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ミシェル・フランコ『Daniel & Ana』――日常に染み込む消せない暴力の痕跡
何かが壊れる瞬間は意外なほど静かに訪れる。メキシコの俊英ミシェル・フランコの長編デビュー作『Daniel & Ana』(2009年)は、ある事件をきっかけに兄妹の関係が変容し、元には戻れなくなる過程を冷徹に描く。フランコ作品に共通する「暴力と支配」「沈黙の中で深まる溝」というテーマがすでにここから始まっている。
ダニエルとアナはメキシコシティの裕福な家庭で育った兄妹だ。アナは婚約者との結婚を控え、ダニエルは思春期の揺れる時期にある。二人の関係は良好で、何の問題もないように見える。ところがある日、二人は突然何者かに誘拐され、想像を絶する出来事が起こる。その後無事に解放されたものの、二人の間には言葉では埋められない裂け目が生まれる。
フランコはこの映画を通して「暴力の痕跡」を描こうとする。事件そのものは前半で短く描かれる。重要なのはその後の兄妹の沈黙、視線の交わらなさ、壊れた関係がどのように生活の中に浸透していくかという点だ。事件の後アナは結婚の準備を進めようとするが、以前のような感情を持てないことに気づく。ダニエルは何が自分の中で変わってしまったのかを理解しようとするが、それを言葉にすることができない。
フランコは実際にメキシコで発生した誘拐事件をリサーチし、被害者の心理的変化を細かく調査した上で脚本を執筆した。フランコ作品の特徴として、衝撃的な出来事の直接的な描写よりも「その後に何が残るのか」に焦点を当てる。本作でも事件はトリガーに過ぎず、本質的には「日常の中で見えない形で続く暴力」を描いている。
『Daniel & Ana』はデビュー作にしてミシェル・フランコの作家性がすでに確立されている。彼がその後の作品で掘り下げていく「社会の中で翻弄される個人」というテーマの原点とも言える。大きな衝突や感情の爆発はなく、乾いた空気が全編を支配し、登場人物たちは自らの傷に向き合う。
2010年カンヌ国際映画祭監督週間でワールドプレミア。日本では未上映。