまが悠然としているかに見えた……というあたりが真相であるのかもしれないが、だとしてもヤツとのあの夜の対決は、あひろ史上最大の決戦であったことは論を待たない。
お気に入りのペントハウスを守るべく、傘を剣にして死闘を演じきった若き日の自分に拍手を送りたい。
ちなみに、こっちのほうこそ信じてもらえないかもしれないが、妻と暮らし始めてから僕は、室内で、ただの一度もGを目撃していない。
自炊しているのに、である。
近隣の知人友人に驚かれる。
――何を置いてるの??
――ブラックキャップ??
とか訊かれるけど、特別な対策をしているわけでもない。
妻が、異様なまでのお掃除マニアなだけである。
だから、Gの恐怖を、もうかれこれ長いこと味わっていない。
だからって、あの夜のGに、ノスタルジーとか感じちゃうかというと、断じて、きっぱり、120%そんなことはない。
このままずっと未来永劫にわたってGと対峙したくはない。
エレベーターの中の、黒光りするお尻を思い出しながら今はっきりと書かせていただく。
Gよっ!
さよなら、ふぉーえばーっ!!!
文庫本を買わせていただきます😀!