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ミシェル・フランコ『あの歌を憶えている』―― あの歌が響くたびに蘇る、言葉にならない感情の断
人の記憶は曖昧だ。時の流れの中で変化し、他者の記憶と交錯しながら思いがけない形で蘇る。忘れることで癒える傷もあれば、忘れたくても消えない傷もある。ミシェル・フランコの『あの歌を憶えている』(2024年)は、傷を抱えた人間同士が出会い、共に時間を過ごすことで過去と向き合わざるを得なくなる物語だ。
シルヴィア(ジェシカ・チャステイン)は、介護士として働きながら過去にトラウマを抱えて生きている。ある日、高校の同窓会でソール(ピーター・サースガード)と再会する。彼は認知症を患い、記憶が断片的に失われるようになっていた。
二人の過去には深い繋がりがある。シルヴィアにとってソールはけして忘れられない存在だが、ソールはシルヴィアを忘れかけている。シルヴィアにとってソールとの再会は過去と向き合う機会となり、ソールにとっては消えゆく記憶の中で掴める確かな存在となる。
シルヴィアは自身の過去と向き合うことを避けてきたが、ソールとの時間の中で、かつて抑え込んできた記憶と向き合わざるを得なくなる。ソールは記憶が曖昧になりながらも、シルヴィアとの関係を通じて時間にしがみつこうとする。二人の間には救済や解決が用意されているわけではない。互いの存在がそれぞれの過去を映し出す鏡のような役割を果たしていく。
二人はどちらも過去と折り合いをつけることができないまま曖昧な現在を生きている。ミシェル・フランコは二人の関係を、台詞ではなく視線や間合いの中で描いていく。シルヴィアは何を語るべきかを知っているが、それを言葉にすることができない。ソールは言葉を交わしながらも、その意味を把握できていない。記憶の曖昧さのように二人の現在もまた曖昧なまま進んでいく。
『あの歌を憶えている』は過去を克服する物語ではなく、過去に囚われながらも記憶に飲み込まれずに生きることを模索する物語だ。シルヴィアの記憶は消えず、ソールの記憶は確実に失われていく。しかしその交差点で生まれる時間は二人にとって確かなものとなる。ミシェル・フランコはこれまでの作品で繰り返し描いてきた「社会の中で翻弄される個人」というテーマを、舞台劇のようなミニマルな形で提示してみせる。
2023年ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門で上映、男優賞受賞。2025年2月21日日本公開。