僕も妻も蠍座生まれなんである。
生まれた年はまあ違うわけだが、
誕生日は1日しか違わない。
星占い的にいうなら、
太陽の角度が1度しか違わない
ということだ。
太陽は、
「人生の目的」を象している
と言われている。
だからなのか、
僕ら夫婦には
よく似たところがあったりする。
むかし妻だった別の女性の月(妻を象す)は
僕の太陽(夫を象す)とセクスタイル(60度の調和角)だった――
とあとから知った。
太陽と月のセクスタイルって
伝統的な夫婦関係を暗示している――
らしいので、
よき父やよき母になれる相性だった
ようなのである。
結婚を前提に一緒に暮らしていたまた別の女性の月も、
僕の太陽とトライン(120度の調和角)だったみたいで。
こちらもまた
安定的な夫婦関係を暗示している――。
おまけに、
結婚していた女性の太陽と僕の月は
タイトなコンジャンクション(0度)だったし、
同棲していた女性の太陽は僕の月に対して
タイトなトライン(120度)だった。
つまりどちらも、
「夫唱婦随」になれそうな相性――
ながらかつ
「その逆」にもなれそうな相性で――、
さらには火星と金星の角度なんかもよかったし――、
端的にいってまあ
相性がよかったはずなのである。
――でも、
別れた。
なんでかっていうと、
彼女たちの目指すところと僕の目指すところが
著しく異なっていたからである。
結婚していた女性の太陽と僕の太陽は
クインカンクス(150度)だったし、
同棲していた女性にいたっては
タイトなスクエア(90度)だった。
つまり彼女たちの目指している場所(太陽)は
僕の目指している場所(太陽)じゃなかったのである。
東に沈む太陽や南に沈む太陽を
太陽系第三惑星的に許容できなかった――
みたいなことかな。
――僕は蠍座だから、
よくもわるくも
完璧主義
なんであるよ。
さらには蠍座の太陽に
海王星
だなんて理想追求型の星が
オーブ(誤差)0度のタイトさで重なっちゃってるもんだから――、
よりいっそうの
理想主義者
なんである。
だもんだから、
自分の目指すところを
パートナーの目指すところに合わせて
柔軟に妥協してさしあげる――
みたいなことが、
申し訳ないけどできなかった。
――とはいえ、
僕の月は
へらちゃら
とした双子座なので、
いろんなことに対して感情的には
なちゅらるぼーんなまでにいー加減だし、
合わせられるところは節操なく
なんにだって合わせちゃう――
ってなところもまたあるわけで。
(←太陽と月が矛盾しあっている=「すべき」と「したい」が矛盾しあっている)。
かつての彼女たちはどちらも、
「僕の月」が惹き付けられちゃう位置に
「自分の太陽」を持っていたので――、
人生の目的地が違うことさえ受け入れられたら、
まあうまくやってゆけなくもなかったのかもしれない
けれど、
僕には
スキ/キライみたいな感情よりも
人生の最終到達地点のほうがより大事だったし、
最後の最後に無理なく隣にいてくれそうな伴侶をこそ
選びたかったのであるなあ。
なので選びに選んで
今の妻を得たのである。
妻の太陽と僕の太陽はコンジャンクション(ニアリー0度)なので、
僕らの行く先は一致している。
目的的に似た者同士。
だから
いくつもの些細なストレスに晒されはするけれど、
かつてのような
根本的な譲れなさはない。
一緒に歓び、
一緒に哀しみながら生きている。
太陽同士がコンジャンクションなカップル
にとってよくないのは、
好調なときは相乗的に好調なのだが
不調なときは相乗的に不調になってしまう点だ。
どちらかの不調をどちらかの好調が支えることができない。
冥王星だとか
天王星だとか
海王星だとか、
トランスサタニアンな
すなわち影響力ありまくりのヘビーな天体が
トランジット(現在の運行)において僕の太陽にアスペクトをとっちゃう(有意な角度を形成しちゃう)ようなときには、
そう、
妻の太陽にも
まんまおんなじアスペクトが生じちゃってる
ってわけ。
――ほら、
よく言うでしょ?
いいこともわるいことも続いておこる
って。
あれは自分のネイタルな(生まれたときの)配置に対して
現在運行中の天体が
よい角度を形成したり
わるい角度を形成したりするゆえ――
なわけですよ。
ネイタルな配置に対して有意な角度を形成している星が
過ぎ去るまでは、
いいことも続くし
わるいことも続くわけ。
だからまあ
逆にいうなら、
そのうち過ぎ去るわけですね――
よいことも
わるいことも
みんな。
糾える縄のごとしなんでありますな――
よいこととわるいこと。
――太陽
っていう重大な天体が
重なり合っている僕らの場合、
影響力のでっかい天体に
葛藤角をかまされたり
対立角をかまされたりすることで、
ふたりそろって
いろいろやられちゃったりするわけなんです。
もちろん逆に
調和的な角度の恩恵を
ふたりそろって
いただけちゃったりもするわけですが。
そう、
【そろって】影響されちゃうのでありますな。
勝利の美酒を分かち合える場面がある反面、
共倒れしちゃいそうな場面もまたあるわけです。
――でもね、
そんなふうに
星占いを信じるみたいに書いてきておいて、
なのに
この記事で
はっきりさせておきたいのは、
なんにせよ占いで
なにかを決めたりは
しないほうがいいかもよ
ってことです。
だって占いは100%じゃないから。
占いに限らないけど
どんなセオリーも
最終形態なわけじゃなくて
発展途上なはずだから。
――つまりですね、
占いで
最悪だ
って出たとしても、
それは、
「要素はある」
ってだけのことで、
つまり、
「そういう部分が確からしくある」
ってだけで、
人や物事の
全体が
ゆるぎなく確定的にそうだ
ってわけじゃ決してない。
――科学でいうなら、
ニュートンの古典力学は
確かに今なお
ある範囲の内側においては正しいのだけれど、
その外側については
相対性理論に頼らなくてはならなくなったし、
じゃあアインシュタインの相対性理論は
ニュートンの古典力学を内包するところの
絶対真理なのか
っていうと、
そうではなくて、
相対性理論ではカバーしきれない例外を
量子力学によって補完してもらわなくてはいけなくなったり――。
そしておそらくは量子力学だっていずれ――。
――みたいにイタチゴッコよろしく
あるいはマトリョーシカよろしく
パーフェクトだと思われていたセオリーも、
それを内包するところの新たなセオリーに
いずれは呑み込まれてゆくわけで――。
「完全無欠」の「絶対真理」
なんてものはたぶん
ありえない。
占いも
当たっている部分がある――ってそれはそれで十分にびっくらくらめーしょんなんだけど――にせよ、
当然ながら
唯一絶対な答え
であろうはずもなく、
常に
それを超えてゆくものにより
包含される形で
バージョンアップされ続けてゆくはず
なのでありますね。
――コペルニクス以前は
精密な望遠鏡で
ここ地球から宇宙を観察して、
でもって地球の周りを星たちが回っている――
って信じて
(ある種の天体はなにゆえか逆行するのだって思い込んでしまえば)なんの矛盾もなかったわけでありますから、
それと同じように
天動説に基づいて成り立っている
たとえば星占いなんかも
遅まきながら
地動説に立脚した修正を加えられるなどして
部分に対しては有効だったけど
全体としては誤謬に満ちたセオリーだったよなあ
みたいに
省みられちゃうようなことが
むしろあって当然だと思うし、
だから星占いを
100%信じて
なにかの判断の礎にしちゃうってのは
非常によろしくない
ように僕には思われるのであります。
星占いを含めた占いは
部分において有意に確からしいけれど
全体としての普遍的妥当性を獲得しては
ぜんぜんいないのでありますな
ってあたりが
科学的な
ふりに立脚したところの
僕の知見(笑)なんであります。
なので、
占い
といういちセオリーに依存し過ぎることなく、
自分の道は
自分の心に訊いてみる
べきで
直感こそが
セオリーよりも
より真実に近い答え
なんじゃないかと
僕なんかは思うわけです。
だから占いに、
なにか実利的な答え
とかを求めちゃうと
きっと裏切られることになる
と思う。
占いがなんで当たるのか――、
そこんとこはわからないけど、
でも当たってるみたいに思えちゃう不思議
に興味を惹かれるし、
そのメカニズムを探求したいと思う
のであるけれど、
探求しきれるはずもなく、
だから占いを
知れば知るほどに
謙虚な気持ち
になれてしまうのです。
人智を超えたなにかしら
の存在が嬉しいし
なんだか
ほっとできる。
占いは
利益を得るため
じゃなくて、
受容を経て
よい意味での諦めを得るため
にこそあるんじゃないかなあ。
そんなふうに関わっていさえすれば
占いに
惑わされることもないんじゃないかと思う。
ダイバーは
溺れちゃいけないってこと。
道は
星に訊くんじゃなくて
自分の心に訊けばいい。
――宇宙と人との
また宇宙と出来事との
「共時的な模様」(易者の易でありますな)
に畏怖しながらも惹き付けられて、
なんで?なんで?
ふしぎ!ふしぎ!
おもしろい!おもしろい!
と感じながら
自分や世界のなりたちを
直観的に探求してゆくことは
とてもスリリングなことだけど、
いや、
だからこそ、
占いに驚かされつつ
しかし占いを超えて
自分の直感で
すべてを
選択したらよい
のだと思う。
僕は妻を選択した。
占いによっては
最悪の相性
みたいに書かれていたりもする。
ま、
そういう要素もないことはない
のかもしれないな。
でも、
一部ではなく全体として僕は
占いを超えて
自分の選択で
占いの外側を目指してゆくつもりだ。
――星たちの角度が描く模様は大変に興味深い。
けれども僕らはみな、
たぶんそれらを超えてゆく。
外には外があり、
そのまた外にも外があるのだ。
ここは過渡期で
旅はまだまだ終わらない。
*
さて、あひろ場で――
Tさんから、Tさんの旦那さまの配置を見てほしい、という依頼を受けました。
出生時刻は不明でありました。
仮定の時刻2つで角度を読ませていただきました。
出生時刻の違いが配置図全体に対して、どのような影響を与え得るのか――🤔?
許可を得られましたので、結果を転載させていただきます。
ご参加ありがとうございました😃!
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▼あひろ場