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多様性とは

多様性という言葉がある。僕も学校で聞かされたことがある。

中学校の歴史教師によればそれは「これからくる言葉」で、以降は実際に広告などで毎日のように聞く言葉になったと思う。

アルバイトアプリの広告で粗品さんが「多様性の時代」と言うのが象徴するように、「多様性」は肯定的な意味で使われているらしい。

しかし、本当にそうだろうか?

僕が訝しいと思うのは、その使われ方だ。つまり「多様性」という言葉にも様々な含みがあって、それは肯定的な意味だけではなく、反対に、否定的な意味も持つはずなのだ。

もし肯定的な意味しか持たないと仮定すれば、それは使ったもの勝ちになってしまう。何を言われても「多様性だ」の一言で「勝ち」ということになってしまい、そんな奴の相手はしたくないので、結局は「社会の分断」に繋がるのではないか。

モルヒネ アトロモール ナルコポン パントポン パビナアル パンオピン アトロピン
 プライドとは何だ、プライドとは。
 人間は、いや、男は、(おれはすぐれている)(おれにはいいところがあるんだ)などと思わずに、生きて行く事が出来ぬものか。
 人をきらい、人にきらわれる。
 ちえくらべ。
 厳粛=阿呆感
とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。

太宰治『斜陽』

これは登場人物の直治が戦後、南方から帰還した時のノートに書かれていたものであるが、現代のインチキは当時のそれと変わらないように思われる。

「厳粛」=「阿呆感」この定式を敷衍すれば、
「戦争状態」=「多様性」とまで言えてしまう。

あくまで使われ方がおかしいという話である。

「多様性」が生じる原初を辿れば想像を絶する不幸があったかもしれないし、「多様性」自体が不幸とも言うことも出来る。

そして、それこそが真に「多様性」なのではないだろうか?

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