そろそろ行こうか
小高い丘の上でぼくと彼女は腰掛けるのに丁度いい石の上に2人、朝日が浸み渡っていく街並みを見下ろしていた。
「そろそろ目が覚める頃だと思う?」
ぼくたちの後ろで眠っている彼が起きるまであと少し。
「そうだね。あと少し眠ったら目が覚める頃かな」
ぼくは両腕をうーんと空に向け、これでもかというくらい伸びをしながら彼女の質問に答える。
「ねぇ、そろそろ引っ越しだと思う?」
ぼくと彼女と彼が長い旅の果てにこの地を選び、ここに住み始めてから長い時が過ぎた。
「そうかもしれないね」
ぼくは伸ばした手を下ろし、眼下に広がる家々を見ながらそう答えた。
朝夕の冷え込みを感じるようになり、山々が赤や黄色の衣をまといはじめたあの日、眠りから目覚めた彼の「そろそろ行こうか」という一声でぼくたち3人は住み慣れた前の家を引き払うことになった。
今と同じような小高い山の頂上近くにあった前の家では、毎日動物たちと遊ぶことが出来たし、話し相手に困ることだってなかった。季節の節目には山里からたくさんの人が来て、みんなワイワイとにぎやかに過ごしていた。
季節が何度もめぐったあの日、ふもとの町に国王の使者が訪れた。
あの日から山の動物たちは、山を登ってくる武装した人間におびえていつもびくびくするようになり、ぼくたちと遊ぶ時間はめっきり減ってしまった。遊んでいる時でも草むらに人の気配がする度に、楽しい空気は一瞬にして殺伐とした冷たい空気に変わってしまう。
ぼくたちの家を訪れる人も月に数人あるかないかまで減り、山に来る人は今までとは違い険しい顔をしながら動物を追いかけ、傷を負わせていくばかり。季節の節目でさえ人が集まることがなくなり、家はどんどんと寂しさに浸食されていった。
それに合わせるように彼の眠る時間は日に日に長くなり、1日のうちで起きている時間が2時間を切るくらいになったころ、彼は目覚めと同時に「そろそろいこうか」とつぶやいた。
「もうちょっとここに居られないかなぁ」
彼女はこの場所からは見えない、川沿いにぽつんと立つ小屋の方をみつめながらそう言った。
ぼくらの家の横を流れている川をずーっとずーっと下っていた大きな桜の木の下に立つ小屋には、男の子がお母さんと2人で住んでいる。男の子はぼくたちの家に週1回ほどのペースで遊びに来てくれていて、ぼくも彼女も男の子と遊んだり話したりするのをとても楽しみにしている。
男の子とは春になると山菜を一緒に取りに行き、夏は川でキラキラと水しぶきを上げて大騒ぎをしながら魚とりをした。秋には食べられるキノコを土でドロドロになりながら探し、冬は寒すぎて他の季節ほどは遊べなかったけど木登りや焚火を一緒に楽しんだ。
男の子のお母さんは体が弱いらしく、ぼくたちの家に来てくれたのは片手で数えられるくらいだったけど、とても優しい顔で笑う男の子のお母さんのことが、ぼくも彼女も彼も大好きだった。
「そうだね」
ぼくも彼女と同じ意見だ。
ぼくらの時間であと少しだけ。
あの男の子が天寿を全うするくらいまではここに住み続けていたいと思う。
「彼はなんていうかしら?」
「さぁ」
「でも、まだ時間はあるわよね?」
「たぶんね。まだ、6時間くらいは起きている時間があるし…」
とはいっても、まだ半日起きている時期でも「そろそろ行こうか」と彼が言い出したことが何度かあることをぼくも彼女も知っている。
そして彼の言う事はぼくと彼女には絶対だ。
彼が目覚めた時「そろそろ行こうか」と言うのか言わないのかは、彼が起きてみないことにはわからない。
ぼくと彼女と彼がいなくなってしまえば、このあたりはとても住みにくい土地になってしまう。山の実りは極端に少なくなり、田畑の収穫物も減る。そして、人が集まる場所では大きな諍いが頻発することになるのは間違いないだろう。
「もう少しだけでいいんだけどねぇ…」
彼女が小屋の方から目を離さずにつぶやいた時、ぼくの目の前をお母さんを背中におぶった男の子が横切った。
涙を流し歯を食いしばりながら歩いていく男の子。その背中にいるお母さんの顔の色はいつも以上に青黒く、手足はだらりと力なく垂れさがっているように見えた。
「え?」
「今の見た?」
ぼくは彼女と同時に顔を見合わせ、声をあげた。
2人が進んで行った先には切り立った崖がある。男の子とぼくと彼女の3人で崖を覗きこみながらおしゃべりをしたこともあるので、男の子はその先が崖であることは当然知っているはずだ。
「そっちは!!いけない!!!」
ぼくと彼女は大声で叫び、勢いよく立ち上がると二人の後を追った。
しかし、2人はもう崖のすぐ手前まで進んでいた。
「ダメだよ!」
「あぶない!」
ぼくと彼女がありったけの叫び声を発した時、男の子はこちらを振り向いて少しほほ笑んだ。
「ここから飛び降りたら天国へいけるんでしょ?」
確かにあの時、そんな話をしたような気がする。でも、あれは作り話。この地に伝わるおとぎ話。帰り際に「そんなことあるわけないよね」って言ってくれたから、ちゃんとわかってくれたと思ったのに。
「まって!!」
というぼくの声が男の子に届く頃には、二人は崖の向こうに姿を消していた。
「神様!!!」
ぼくと彼女はぎゅっと目をつぶり、彼に祈りをささげた。
その声が届いたのだろうか。
眠っていたはずの彼がぼくと彼女の後ろに立っていた。
ぼくも彼女も救いの言葉がその口から出てくることを期待した。
しかし彼は少し微笑んでいるかのような顔でひとことこう言った。
「そろそろ行こうか」