
みらいのかいご
私たちの住む町からは大きな山が見える。
子供の頃、遠足で登ったあの山から見た町の景色は、今でも瞼を閉じればはっきりと思い描くことが出来る。田んぼが広がるのどかなこの町。それは私の故郷そのものだ。
そしてあれから今まで、私は一人で何度もあの山に登った。辛い時、悲しい時、嬉しい時。山はいつだって私を受け入れてくれた。
山頂にあるお気に入りの岩に腰掛けると、私の心は軽くなる。そして心地よい風に吹かれながら町を見下ろし、暗くなれば満天の星を見上げる事で私はいつも『帰ってきたのだ』と心の底から思うことができた。
あの山の上から見る街も空も、それだけでなく町から見上げる山の風景も私はとても大好きだった。
私が中学生になる頃、この町には電車が通るようになった。
都心に出るのに便利なこの町には徐々に人が増え、それに伴って家も増え続ける。家では収まりきれなくなった人のためにマンションと呼ばれる高い建物がどんどんと建ち、のんびりとした町は随分と忙しい街へと変化してしまった。時代の流れと言ってしまえばそうなのかもしれないが、私は山に登り、街を見下ろす度に知らない場所に来てしまったような、そんな気持ちになるのだった。
帰りたい。
変わりゆく景色の中で私は何度もそう思う。
しかし、帰りたい場所はもうどこにも存在していない。
切ないような寂しいような、世界に自分がしっくりとハマっていないような。そんな気持ちになりながらも、この便利な場所から離れることが出来ないまま私はこの街で年を重ね続けた。
大人になった私が結婚し、子供たちが生まれる前の年。あの山は前触れも無く立ち入り禁止区域に指定された。
最後にあの風景を一目見ようと私は一人、日が沈んだ後に人目を偲んで山道を登りはじめた。私が求めていた景色はもうそこには無いのだとわかっていても、私は山に登らずにはいられなかったのだ。
登り始めて十分ほどした頃だろうか。私がこれから進む道が鉄柵でふさがれ、かなり太い鎖とこぶし大の南京錠でしっかりと施錠されているのを見つけてしまった。何度も何度も通った道なのに物々しい鉄柵があるだけで、向こう側に何か恐ろしい動物でも潜んでいるような不気味な感じがした。
もうあの場所は本当に無くなってしまったのだ。
大きな喪失感を最後の思い出として、私はすぐに山を降りた。そしてあれ以来、私は山には登っていない。
それからほどなくして山の中腹の木々が切り倒され、山には大きな『ハゲ』が出来た。
裾野と山頂には緑が生い茂っているのにもかかわらず、中腹に大きな白いハゲ。街から見上げる山の風景すらもどこかの誰かが奪い去ってしまった。私は故郷にいるにもかかわらず、私の故郷はもうどこにも見当たらない。
だからといって過ぎていく日々が変わるわけでもなく、私は忙しい毎日を過ごすしかなかったのだけれど。
ある日、ふと山を見上げると山のハゲに沢山の人工物が立ち並び始めているのが見えた。
ハゲを埋めるようにどんどんと出来上がっていく建築物。木々の生命力を感じさせる緑色に挟まれた命の感じられない白い建物たち。それは見る見るうちに真っ白なビル群へと成長を遂げた。
一つ一つの建物は100階ほどあるのだろうか。超高層ビルは天気がとてもいい日でも最上階部分は霞んで見ることが出来ない。私が今まで生きてきた中であんなに高い建物を見かけたことは一度も無い。
一体誰がなんの目的で建てたのだろう。
見慣れた山に見慣れない建物が乱立していくその景色を街の人たちもはじめのうちは面白がって噂していたけれど、高層ビル群が完成して数年もするころにはもうすっかりと飽きてしまい話題に上ることすらなくなってしまった。
私もいつしか興味を失い、あの山にはもともとあの白い高層ビル群があったかのように、私の頭に浮かぶあの山の風景には白いビル群がセットで思い浮かべられるようになっていた。
ーー
「お父さん、お茶が入りましたよ」
「ああ、美津子。いつもすまないね」
私は布団に横になっている主人の横に座ると、彼が起き上がるのに手を貸した。昔はがっしりとした体格をしていたのに今ではもう見る影も無く、すっかりと枯れ果てた主人。とはいえ、私もすっかりとおばあちゃんになってしまっているから、人のことは言えた義理じゃない。
「それにしてもいいお天気ですね」
彼が布団の上に座ったのを確認すると、掃き出し窓に目を向けてそう呟く。彼も私と同じ方へ顔を向け「そうだね」と小さく呟いた。
窓から見える小さな庭には、青々とした芝生が綺麗に生えそろい、つい先ほどスプリンクラーでたっぷりと与えられた水をキラキラと輝かせていた。
濃い緑は生命力を感じさせる。ふと彼を見ると、彼は目を細めて眩しそうに芝生を見つめていた。
「思えば長く生きたもんだ」
そうぽつりと口にした彼は、今何を考えているのだろう。
そんな彼の横顔と小さな庭を見ながら、私はこの家を買った時に想いを馳せた。あの時はまだ子供たちも生まれておらず、これからの生活に向けて胸を躍らせていた頃だった。
「お庭が素敵ね」
この家を見せてもらった後、私は彼に小さく耳打ちしたことを覚えている。猫の額のような小さな庭にもかかわらず、私はすっかりとこの庭が気に入ってしまったのだ。庭から見えるあの山は、求めていた姿を見せてくれたわけでは無いけれど、やっぱり私は山の存在を感じていたいと思っていたのだろう。
だから、彼がにっこりと笑いながら「みっちゃん、あの庭の家にしよう」と言ってくれた時は、背中に羽が生えたかのように体が軽くなったものだ。あの時のことは、今でも昨日のことのように思い出すことが出来る。
そう言えばあの山の白い建物たちを最近見ていないような気がする。私は座ったままでは見えないあの山の、最近見たであろうその姿を頭に思い描く。するとそこには白い人工物は存在していなかった。
山の木々が生い茂り、高層ビルたちをすっかりと隠してしまったのだろうか。自然のチカラとは本当にスゴイものだ。
そんなことを考えていると、彼が口を開いた。
「いつもすまないね」
私が手渡した湯飲みを持ったまま彼は、じっと私の顔を見つめる。
真っ白になった髪に深く刻まれたシワ。そんなに見つめられると恥ずかしい。
「嫌だわお父さん。そんなに見つめられたら恥ずかしいじゃない」
私はそう言って笑いながら彼から視線をゆっくりと外した。
ある日、私たちは朝からウキウキした気分で今か今かと夜を待ちわびていた。
いつもの寝巻から洋服へと着替えた彼はもう既に居間の座椅子に座っている。
「あら、お父さん早いわね」
「ああ、うん。やっぱり子供たちに会えるって言うのは嬉しいもんだよな」
「そうですねぇ。正一も由美子も孝雄も変わりないかしら」
「アイツらももう家庭を持ってるんだもんなぁ。俺たちも年を取るわけだ」
「そうですね」
私はそう言うと彼の顔を見ながらふふっと笑った。そうだ。今日くらいはお酒を飲ませてあげてもいいかもしれない。私はそう考え、彼に提案してみる。
「今日はお酒、召し上がります?」
私の言葉を聞いた彼は子供のように目を輝かせて「いいのか?」と嬉しそうに答える。
体調がどんどんと優れなくなってからは、彼の健康のためにお酒を控えるようにしてもらっている。前回お酒を出したのはいつだっただろう。もう忘れてしまうくらい前のことな気がする。
「今日は特別ね。久しぶりに子供たちにも会えるんだし」
「ありがとう」
「いえいえ。でもほんのちょこっとだけですからね」
そう言うと、私は台所へと向かった。彼が逝ってしまうまで、あと何回お酒を飲ませてあげることが出来るだろう。私の頭にふと、そんなことがよぎった。
「おおい美津子!そろそろ時間だぞ」
「はいはーい。今行きますよー」
飲み物を乗せたお盆をちゃぶ台の上に置き、私が彼の横に座った瞬間、”ピンポーン”とタイミングを見計らったかのようにチャイムが鳴った。
「おじいちゃんおばあちゃん元気?」
「久しぶりー」
「あれ?テレビ変わった?」
「ちょっと!大人しくしてなさいよ!」
二人っきりだった居間に子供や孫の姿が続々と現れる。
「おぉおぉ、よく来たね」
「まあ座って座って」
促されるままに好き好きな場所に座る子供や孫たち。そして目を細めながらそれを見る彼。
いつもは寂しく広いこの家も、皆が集まる日だけは狭くてかなわない。
「正一は家を買ったんだって?」
「そうなんだよ。ローンが終わるまでは一生懸命働かないと」
そう言いながらコップに入ったビールをグイっと飲みほした正一は、顔を赤らめてそう言った。
「お前もやっと一人前だな。雅子さんや雄一や弘子のために頑張るんだぞ」
「うん。わかってるって」
「由美子は元気?」
「うん、元気元気!でもまた異動になっちゃってさー。まいっちゃうよね」
「まあ、仕事があるって言うのはいい事じゃないか。あんまりキツイようだったら、いつでも辞めて帰ってきてもいいんだぞ。お前と香くらいなら何とかしてやれるから」
「お父さんありがとう。でも大丈夫だから安心して!」
「由美子は昔っから頑張り屋さんだから……」
私は由美子を見つめる。
由美子は小さい頃から無理をし過ぎてしまう性格で、本人が大丈夫大丈夫と言っていても大丈夫そうじゃないことが多かった。私はいつまでたっても由美子が心配で仕方がない。そんな私の顔を見て、由美子はまたかといった顔をしながらこう言った。
「おかあさん、大丈夫だって!もう私は小さいころの頑固な由美子ちゃんじゃありませんよー。それに香だっているんだから」
「そうよね。もう由美子も大人だもんね」
大人になったとはいえ、子供はやっぱり子供。いつまでたっても心配だ。そんな私を見ながら微笑んでいる彼と目が合った。彼は何も見ていなかったかのような顔をしながら私から目線を外すと、また子供達に話しかけはじめる。
「孝雄は今何やってんだ?」
「僕?」
「ああ、こないだは仕事を辞めて何か始めるっていってなかったか?」
「それ、何年前の話だよ。って、そんなにお父さんとお母さんと会ってなかったっけ?」
「今は何やってるんだ?」
「あれからご縁があった人と一緒に福祉の会社を興して頑張ってるよ」
「孝雄の会社、スゴイんだよ。こないだ街を歩いてたらすんごいおっきい広告見つけちゃってびっくりしたよ」
由美子が会話に割り込んでくる。
「へえ、そうなのか。孝雄スゴイな、お前」
「お父さんにそう言われるとなんかくすぐったいな。でも、毎日大変だよ。今までとはなんていうか、覚悟が違うって言うかさ」
「まあ、そうだろうな。仕事が変わると全く違った苦労があるもんなあ」
彼はお酒をちびちびと舐めながら孝雄の話をうんうんと頷きながらしばらくの間、嬉しそうに聞いていた。
それから子供たちや孫たちの近況を聞いたり、子供たちが最近の流行りがどうのこうのいう話を聞いたり、孫たちが遊んでいるのを見たりしているうちにいい時間になってしまった。
「ああ、そろそろ戻らないと」
正一がそう言って席を立つと、残りのみんなもそれに続いて立ち上がり始めた。
もう少しゆっくりしていけばいいのに
その言葉をぐっと飲みこんだ私は「またね、身体に気を付けるんだよ」と無理やり笑顔を作り出す。そんな私の横で彼も「じゃあ、またな」と子供たちに向かって笑顔で手を振った。
「うん。お父さんもお母さんも元気でね」
「またね」
「またくるから」
「じゃあね」
口々に別れの言葉を言う子供や孫の姿が徐々に薄くなり、最後は消えてしまった。
「帰っちゃいましたね」
私はそう言うと、ちゃぶ台の上にある端末の電源ボタンをぽちっと押した。
「ああ。そうだな」
さっきまで人がきゅうきゅうに詰まっていた部屋は一気にがらんとして、いつもよりもかなり広く感じ、寂しさがジワジワと押し寄せてくる。
「でも、いい時代になったよな」
「ええ、そうですね」
「この端末があればボタン一つ押すだけで、みんなが本当にここに居るように見えるんだから」
彼はちゃぶ台の上の端末を愛おしそうに眺めながら私に向かってそう言った。
本当にいい時代になった。
「そろそろ休もうか」
「そうですね」
ぽっかりと開いた穴を埋めるのは時間と子供たちを想う気持ちだけ。子供が親元を離れて元気にやっているのは幸せなことなのだ。そう自分に言い聞かせながら私は眠りについた。
それから何日か経ったある日、いつものように朝、彼を起こしに行くと彼の様子が何かおかしいことに気がついた。
「お父さん。お父さん!!!!」
大きな声で呼びかけても反応が薄い。掛け布団が上下していることから、息をしていることはかろうじてわかる。
「お父さん!!!」
こんなに突然逝ってしまうのか。せめて最後に彼の声が聞きたい。
私は目から溢れ出す涙で彼の布団に染みを作りながら、何度も何度も彼を呼び続ける。
「ど……うしたん……だ?み……つ……こ」
私の声が声にならなくなりそうになった時、彼は緩慢な動きで瞼を持ち上げた。帰ってきた。帰ってきてくれたんだ。
「おとうさん!!」
しかし、彼の口からはかすれた息しか出てこない。
ああ、もうダメなのかもしれない。お迎えが来てしまったのか。でももう少し。もう少しだけ彼と一緒にいさせて。
人間いつかは死んでしまうものなのだとはわかっている。この年まで元気で一緒にいられたことに感謝の気持ちしかない。
でも、あと少しだけ。
正雄さん!今までありがとう。アナタと一緒にいられて本当に私は幸せだった。
またアナタと出会うことが出来たら、また一緒に暮らしてくれますか?
一緒に笑ってくれますか?
一緒に泣いてくれますか?
あの頃のように『みっちゃん』と呼んでくれますか?
愛していると言ってくれますか?
涙で彼の顔は見えないけれど、彼は最期ににっこりと笑ってくれたような気がした。
彼が目を閉じた後、私は彼の胸にすがりながら泣いて泣いて泣き続けた。
正雄さん、本当にありがとう。
本当に。本当に。
ありがとうございました。
「おかあさん、大丈夫?」
私は仏壇の前に座り、由美子の言葉をぼんやりと聞いていた。
彼が逝ってしまってからどれくらいの時が過ぎたのだろう。
あまりの悲しさからか、私にはお通夜やお葬式の記憶がまったく残っていない。仏壇の横に添えられた正雄さんの笑顔の写真と白い箱。それだけが彼が死んでしまった証拠品のように、彼がこの世界で生きていたという印だとでもいうように、ポツンと置かれているのを見て彼がいないのだと何度も思い知らされる。
彼がずっと使っていた布団は由美子が片付けてくれたのだろうか。
いや、由美子はここにいるけどここにはいない。この由美子は由美子の家からあの端末を通じて投影されている由美子なのだから。
そんな由美子が布団をたためるわけがない。ということは、いつの間にか私が片付けてしまったのだろう。そんな記憶すらも無くてしまうだなんて、自分が思っていた以上に彼の存在は大きなものだったのだな。
私は仏壇の写真を見ながら「お父さん」と小さく呟いた。
彼がいなくなったにもかかわらず、世界は何一つとして変わっていないかのように動き続けている。
頭ではわかっているつもりでも、私のどこかがついてこない。取り残された私は、彼のニオイや温もり、そしてあの笑顔を探して彼の居ない世界をさまよい続ける。
足りない私は彼と一緒に過ごしたこの家で、彼のいない世界を彷徨い続ける私が帰ってくるのをただぼんやりと待つしかなかった。
そんな私の所に子供たちはちょくちょく顔を出してくれた。とはいっても住んでいる場所が遠いから、あの装置を使ってだけれど。それでも私の気持ちは徐々に元気を取り戻していった。
どれくらいの時が流れたのだろう。
何となく気分が良かった私は、久しぶりに縁側でお茶を飲もうとふと思い立った。
台所へ行こうとちゃぶ台に手をかけスッと立ち上がった瞬間、私の心臓にありえない衝撃が走った。
「うっ」
声にならない声をあげながら私は胸のあたりにある服をぎゅっと握りしめる。心臓を握られているような大きな針を刺し込まれているような、そんな耐えがたい痛みで全身に脂汗が吹き出し始める。息が出来ないまま私はその場に倒れ込んだ。ゆっくりと地面が近付いてくる。世界が横向きになった時、私はこのまま死んでしまうんだとはっきりとわかった。
正雄さん。
声は出せないが心の中で呼びかける。
視界が端から黒く欠けていく中、私はちゃぶ台の向こう側に彼が座っている姿が見えたような気がした。
「みっちゃん」
彼は確かにそう私に笑いかけていた。
ーー
「100865号室の大山美津子さん、さっき息を引き取ったって」
「さっき連絡来てたね。心不全だっけ?彼女、もう結構な年だったもんねえ。125歳だっけ?」
「そうそう。旦那さんが無くなってから急に元気なくなっちゃったもんね」
「仕方ないんじゃない?やっぱりいくつになっても心の支えって大事だよ」
「そうだねー」
「誰かもう押した?」
「まだ。最終処理終わってないから、それが終わったら私押しとくね」
私はそう言いながら立ち上がり、机の上に置いてあったタブレットを手に取り部屋の扉を開ける。
「あ、私も付き合うよ」
閉じかけたドアの隙間から同期のミサがするりとこちらに出てきた。
「ミサ、さんきゅー」
「いえいえ、どういたしまして。だって一人ってなんかきつくない?」
「あー、それ言えてるかも」
私は肩をすくめながらそう言った。
「100865号室か。最上階ってなんか居心地悪いんだよね」
私がそうつぶやくと、ミサも「なんかわかるかもー」とうんうんと頷く。
どのフロアも窓がひとつも無く、私たちが足を踏み入れるまでは明かりがついていない。だから階数が変わっても何ら変わりはないはずなのに、なんとなく100階だけは居心地が悪いと感じてしまう。地面があまりに遠すぎて現実味がないからだろうか。それとも、人の想いというものは上へ上へと立ち昇っていくものだからなのだろうか。
私たちは暗い廊下を進みエレベーターホールへと出る。ひらけたこの場所だけは、薄暗く窓の無いこの建物には似つかわしくないくらいいつも明るい。
「エレベーターだけどうしてこう豪華なのかね。生きてる人間用ってこと?」
「ん-。どうだろね?見学できるのがここまでって言うのと関係あるんじゃない?」
「見学って言っても、ここまで来れるのってお偉いさんのごくごく選ばれし人だけでしょ?」
「そういう人ほど面倒くさいってことじゃない?」
「ああそれ、なんとなくわかる気がする」
ここは山の中腹にある巨大ビル群の中の一棟で、私たちはこの場所で働く機械整備士だ。
エレベーターに乗り込み、最上階の100階のボタンを押すと、物凄い勢いでエレベーターは上昇し始める。
振動をほとんど感じないエレベーターはあっという間に目的地である100階へとたどり着いた。ホールの横にある移動用のボックスにミサと一緒に乗り込むと、私はパネルに『865』と打ち込んだ。安全柵がゆっくりと閉まるとボックスは滑らかに動き始める。
「確か大山美津子さんは要介護にならなかったんだよね」
「うん。確かそうだよ。旦那さんは要介護だったけど。で、美津子さんが介護してた」
箱の中で私とミサは他愛ない話を始める。
「でもさ、要介護になる人と、ならない人。何が違うんだろう?」
「『心』じゃない?○○歳になったら歩けなくなってるかも。とかさ。自分が誰かの介護をしたことがある人ほど要介護になるっていうデータも出てたじゃん」
「『心』ねえ」
腑に落ちない顔をしている私にミサはこう言った。
「だって、『心』を守るためにここがあるんでしょ。『人間らしい生活を』っていうアレ」
「人間らしい……ねえ」
「最期の最期まで健康的、って、まあこれは人によるけどさ。行きたい場所に行けて食べたいものを食べられて。最期の瞬間まで人のお世話にならないまま人間らしく生きていく。最高の人生じゃん。あ、着いた」
私たちは停止したボックスから降りると865室のドアを開けた。
「大山美津子さーん。失礼しまーす」
もう亡くなった美津子さんに形ばかりの挨拶をして部屋に入る。
真っ暗な部屋の電気をパチリとつけると、思わず眉間にしわが寄ってしまう。
「何回立ち会っても慣れないよねー」
「一人じゃない分まだマシだよ。ミサ。本当にありがとうね」
「いえいえ」
私たちの目の前のベッドには目を黒い布で覆われ、呼吸器をはじめとした物凄い数の管に繋がれている、手足を切断された大山美津子さんがベッドの上に横たわっている。
「バイタルは……ないね。死亡確認」
私はミサと目を合わせると、お互い小さく頷き、大山美津子さんであったものの傍へと足を進める。
美津子さんの体中についているありとあらゆる管を抜き取り、排泄補助装置のスイッチを切って清掃ロボットへと全て預ける。
「呼吸器よし。点滴よし。ネットワーク端末よし。VRシステムよし。各種センサーよし。エネルギー装置よし。バイタル機器よし。排泄補助装置よし。最終確認よし」
全装置の抜去を確認した後、私とミサは大山美津子さんに手を合わせる。
「お疲れさまでした」
そして私はベッドの頭にあるボタンを押した後、タブレットのボタンをぽちりと押した。これで大山美津子さんがこの世界から旅立ったことがここに収容されている人たちはもちろん、全ての人に認知される。
廊下から牽引車がやってくる音が聞こえてくる。後は美津子さんのベッドと牽引車を連結させれば私たちの仕事は終わり。
美津子さんは火葬場へと連れていかれ、その後ご家族の元へと帰られる。
「人間らしいって何だろうね」
私は遠ざかっていく美津子さんを乗せたベッドを見送りながらポツリと呟いた。
<終>
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