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それがいいんじゃないかな?(2260文字)

例えば僕が、青が好きだったとする。

で、noteに、青ってばサイコー! とか書いたとする。

でもそのあとで、仲良くしてくださっているnoterさんが、青を心底憎んでいる、みたいに書かれていた記事を、ふと発掘してしまう。と、

少し、嫌な気持ちになる。

青が大っ嫌いな人に、青ってばサイコー! みたいな記事を読ませてしまった……、と落ち込む。

なので、なかなか、青ってばサイコー! みたいな記事を書けない。

赤ってばサイコー! って思ってる人を傷付けることになるかもしれないので。

だからまあ、比較的玉虫色の記事とか書いちゃうことになる。

でも、玉虫色な記事のコメント欄に、来てくださった誰かが、黄色って素晴らしくないですか? みたいに書いてくださったとする、と僕は、「ですね、ですです、黄色ってばサイコー!」 みたいに返事をしちゃったりするのだけど、それだけでも、赤以外は色じゃない! くらいに思っているレッドラバー氏を、間接的に否定することになっちゃうような気もして、歯切れのよい返答を、あとから悔やんだりすることもある。

noteみたいに、いろんな人が、記事やらコメントやらを読んでくださる場で、己のカラーを高らかに打ち出しちゃうって、これ、なかなかに勇気の要ることであったりする。

リアルな人生においては、決して八方美人ではなく、ひとさまに嫌われることを、とりたてて恐れるタイプでもない、というか、価値観の違う人とプライベートな関係を紡ぐこと自体が、あんまりなかったりするのだが、SNSでは、リアルでは関わりようもないほどに僕から隔たった人とも、普通に関わり合っちゃうもんだから、なんというか、全方位的に、それなりの気を配らなくてはならない。

生きてるだけで人は、他者とは違う己を「表現している」わけだから、自分とは違う価値観の他者を、誰一人として傷付けない、だなんてことは到底できないわけだけど。

社会性、などという言葉があり、その内の一つに、協調性、みたいなことがあるんじゃないかと思うのだけれど、それをいかんなく発揮して、赤ちゃんとも、青ちゃんとも、黄色ちゃんとも、それなりに友好的な関係を築いてゆきたい。

と考えた場合、重要になってくるのは、距離感である、かもしれない。

赤ちゃんと、極端に、リアルな友人並みの、いやそれ以上の距離感で睦まじくしちゃうと、青ちゃんや黄色ちゃんが不快になるかもしれないわけで、だから、赤ちゃんとも、青ちゃんとも、黄色ちゃんとも、等しく、1メートルくらいの隔たりを設けて仲良くすることが肝要なのかもしれない。

そして自分のカラーは、記事の内に溶け込まして、さりげなく、いろんな捉え方を許容する程度の不確かさで、匂わせるように表す。

赤ちゃんには、赤だよね、と思っていただきつつ、青ちゃんには、うーん、まあ赤的もやむなしかな、と思っていただき、黄色ちゃんには、赤っぽいけどまあいっか、と思っていただける程度に記事を赤らめておく。

みたいなやり方を、よろしくないとする――自分は自分なんだから自分の旗を、鮮明に、高らかに公示すべきであるという――考え方に、若い頃は、激しく同意していたのだけど、いろんな嫌な思いをしたり、させたりしながら長じてしまった今となっては、コウモリ野郎の名を受けて♪すっべてーをすててたーたかうおっとっこ♪的にデビルマン化しちゃおうとも、あからさまじゃなく生きてゆきたいと、この書き手はそんなふうに感じている。

自らを、熱く、高らかに尖らせる書き手のことも、否定はしないし、よきかな、と思うけど、僕は、自らを、小さな前ならえ程度の控えめさで表してゆきたいと思う。

自分をしっかり持っている人こそ、自身を主張しなかったりするのは、きっと、その必要がないほどに彼が、己を、信じているからかもしれない。

表層をどのように染めようとも、内的に、揺るぎのない透明さを堅持しているから、彼は、自分を見失うことがないのかもしれない。

人も、世界も、人生も、白黒、善悪、可否できっちり割り切れるものではなく、すべては相対的であり、自らの立ち位置から見える景色が絶対な訳じゃないから、なるべく客観的であろうと思えば思うほどに、表れは玉虫色なことになりかねないのだけど、それって不自由なのかっていうと、実は逆に自由であるようにも思え、つまり片寄りに囚われないフットワークの獲得であるかとも思え、柔軟に、流動的に、日替わり定食的に、月の満ち欠けに照らされ、風に吹かれて、自然に生きて、自然に死にたい。

あるがまま、ってのは、本来的には、そういうことなんじゃないかな。

自分が自分であるという片寄りを、ぼくはぼくーをうしなうためにいきてきたんじゃなーい♪(ばい、ながぶち)だとか、ぼくーがぼくーであるためにーかちーつづけなきゃならない♪(ばい、おざき)だとか、そんなふうに熱く叫びながらキープし続けることが、あるがまま、なのではないようにも思う。

片寄りも、結ぼれも、ほどけてゆくことのほうが自然なんだ、たぶん。

――だなんて今日は思うけど、明日になったらわからない。

だって明日には、今日とは違う明日の風が吹き、月齢の異なる月がのぼるわけだから。

赤ちゃんや青ちゃんや黄色ちゃんと躍りながら、風に吹かれて、自らの中心点に、他律的に追いやられていったとき、そこに、あるがままの、その日の僕が、立ち上がってくるのだと思う。

それを繰り返しながら生きてゆく、たぶん。

なるべく透明な心で。

それでいいんじゃないかな。

いや、それがいいんじゃないかな?


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あひろ
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