傷だらけのスント(1892文字)
Aという友達がいた。
代々の、土地だったかに恵まれて、金に不自由をしていないようだった。
時計や眼鏡や、スニーカーに金をかけていた。
「これ、いくらだと思う?」
と居酒屋で、腕時計を見せながら僕に尋ねた。
――さあ? いくらなの?
と尋ねかえす。
すると、
「50万」
とか、応えるのであった。
眼鏡も、おっそろしく高価なものであったらしいが、彼の曇り気味の表情には、あまり似合っていないように感じられた。そんなことは言わなかったけれど。
「親父狩り」に遭っちゃいそうなくらいにレアなスニーカーも、彼が履くとモビルスーツの足みたいにしか見えなくて、控えめに言って、かなり悪趣味に思えた。やっぱりもちろん、そんな指摘はしてやらなかったけど。
あるとき飲み屋で、僕の腕の、ひっかき傷だらけのスントを見て彼は言った。
「その時計、いいな」
海や山で酷使していた時計は、随分傷んでいて、街中で使用するにはいささかワイルド過ぎるようにも感じられた。
でも僕は気に入っていて、オフでもオンでもそれを巻いていた。
オーダーメイドのシャツを作りに行ったときにすら、それをつけていて、店員に言われた。
「スントですね」
――はい。
「いいですよね、スント。私もレガッタタイプを持っています」
――あ、僕のはこれ、マリナーだったかな。
「マリナー、日本に上陸していたんですね」
――あ、並行輸入品だから。ええと、ネットで安かったんで。
「ビジネスシーンでも着用を?」
――はい、年がら年中。
「では、手首周り、こちら側は緩めにしておきましょうか」
頷きながら、プロだな、と思った。
ごつい時計が、シャツの下に気持ちよく収まるように配慮してくれたわけだ。
愛用の時計の居場所が、ちゃんと確保されて僕は嬉しかった。
ともあれ、そんなわけで、青と緑の中間みたいな色のマリナーは、まるで体の一部であるかのごとくに僕に愛されていたのである。
そんな時計について、Aは興味を持ったようで、数十万円の時計を巻いた腕でジョッキを傾けながら言った。
「いいな。高いのか?」
――安いよ。
と僕は応えた。
――去年、取材でフィンランドに行ったときにさ、空港なんかでやたらとCMしててさ、まずデザインが気に入ってね、で、帰国してからインターネットで見てみたら機能的にもいい感じなんで、だから通販で買ったんだよ。国内の、正規のやつはいくらするのか知らないけど、並行輸入で買ったからさ、そうだな、この飲み会の、オレとおまえの勘定を足して倍にしたくらいかな。
「安いな。カッコいいのにな。そんなに安いんだな」
僕は話題を変えた。
でもって酔っぱらい、時計のことなんて忘れて帰宅した。
後日、また居酒屋でAは、腕を見せて言った。
「買ったよ、スント」
茶色とオレンジの中間みたいな色のベクタータイプが巻かれていた。
――いい色だな。
と僕は応じた。
「あと白と、それから黄色も買った」
とAは嬉しそうに報告した。
火星人じゃあるまいし、と僕は思った。おまえも腕は2本だろうがよ?
ニヤニヤ笑っているA。
さらに続けて僕は思った。
白? 黄色? 悪いが、たぶん、まったく全然てんで似合わないよ?
キャンプも嫌いで、海よりプールを好む男である。スポーティーなカラーたちだって、彼の腕をきっと十分に居心地悪く感じるだろう……。
Aは、馴染みのスナックに、バカラのグラスをプレゼントするような男であった。
ママさんが優しくしてくれなくなった……、と言ってから彼は呟いた。
「そろそろバカラの効果が切れたかな」
やれやれ、と僕は、春樹の小説の一人称みたいに思った。
彼は買いたいのだ、自分の価値を、金で。
金さえ出せば、モノはたやすく手に入る。
モノの価値を、自分の価値だと信じ込みたいのだ。
でも、高価なモノは、彼の自己肯定感を高めるどころか、低めることしかしていないのだった。
威張って見せる一方で、その実自信のない彼が、女性にモテるはずもなく……。
「ナワシロはそんなチンケな靴履いてるくせに、なんでモテるわけ?」
だなんて真顔で言うんで呆れるしかなかった。
Aには、いいところだってたくさんあった。話が面白かったり、曇った表情が、なにかの拍子にパッと晴れたり。
――金やモノじゃなくって、自分に頼ればおまえはモテるよ。
そう言ってやればよかった。
やがて彼は、僕らとの関係性を断った。
今、どうしているのか知らない。
共通の友人に尋ねても、わからない。
先日、スントのマリナーが壊れた。
ン十年選手だからしかたない。
他の時計をメインに使うようになって久しく、元よりスントの出番は減っていたが、でも直してまた使うことにする。
傷だらけのスントを、そう簡単に手放したりはしない。