小説(またはテツガク的なポエム)『地球がくるりとスピンして』後編(37枚)
9:13PM
そんなわけでボクらは、首尾よく魔法にくるまれてはみ出したってわけだ、世界から、牧地から。
凍てつく荒野の真っ黒羊。
でも、そこにはあるんだ、そこにしかない、ホントウのホンモノが。死のように完全な、揺らぎのない真実が。
9:57PM
駐車場でアキが、クルクルと踊るようにして言った。「夜風がなんだか目に見えるみたい」
魔法の酔いが今宵を覚醒させている。酩酊ではなく覚醒。警察に捕まることもない。恋こそ最強のドラッグだ。
「それは動かぬ証拠ですなり」とステップを踏むようなリズムでヒロが言う。
「何の証拠よ?」
「まんまと恋に落っこちちゃった」と言いながらヒロは靴の裏で地面を叩く。「ってその証拠ですなり」
「落とし穴みたいね、あんたが言うと」
空を仰ぐ。月は見えない。
ジーンズのサイドポケットからキーを引っ張り出したボクにアキが訊く。「酔ってない?」
「酒なら平気だよ、でもダメかもしれない、キミに酔ってて、なんちゃって」
「なんちゃって?」
「うん」
「あまり好きじゃないわね、その言い方」
「そりゃ困ったな」
「なんちゃってなんて……」と言いながらボンネットを回り込んでアキはヒロに近づく。それから、言った。「言えなくしてあげようか?」
少し怯えたような目でアキを見るヒロをボクは穏やかに眺めた。
アキの両手がヒロの頬をはさんだ。唇が唇を捉えた。そのヌメリとした感触をはるか遠くでボクは感じた。大気圏外から見下ろす地上の焚き火くらいにそれはボクから隔たっていた。なんちゃって、と誰かが宇宙のどこかで呟いた。
10:22PM
一対のハイビームが峠の闇を突き抜ける。愛車のヘッドライトを想って気がついた。アキの瞳に似ている。切れ長で、鋭く輝き、いくらかつり上がり過ぎている。
アキとヒロはウィンドウを下ろしてアルコールを洗っている。外に突き出されたヒロの手に虫が当たったのをボクは感じた。それと同時にアキが言った。「あのね……」
「何?」
「何でもない」
ラジオが、ニュースを読みあげていた。レバーを操作して黙らせた。すると車内は沈黙で満たされた。満ち足りた沈黙のようでもあったけど、どこか緊張感の漂う沈黙でもあった。そのようにボクには感じられた。
こんなときのためにヒロはいるのだけれど、アキに属するこの道化師もさすがに喋り疲れたのか今はおどける様子がない。
ヒロはボクにではなくアキに属していて、アキに照らされることで顕在化する。アキが発光していなければヒロはない。
だなんて思いつつ隣の光度を探ってみて気づいた。アキは消えていた。そこには彼女が昇っていた。彼女の瞳が、近い距離からボクを見ていた。湿度のない眼差しだった。
かなり奥まで……、と納得した。来ちゃったってことだな。
でも道はまだ続いていた。
10:52PM
峠の出口で減速しながら、アキの真似をするみたいな調子で「ねえ」と呼び掛けてみた。
「何?」と彼女が応えた。
「橋を……」と左手前方を指しながら尋ねる。「渡ってもいいかな?」
黒い湖をまたいで橋が架かっている。
「いいわ」と彼女の声がした。
左に九十度車の向きを変えた。その角度は決定的だった。
10:53PM
橋の中ほどでお隣さんが呟いた。「なるほどね」
対岸にひしめくネオンの群れを見てそう言ったのだ。
ヒロが反応する。「だってアキが言ったんじゃん、渡ってもいいよって」
「言ってません」
「言ったもんね」
ボクは思う。アキの言ってることは本当だ。橋のたもとで、いいわ、と応じたのは彼女だった、アキではなくて。彼女が承諾したのだ、橋を渡ることを。
39:19P
ピクリと肩が動いた。凍てつく大地に座り込んだまま男は地鳴りのように唸った。
11:01PM
「で?」と声がして車内に引き戻された。アキの声だった。「どのホテルに連れ込もうってわけ?」
橋の向こうはホテル街だった。
「まだ決めてないけど……」とヒロ。
「んじゃあえっとねえ」と瞬時に物色してからアキは「あそこ!」と青いネオンを指差した。
「あいあいさあ」とヒロはハンドルを回す。
エーゲブルーの車体はイルカのようにすべらかにゲートをくぐった。
11:11PM
エントランスには象徴的な彫刻が施されていた。アンモナイトだった。
11:18PM
南国のような部屋だった。BGMは波の音。床の一部はガラス張りになっていて青や黄色や虹色の魚が泳いでいた。テレビには深海の映像が映し出されていた。イソギンチャクが妖しく手招きしている。
「暑いわね」とアキが言った。
ボクはTシャツを剥ぎ取るように脱いだ。ジーンズも脱いだ。トロピカルブルーのベッドにダイブする。ヒロがカマキリみたいな腕でクロールした。
アキはグラスの氷のような声で笑って浴室に消えた。
11:30PM
さて。
とまたボクは思う。今朝浮上したあの海を思う。無意識の海。
そうだ、ここはあの海だ。属性と関係性とを脱ぎ捨てて剥き出しのボクにボクは潜ろう。
無無無無無。
まんまるくマル。
ほほほい。
だなんて沈潜している水中に声が響いた。「用意ができました」
意識を凝らすみたいにして浮上する。と、目の前に女がいた。白い歯を剥き出すみたいにして笑っている。
誰だっけ?
女は裸だった。リンゴのようなヒップに導かれてボクはバスルームに向かった。
11:41PM
「あたしが先に洗うからヒロはあったまってなよ」と身体を隠そうともしないでアキは言う。
「わかった」とヒロは素直に応える。「オイラ、あったまってる」
女の背中のカーブを眺めながらジャクジーのスイッチをオンにした。すると浴室の照明が落ちた。バスタブの内だけが青い光で満たされた。
「暗くなったなり」とヒロみたいな言い方でアキが言う。
「すまんなり」と言って調光しようとするヒロをアキが止めた。「このままでいいわ。バックスタイルに自信がないから」
バスタブから漏れる光に照らされて、女の背中は青く輝いて見えた。月明かりの夜のイルカみたいだとボクは思った。
11:51PM
バスタブの海にアゴを沈めながら思う。ボクは今また彼女に抱かれているのかもしれない。
天井で光がユラユラと揺れている。
いろんなときに彼女は、いろんな形で現れて、消えて、また現れた。ユラユラとした気分で思い出す。
クリスマスを目前に控えた週末、彼女はボクと女の部屋にいた。特大のモミの木に、ステッキや雪だるまやてっぺんの星なんかを飾りつけていた。こんなに立派なツリーを飾っちゃって……、と手を動かしながら女は呟いた。来週コレを独りきりで眺めるだなんてことになったらさぞかし寂しいだろうな、とか悲観的なことを言うのだった。一緒に眺めようよ、と言いながらボクはウサギのように震える身体を抱いたのだけれど、でも翌週のクリスマスには違う場所で違う身体を抱いていた。彼女を追い掛けていたらそういうことになってしまったのだ。女は独りで眺めたのだろうか、てっぺんに飾られたあの星を。
別のとき、別の女の中の彼女を明け方のアパートで捕まえた。小さなくしゃみをボクはして女の布団に潜り込んだ。でもそうしたら途端に彼女は消えてしまった。がっかりしながら女の部屋を出た。始発を待つ駅で睨んだ痛々しい朝焼け。
ひぐらしの鳴く田舎町で彼女と暮らしたこともある。ミョウガをたっぷりと掛けたうどんを掻き込みながらひと夏を過ごした。ほの暗い林道を彼女と手を繋いで歩いた。白いワンピースをふわりとまとった彼女は裸足に近い足で森も歩いた。ときには麦藁帽子なんかもかぶっちゃったりして。彼女は永遠であるかに見えた。でも秋の虫が鳴き始めるとやはり消えてしまった。茶色くなった向日葵みたいにうなだれてボクは常磐道を南下して都心に戻った。後日女から郵便が届いた。置き忘れたままの甚平とボクのイニシャルが刻まれたぐい呑。丁寧に畳まれた甚平からは彼女の匂いがした。ぐい呑のイニシャルは引っ掻き傷みたいに見えた。甚平をクローゼットの奥にしまい、ぐい呑を叩きつけて割った。
12:00AM
「おっまたせ」と声が響いた。無意識の底から光を見上げた。ジャクジーのタイマーは終了していて浴室には太陽のようなライトが灯りその光を浴びて女が歯を剥き出して笑っていた。快活な白さを目にしてその牙がアキのものであることにピントがあった。
「ああ、キミか」とボクは呟いてしまった。
「あらら、なんて言いぐさよコノヤロ!」と言いながらアキはバスタブに入ってきた。
「すみませんすみません」とヒロは小さくなってアキのためのスペースを作った。
いいか慎重にやれ、ゆっくり潜れ、水音をたてるな、キックは足首をしなやかにしてももから蹴り出すんだぜ、とかなんとかボクはボクのために呪文を唱える。今夜こそはうまくやれ、彼女に潜り、彼女に包まれ、そして彼女に留まるんだ、永遠に。還るのだ、ボクは彼女に、ホントウのボクに、揺らぎのない鏡面に。
12:01AM
「ジャクジーやってよ、もう一回」とアキがねだった。
「そこだよ、ボタン」とバスタブの縁を指差す。
「あら?」と、ところがアキは壁面にある別のボタンに着目したようで「このボタンは何かしら?」と呟く。
見ると、上向きの矢印が刻まれた見慣れないボタンがあった。
「R、O、O、F……」とアキはボタンの横に表示された文字を読みあげながら中腰になる。大きくもなく小さくもないバストが揺れている。ボクはそれをぼんやりと見ている。クラゲを連想していることに気づいてこっそりおかしく思う。
「O、P、E……」と読みあげてからアキは「あっ」と短く叫ぶと前を隠すこともなく立ち上がり勢いよくボタンを押した。そして上を見た。
短い機械音がしたあと意外なほどすべらかに天井が開いた。
「これはこれは……」とアキが嬉しそうに言った。
「きもちいなり」とヒロも目を細める。夜風を感じた。
「露天風呂ってこのことだったのね」
「露天風呂?」
「フロント横のパネルに、露天風呂付きだって書いてあったじゃない?」
「そうだっけ」
「すごいわねえ」とアキは感心したように言った。「ホテルでこんなギミックに出会ったの初めて」
ギミック、とボクは思う。彼女の巣穴に施されているさまざまな仕掛け。
「電気を消そう」と、ふと思いついてボクは言った。
12:22AM
バスタブの縁に頭を預けて空を仰ぐ。そのままじっとしていると暗闇に目が慣れてくる。
見え始めた。星空だ。
「わりと見えるのね」と声がする。アゴを上げていてノドが苦しいのか知らない誰かの声みたいに響いた。
「オリオン星雲だって見えると思うよ、明け方になれば」
夏の空にも冬の星が昇るのだ。
「ダメだと思うな」と、けれどもアキは言った。「こっち来てごらん」
よくわからないままアキのそばに移動する。お湯が波立つ。
「で……」と言いながらアキはヒロの肩を抱くようにしてボクの向きを変え、「あっちを見て」と夜空を示した。
背中にアキの胸を感じながら空を仰いだ。
「ありゃりゃ」と言いながらヒロは了解した。
「ね?」とアキ。
「だね。明るいや」
月だ。アキの角度からは煌々と輝く月が見えた。
「まんまるだ」とヒロは呟いた。満月だった。月が眩しいと星は消されてしまう。
アキに背中を預けながらボクは月を眺めた。
アキの腕がヒロを浮き輪みたいに包んだ。「なんだかあんた」と声は告げた。「ぬいぐるみみたいね」
「なんですと?」
「オトコの匂いがしない」と歌うように声は瞬いた。「無味無臭」
声は彼女の響きを帯びたまま夜に吸い込まれていった。
12:28AM
「不思議だな」と気持ちがそのまま声になる。「月がポツンとただひとつあんなに明るく輝いている」
雲はなかった。大気の状態もいいのだろう、揺らぎのない、曖昧なところのない月が真正面からボクを見つめていた。
「今太陽はボクの背後にいる」
ヒロの背中を抱く腕に力がこもったのを感じる。
「地球の背後から太陽が世界を照らしている」
広大無辺の空間。燃え盛る球体。放たれた光。光は直進する、対面すべきものに出会うまで、全方位的に。
今宵光は月に出会って、月は光を受け止めている。
「不思議なことだ」と思いがまた言葉になる。「月があるなんて。地球がそれを見つめてるなんて」
「見つめてるのはあなたよ」と声が言う。「地球じゃないわ」
あなた、とは誰だろう?
思ったら途端に寂しくなった。
12:35AM
ボクは体の向きを変え、女を促し入れ替わる。そして男の腕で女の背中を抱く。
波が生じた。波を見た。象徴的に思われた。
揺れが静まるとバスタブの中にも月が昇った。この月を……、と見つめながら思う。抱きしめたいんだ。
痛い、と感じる。右手の人差し指を何かが噛んだ。モルディブで出会ったウツボを思った。
「痛い?」とアキの声がした。
「痛いなり」とヒロの声もする。
「でしょ」と言いながら腕の中で身体が反転した。「あなた、生きてるわよ」
月光を照り返して歯が白く光った。抱きしめたくなる。
12:51AM
暗いバスタブの中で抱く女は海のようにも月のようにも感じられた。
1:52AM
見上げる空に月はなかった。地球が回転したので天窓からフレームアウトしてしまったのだ。
でも構わない。目の前に月がいた。正面にいた。ひどくしっかりとした輪郭で彼女はいた。放たれたすべてを浴びて凜として美しかった。冴えわたり澄みきって超然としていた。
主体の視点は真っ直ぐそれに向き合っている。一対一の関係。百八十度の角度。
懐かしい。そしておそろしく完全だ。
何もかもが凪いでいた。鏡面のごとく静まりかえっていた。ここはてっぺんだ。世界の頂点。ボクの中心。
手を伸ばす。と影ではない彼女も鏡のように手を伸ばす。手首に光るのは手錠。捕まえた。逃がさない。留まるぞ。今度こそここに留まる。
指を絡めた。確かにいる。彼女はここにいる。だから、ボクもいる。混沌としたところはひとつもない。覚醒したリアリティの中にフルムーンの角度で彼女がいる。合わせ鏡の中の景色みたいに彼女彼女彼女彼女……。
1:59AM
「乾杯しましょ」
と、冷蔵庫から取り出したビールを片手に裸のままのアキが言った。
「しようしよう」とイルカの形の栓抜きを手にヒロが応える。「何の乾杯かな?」
「見つかったんでしょ、さがしてた彼女」
応えずにボクは目の前の女に属しているものを検分する。フランス製の手錠とゲッコーのシルエットが這うラベルの瓶ビール。以上それだけ。
悪くない景色だった。
「素晴らしい景色に……」と、だからボクは言った。
「乾杯」
「乾杯」
と月が照り返した。
魔法の満ちた瞬間だった。
2:22AM
海が呼吸している。リズム、とボクは思う。
絡み合う呼吸。ヌルリと溶けてゆくような。
彼女が奏でる音。懐かしい調べ。肯定もなく否定もない。とてもとてもよく知っている場所。あらゆるセンサーがくぼみやふくらみやかげりやぬめりを探査する。愁いがなく猛りもなく。やさしさに似ているけれどもう少しだけ切ないような。繰り返す。波のように。潜る。浮上する。また潜る。深く。潮騒が聞こえる。揺らぎ。ボクの彼女の煌めき。
39:55P
大樹の根もとで目を覚ます。孤独の、痛烈な渇き。月を睨む。掴む。食らいつく。痛みに似た歓喜。狂気を宿した凶器。とてつもなく根源的な極性が尖る。
月もまたその極性を露わにして引っ張る。引っ張り込む。
2:55AM
どのくらいの時間が経ったのだろう?
3:32AM
ここはどこだろう?
女の腕はお日様の匂いがした。砂浜を思う。腕から腋にそして乳房に鼻をうずめる。
中和されたようなぬくもり。
天国かな?
「ねえ……」と突然声がした。「あたしのこと好き?」
好き?
好きも嫌いも存在しない、そんな絶対点から目覚める。
目を開ける。
ボクの下で女の身体が凪いでいた。
好きだろうか?
と自問する。極性に関わる問題。電磁気学の教科書を開いたような気分。
好きだよ、と思う。とても好きだ。
なぜだろう?
とまた念のために問う。
なぜ好きなのだろうか。
理由はない。ただ好きなのだ。いや違うな。
そうか、そうだよ、とボクは気がつく。正面にいるからだ。のっぴきならなく満月は真正面にいるからだ。ボクの存在を自覚させてくれるからだ。
「好きだよ」と応えて女を見る。
女はただただ満ちていて、だから凪いでいた。
もう一度「好きだ」と唱えてベッドをあとにした。
「好き」と背中に声が掛かった。
3:58AM
シャワーを浴びて戻る。と、身体はまだ島のようなシルエットを描いてベッドにあった。美しい眺めだった。ボクの島、と思った。この島に留まろうと思った。そしたらまた潜りたくなった。島を抱く海に。彼女の中に。
ところが。
女が枕元のパネルを操作した。部屋は明るく照らされた。
ボクはクラクラとしてしまった。
女が手招きした。応じてボクは近づいた。
月の匂いを求めた。北の丸公園の滝。茂みの奥に隠された秘密。その地形が太陽みたいな光に照らされて露わになっている。
「こんなに若いのに……」と声がした。ふさわしくない楽器が奏でるメロディだった。「あんなに大きな会社を経営してるだなんて」
女が会社の名前を言った。誰もが知っている会社だった。ボクの会社だった。
驚いた。茂みに分け入ろうとしていたボクは出鼻をくじかれた。
「ヘッセがいたポケットの隣をあさったの」と言って女はソファの上のジーンズを指差した。「財布の中に写真入りのIDカードがあったわ」
ID、と思った。ボクの識別子。
手にしたカードを女はヒラヒラと振った。
「ヘッセを読むような人物にも見えなかったけど、大会社の経営者にも、あなた、全然見えなかったわよ。だってあまりにも……」と半身を起こしながら女は言った。「子供っぽいから」
見たこともない女がそこにいた。
「さてと」と言って女は立ち上がりショーツに足を通した。そして続けた。「いつ会いに来てくれる?」
「会いに?」
「パパとママに」
「何だって?」
世界が揺れた。
「現行犯で逮捕する」と言って女はオーケーサインを作った指でボクの手首を掴んだ。
拘束されたのは女ではなくて男のほうだったようだ。
「おとり捜査だったのかい?」
「そうよ」と女は応えた。「前科ワンカートンのプレイボーイを追ってたの」
「プレイボーイ?」
「そうよ。夏子を愛するために春子や秋子や冬子を必要とする男はプレイボーイよ」
「あのさ」
「何よ?」
「プレイボーイの綴りについてだけど……」
「綴り?」
「PのあとはRで送検してくれないかな、Lではなくて」
少し考えたのち女は言った。「一生祈ってなさい、絵空事の真実とやらを」
ブルージーンズを穿いた。パンツは丸めてゴミ箱に投げた。
4:10AM
「結婚しましょう」
と女は判決文を読み上げるような調子で言った。
ケッコン、とボクは思った。聞いたことのある言葉だ。
左手に腕時計を巻いて右手で車のキーを掴んだ。
「言うとおりにしたほうがいいわ」と女は続けた、彼女によく似た声で。
「結婚」とボクは唱えた。
「普通の結婚じゃなくてね、ヒエロスガモスよ」
「ヒエロス……?」
「太陽と月の結合。わからなかったら調べなさい」
わからなかった。皆目わからなかった。何もかも全然わからなかった。彼女はどこにいる? ボクはどこにいる? ボクはどうしたらいい?
「かわいそう」
と声がした。
4:15AM
凪いでいた海にも時は満ち、ふたたび波が打ち寄せた。繰り返しだ。
「ボクは消えるよ」と車のキーを女に突き出して告げた。「コレで帰ってくれ」
「何ですって?」
「北の丸公園の駐車場にでも乗り捨ててくれたらいい」
わずかな沈黙のあと「あなたって」と言葉が落ちた。「あたしの背後にあるものを見ていて……」と波紋は広がった。「あたしを見ていない」
地震みたいに震えた、何かが。あるいはそれはボクの心だったのかもしれない。心、とボクは思った。
ひどく哀しげな顔が正面にポツンと浮かんでいた。
深く目を閉じた。そして開くと、踵をかえして部屋を出た。
4:27AM
橋を渡る。ふたりで来た道をひとりで戻る。
もう月は見えない。真っ暗だ。彼女は消えてしまった。
誰かが闇に残される。いつだってそうだ。
かわいそう、と言葉が響く。
いつも同じ台詞で物語が終わる。
かわいそう。
わんわん泣いた。
泣きながら歩く。
泣き声はどこにも届かない。果てしない闇のかなたにただ消えてゆくだけだ。
と、思った。
だけど。
だけどそのとき背後から光がさした。
ハッとして立ち止まる。聞き慣れたエンジン音。振り返る。
車が停まった。ドアが開いた。中から影が現れた。
橋の中ほどに影は標識のように立った。そして、そのまま動かない。
ボクは影の台詞を待った。
4:31AM
「涙を拭きなさい」と影は言った。「そして始めるのよ」
「始める?」
「そうよ」とライトの光の中に歩み出てアキは静かに告げた。「朝から夜まであなたはずっと存在してなかった」
存在。
「でもあなたの正体がわかったの」
正体。
「だからあたしが照らしてあげる」
彼女だった。そこにいるのは彼女だった。
「あなたがあたしを照らしてくれたように」
照らす……。
「だから始めなさい」と彼女は言った。正面から言った。「まずは存在することから」
見上げると、月があった。まだあった。雲が去り月はふたたび輝いていた。
月光に照らされながら彼女は続けた。「あなたはどこにでもないここにいるのよ……」
ここにいる……。
彼女が近づいた。両手がボクの頬を挟んだ。
「あたしの正面に」
アキの瞳にボクが映っていた。
「乗りなさい」とアキは言った。
ボクは助手席のドアを開けた。
4:35AM
車は橋を渡った。
「どこに行くの?」とボクは尋ねた。
「輝かしき明日に」とアキが応えた。
痩せる月、黒い月、太る月、満ちた月、月は形を変え、位置を変え、角度を変えて昇りそして沈む。
一緒にいたらいいじゃないか、と単純に思えた。アキの中のさまざまな月と。
4:40AM
「あんたってば素粒子みたいにふるまうんだもん」とドライバーズシートのアキが言った。
素粒子のふるまい、なんだっけ、そうだ量子力学だ。
「量子」
「そう、量子」と横顔が頷く。「捉えようがない存在」
「オバケみたいな言われようだな」
「ほとんどオバケよね、世界の素ってやつは」と言ってアキは笑った。「そんな量子があんたの正体。違う?」
月を見たかった。
「開けてもいいかな?」と天井を指差す。
アキが速度を落としてくれた。
屋根が開いてボクらは底なしの宇宙に剥き出しになった。
シートを倒して空を仰いだ。
月がボクらを見ていた。
「あのね」と風の音に混じって声がした。「鏡に映る姿ってさ、左右は反対になるのに、上下は反対にならないでしょ、なんでだと思う?」
本当だ、と驚く。なんでだろう。「なんでかな?」
「それはね……」とドライバーは語った。「あなたがね、いるからよ?」
よくわからない。
「あなたの左目はあたしの右目であたしの左目はあなたの右目だってこと」
さっぱりわからない。でも、と思った。感じることはできる。
「逆転」と呟いてしまった。今やオールはアキの手に握られているのだ。
「あたしたちはね、いつだって向き合うことができるのよ」
4:45AM
留まることなんて確かにできない、と思った。地球がクルリとスピンして朝が来たなら夜は消える。陰りに息づく永遠も地形を露わにして消滅してしまう。
けれども、と抗うように思う。移ろいは繰り返すのだ、満ちては欠けて、しかし欠けては満ちるのだ。
「運転を代わろう」とボクは言った。「交替で走ろう」
淀むなんてできない、生きているなら。
4:49AM(39:99P)
いつの日か彼の太陽も沈み、映し出されていたまぼろしもみな消えてしまうのだろう。覚めた雪原を青く照らすのは月明かりかもしれない。
4:55AM
「海まで走りましょう」
とキミは言った。
「海へ」
とボクは応えた。
車は交差点に差し掛かっていた。信号機は点滅している。ブレーキに爪先を乗せながら戸惑った。「どっちが海かな?」
「どちらでも」
「何だって?」
「おバカさんね」とキミは笑った。「日本は島国よ。東西南北どっちに向かって走ったって行き着くところは海じゃないの」
そのとおりだった。
ブレーキをアクセルに踏み替えて未明の交差点を通過した。 了