寛くなりたい
柄にもなく――かもしれないが、愛、について考えている。
愛、とはいったい、なんじゃらほい?
――思いやり、であろうか?
思いやり、とはなにか?
相手の立場や、相手の気持ち、相手の事情などを想像して、配慮してさしあげることだろうか?
共感、みたいなこと?
やさしさ、みたいなこと?
最近、やさしさについて考えていたのだ。
――「やさしさは、弱さに似ている」と思っていた。
映画『グリーンマイル』なんかを観てそう思った。
ある方の小説を拝読したら、そこに、『やさしさとつよさをかねそなえた人』みたいなことが書かれていて、で、十年以上前の漫画『金色のガッシュ!!』に「やさしい王さまになる!」みたいなことが描かれていたなあ、などと思い出し、僕もつよくてやさしい人になりたいなあ、と思った。
やさしい人が、困難に立ち向かい、つよさを身に付けたら、「つよくてやさしい人」になれるようだ。
『金色のガッシュ!!』で、落ちこぼれの魔物であるガッシュは、ちいさきものを守りたい「やさしい心」を、清麿という人間とバディを組んで闘う経験により「つよい心」に育ててゆく。ガッシュは、ちいさき者がかなしまなくてすむように「やさしい王さま」になろうとするのであった。
そうだ、やさしさは、つよさとのカップリングにおいてはじめて「守る力」となるのだ。
もしも僕が「やさしい人だったら」(だなんてそんな歌があったな)――、困難に打ち克って「つよさ」を手に入れ「つよくてやさしい人」を目指すだろう(ガッシュみたいに)。
でも僕は、やさしくなんかない。
だから、逆のベクトルを考えなくてはならない。
自他に厳しい、それなりに「つよい人間」が、やさしさを手に入れるために必要なことはなんであろうか?
挫折をしたり、病を得たり――、自分のよわさを受け入れざるを得ないような試練に晒される必要があるのだろうか?
ひとの痛みがわかれば、ひとの痛みに思いを巡らすことができるのであろうか?
それとも、
くるしみやかなしみを体験して、人は、ますます他者に厳しくなってしまうのであろうか?
自分はこれほどの苦難を生き抜いたのだ、ちっぽけな困難に喘いでいるやつらは甘ちゃんである――みたいに?
あるいは、と思ったのである。やさしさは、愛、によりて身に付け得るものなのかもしれない――。
愛に触れたら、やさしくなれるのだろうか?
やさしさが愛である、とは、僕は思わないが、愛、なるものを知らなくては、やさしくなれないのかもしれない。
愛、とはなにか?
と、だからであろう、最近よく考えるのであった。
思いやり、とは、相手のよわさを(あるいは、至らなさを)ふくんでさしあげることであろうか?
ゆるす、ことであろうか?
責任をもって相手を守る――みたいなことならできる気がするのだが、相手をありのまま、つまりは間違っていたり、至らなかったり、情けなかったり、嘆かわしかったりする部分もふくめて受け入れる――みたいなことはなかなかに難しく感じられる。
自他のよわさを認める――みたいなことは、これ、なかなかに、なんでなんだろなあ、胸の痛むことなのである!
間違いや、至らなさを、赦し、できたらそれを肯定する、みたいなことが、もしかしたら、愛、であり、それを体得することが「やさしき人」になる条件なのであろうか?
法学部に在籍していたとき出会った「ユスティティアの女神」(法の精神を体現した女神像)は、目隠しをして、片手に秤を持ち、もう片方の手に剣を持っている。
目隠しは「情に流されないため」のものであり、秤は「客観性を担保するため」のものであり、剣は「裁定の下った間違いを容赦なく切り落とすため」のものである。
ユスティティアの女神はやさしくないし、やさしくあってはならないのであった(あるいは、「特定の誰かにやさしくしちゃうことで別の誰かが損なわれたり……しないようにする」――という意味での「厳しいやさしさ」を体現している)。
そういう精神に影響を受けてしまったのであろうか、僕は客観的合理性を重んじがちだし(少年時代はもっと主観的だった気がするんだけどなあ)、甘えや怠けや誤魔化しや卑劣さを、冷たい目で眺めてしまいがちであったりもする。
まったくの他人の間違いや至らなさなら、なんてことなく容認できちゃう(というか、単にスルーしているだけなんだろうな)のであるが、自分が期待を寄せている人の間違いや至らなさについては、これを受容することが苦しくてたまらない。
頑張れっ!
と励ましたくなってしまう(気鬱の病を得てしまっているような人に対しては、もちろん配慮するのであるが)。
そういうのは、愛、でも、やさしさ、でもないのかもしれないな。
がまんはしたくないけど、がまんじゃなくて、あきらめて、受容して、全肯定する、みたいなことができなきゃ「やさしき人」にはなれないのかもしれない。
――僕は器じゃないのかもしれないけれど、でもまあ僕なりに、遅まきながら僕を改良してゆきたいとも思っている。
……やさしさはたぶん、寛さに似ているんだと思う。
寛くなりたい。