月の意味
去年末にオリジナルカレンダーを作った際、大アルカナの絵や、その他の絵をそれぞれの月に当てはめた。
1月はお正月だから、たこ揚げしている絵で、2月はなんだったっけ。
3月は針でちくちくしている絵だった気がする。4月や5月は忘れてしまった。6月は神様と会食している絵かな。
忘れたあたりはあまり深い意味がないのだろうけれど、7月あたりから私が選んだ絵と、私の人生が妙にリンクしている事に気がついた。
7月は大アルカナの星だった。
私の大アルカナの星は、私が閉じ込めて否定していた自分を見つけ受け入れる様を描いている。世間の価値観と自分が違う事が苦しみを生み、世間の価値観に合わせようと頑張り続けた。
私の場合、最も多く閉じ込めていたのは『信仰心』だ。幼少時期から私の中に育まれた、私の中のとても大事な価値観だ。私そのものとも言える。
家族の中ではオープンにしているそういった信仰心なども、人前に出して話す事等ほぼなかった。話せば胡散臭がられたり、変な人とされたりすることもある、年寄りくさいと言われたり、中にはその信仰心を『はやりのスピリチュアルみたいなもの』とされてしまって家族で向かう出雲大社教のお祭りに着いてこようとされたりもした。また別の人には雑学的に講釈を垂れられたりして不快感しかなかった。私の信仰心はそういう軽いものやカルチャーではない。信仰はそもそもカルチャーではない、人の歴史だと思うのだ。
私の考えにはなるが、基本的に信仰する神は一つであるべきだ。その信仰心がつよくなればなるほど、神から神への縁は繋がる。それは見えない世界を信じていくものであり、自分の魂の領域を信じるものでもある。
7月はその信仰心を最大限に開放するよう流れが起きた。私が感じる深い怒りと悲しみがどこから来ているのか、それを知る事が出来た。具体的に記述しないのは、私の住まう場所が判ってしまうことや、信仰を馬鹿にされることが嫌だからに過ぎない。
8月は大アルカナの運命の輪だった。
自分でも想像もしてなかったけれど、私を覆っていた枠という枠が全て外れていく流れになった。『組織に属さない選択』を自分からするとは全く思って居なかったのだ。
とはいえ確かに2023年の春ぐらいから、違和感があった。ガタガタと枠が外れる感覚というか、もうここに楽しみがないと感じる出来事があった。けれど、その場を出ていくとは本気で考えることもなかったのだ。
9月は大アルカナの月だ。
船の上にいるのは愚者。大アルカナは一つの物語で繋がっているので、星の次の話はつきかになる。星の物語で見つけた『星』をもって新月の月のない暗い海をひとり進んでいる。
『星』は『自分の希望の光』であり『自分そのもの』だ。見えている月はまやかしで惑わせるものでしかない。そもそも新月は暗い夜ではあるけれど、月がないわけではない。
暗闇を進むことは、月があることを信じて進むことでもあり、それはいかに自分を信じて生きていくかになる。
じつは今、全く同じ流れが私に来ている。
私は親しくなりたい人がいる。どう説明してもこの感覚は伝わらないだろうから説明を省くけれど、不思議と心地良さを感じる人だ。好きかと訊かれたらそうだと答えるけれど、世間一般的な恋愛観とは異なる感覚がある。説明しずらい。知り合ったのは3年ぐらい前になる。
最初こそやり取りをよくしていたけれど、次第に私だけが話しかけるようになり、話しかけてもスルーされることが増えていった。
その度に私は「自分が悪い」として鑑みて内省し続けた。けれど、どれだけ私が変化しても関係に大きな変化はなく、今では無視されることが当たり前になっている。
勿論、必要な時は返事をくれるし、私が話しかけている内容にも問題はあるだろう。それでも、コミュニケーションをとろうと、相手が興味があるだろう話題をさがし、気遣って話しかけても無視されることもあり、段々と話しかける度に重たいものが心の中に渦巻くようになった。
その重たいものの理由はわかっていた。
過去に言われた言葉がずっと引っ掛かっていたのだ。
だから私はこの言葉をその人のもとに返す事にした。実はなんども自分の中でそうしてきたけれど、上手くいかなかった。だから自分の為にその言葉をストレートに返した。私を我慢させてまで飲み込む言葉ではないし、雑に扱われることに慣れてはいけない。
これは私が私を信じているほかならず、自分を大事にしている証拠でもある。
苦しめる価値観ならいらない。それが例え心地よさを感じている人でも、親でも、恩義のある会社でもそうだ。だからといってその人を嫌いになるわけではない。私が私の価値観や感じていることをを大事にしていくだけのことだ。
それが私にとっての『月』だと思うんだ。
不要な価値観を受け取らないでいくことは、「それをしても失くならない」という、自分のこれまでやこれから積み上げていく価値観を信じていくことでもあるのではないか。自分を大切にすることは、自分の価値観を信じることでもあると思うのだ。
他人の価値観を受け入れることと、他人の価値観を尊重することは似てるけれど、似て非なるものだ。
生きてきた経験がその価値観を作っている。安易に他人の価値観を受け入れてしまえば自分を穢す事にもなる。自分を守れるのは自分しかいない。
月は新月の夜に小舟を浮かべて進んでいる様子を描いている。
小舟が浮いている海は、心の浄化を助ける水でもあると思う。
私は自分の中にある疚しさ(やましさ)や苦しみを全てみつけて流しながら進んでいる。自分の本来の価値観をより輝かせるためにそうしていて、輝きが増せば増すほど暗い海でも進んでいける。
私の月はそういう絵だ。
自分の大事なものだけ運べばいい。
不要な価値観はくれた人にきちんと返して、自分の中にある疚しさは、疚しさを感じる相手に素直に謝罪する。勝手に私の価値観を自分のものにした人とは縁を断つ。
私はある一定の時期からこういう自己内省した結果や想いをweb上に公開するのを辞めていた。それには理由がある。安易な共感や、自己の投影をされる事が私の苦しみに繋がって居たからだ。
私は自分の苦しみや見たくないものと向き合い続けた。それは何年にも及んだ。タロットカード絵を描いてからのように思われるかもしれないが、正直にいえばずっとそうし続けていた。苦しみをみつけ癒す度に「自己成長できた」と思い「もう大丈夫だ」「もう楽になる」「きっと望むものが手に入る」と思い続けた。
けれどその度に心の中にある別の傷を見つけたり、癒しきれてない『癒したと思った傷』が疼くように色んな出来事が起こり続けた。
いつまで経っても傷が失くならないし癒しきれない、どれだけ他人の価値観を受け入れ続け、自分を失くしていたのか。そのたびに自分に失望し、投げ出したくなったことは数知れない。それでも投げ出さず自分と向き合い続けたのは、私が私を愛して大事にしてるからであり、信じ続けた結果だ。
言葉にしてしまえば簡単ではあるけれど、その作業はものすごく苦しみがあった。時に古い思い込みを見つける流れになった時は、胸が破れるほどの痛みさえ伴ったりもした。
それらを簡単に「自分もそうだった」とどうして言えるのか。他人の人生に簡単に自分の人生を重ねてしまう。それは自己も他者も尊重などしてないだろう。
似たような経験をしたならば、痛みや苦しみが判り、慮ることが出来るはずだ。痛みや苦しみを経験したからこそ、それを他人に安易に共感されたり、応援されたり、時に私のほうが大変とされることに、怒りや悲しみが出るのは判るだろう。
だからこそ、私は他人に自分を重ねられる事に深い憤りを感じてしまう。私の人生や想いや言葉を簡単に頭で判った気になってほしくないし、簡単に否定したり、安易に応援してほしくない。
私の絵や言葉は私のものだ。
想いも絵も、全部私が作り出した。それは私にとって大事なものだ。
誰かに自分の物とされるものではないし、尊重されるべきものだ。
私は自分の経験を大切に感じている。だから軽い共感よりも、私の感じていることを深く受け止めたうえで、深いところでの共感を得たい。自分の事を自分の経験で、自分軸で感じてもらいたいと強く想う。だからこうして再び想いや経験を綴り公開することにした。
それは私が自分を信じて、自分が心から喜びを感じる人生を進んでいることに他ならない。
私が絵に込めたエネルギーはきっとカードを使う人の役にたつ。
私の絵の中にあるエネルギーは、きっと深い共感を示す人の中にある『幸福のために気づくべきもの』に触れることが出来る。私がしてきたように、深い共感した人の中にある不要な価値観を、悲しみや怒りといった過去に抱えてしまった感情共に浄化する流れを起こせる。そう自己肯定するように、強く想えるようになれた。
私はそういったもやもやとして苦しみを生む想いを浄化をすることに深い喜びを感じる。会社員として培ったスキル、これを活かして日々の業務の中で感じる喜びも実はまったく同じ想いを浄化することだと気がついた。
魂から喜びを感じることを生業に出来る。そう確信的に気づいた7月。本気で残りの人生を捧げて、それを生業として行こうと決めた8月。
そしてその私が魂から喜びを感じること、その光をもって暗闇をつきすすむ9月。
月のカードの物語そのものだ。
2024年9月4日
月の意味
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