天津教の予期せぬ実現
当局による大本や天理教の弾圧の風聞が天津教の竹内巨麿にも入って来た。
御嶽教を離れた年に弾圧を以前経験していた竹内はじめ天津教は竹内文書の原本、高祖皇太神宮の神宝類を当局に押収されることを懸念した。以前は土に埋めたが今回はそのように上手くいくのだろうか。
思えば東京に神宝の奉安殿をつくるという夢を数年前に渋谷の料亭で竹内たちは話し合ったことがあった。
東京奉安殿には上古代に天空浮船で世界を巡幸したとされる天皇の歴史などが記された竹内文書はじめ、太古天皇の神骨神体、モーゼの表・裏十戒石、ヒヒイロカネで造られた神日本魂剣など三千点は神宝が納められるだろう! それは神宝たちのパンテオンであり聖堂であった。
しかし東京奉安殿は実現せず危機だけが迫っていた。磯原にある高祖皇太神宮には多数の名士、軍人が神宝拝観で訪れていた。その中に皇道派の秦陸軍中将がいた。神宝拝観以来、この皇道派の領袖である真崎甚三郎の腹心は天津教の共鳴者であった。権力の横暴には別の権力で守らねばならない。竹内は秦に相談した。
特高側の資料には天津教側の動きとして「……神宝の大部分(約五百点)を客年十二月二十八日に夜陰に乗じて密かに搬出し、東京市内某所にその保管を託するに至れり」とある。これを探知した茨城県当局は内務省と検察当局と協議の上、昭和十一年(1936年)二月十三日に竹内らは検挙され家宅探索が行われた。容疑は「神宮及神祠に対する不敬」である。
「然るに前叙の如く重要証拠物件たる「御神宝」の大部分は既に搬出しありて、其の所有者竹内を始め之が保管者等は屡々の説得、交渉にも肯せず、其の提出を拒否したる為、取調上多大の障害を生じた…」とされる。
どこへ神宝は搬出されたか? 特高資料では東京市内某所となっているがそれは靖国神社(遊就館)である。
軍部が交渉に応じないという形で抵抗し、当局もはじめ遊就館に手を出せなかった。しかし竹内は強要(拷問かもしれない)され、神宝の提出許諾書を書くことになる(同年四月三十日)。
このようにして最終的には当局の手に神宝は押収されるが靖国神社の遊就館に神宝が約五ヶ月の間保管された。奉安ではなく保管ではあるが神宝が靖国神社の神域にあったこと自体が奇跡のように感じる。竹内が夢見た東京奉安殿がこのような形で短くながらも実現したと言えないだろうか。歴史のアイロニーのように思える。
《引用・参考文献》
佐治芳彦(1993)『謎の竹内文書: 日本は世界の支配者だった』徳間書店.
・神宝の画像はこちらから。
明石博隆,松浦総山 編(1975)『昭和特高弾圧史〈3〉宗教人にたいする弾圧 上』太平出版社.
・特別高等警察の資料はこちら。
藤原明(2020)『幻影の偽書『竹内文献』と竹内巨麿 超国家主義の妖怪』河出書房新社.
原田実(2020)『偽書が揺るがせた日本史』山川出版社.
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