野村(克也)の死について
一時代が終わったことを、しみじみと感じている。そのことが頭から離れず、夜な夜な記事を探したり、Wikipediaで調べたり、YouTubeで古い映像を見たりしては、何やら考え込んでいる。仕事上の関わりもないし、もちろん身内のことでもない。けれどなぜだか、深い喪失感がある。この感じはしばらく続きそうだから、ここいらで今の私の心中をまとめておこうと思う。野村が死んだことについてである。
私の世代にとって野村は、もちろん監督としてのイメージしかない。通算本塁打657本の大打者・野村の姿は、白黒の古い資料映像から浮かび上がることはあっても、リアリティをもって感じることはできない。あの大きな頭にヘルメットをのせて打席に立っている感じを、私は想像することができない。
そもそも私は、野村の打席を正面から見たことがない。カラー放送が始まる以前のプロ野球中継(生中継ではなく、ニュースフィルムに近いものだったはずだ)は、基本的に一塁側スタンドから横向きに狙ったものばかりだ。おそらくレンズの問題だったのだろうが、現在の野球中継で定番となっているセンターバックスクリーンからの正面アングルはほとんど見たことがない。詳しく調べたわけではないのだが、おそらくそれが定着するのは70年代も半ばを過ぎ、長嶋が引退した後のことではなかったか。王貞治の晩年を彩る、いくつかのホームラン記録の打席は、現在と変らぬ正面アングルで記録されているのをYouTubeなどでも確認することができるが、長嶋のそれは結構探さなければ出てこない。全国区の巨人戦でさえそうなのだから、大阪ローカルの南海戦で望遠の正面アングルが一般化するのは、もっと後の話である。野村が南海のプレイングマネージャーとして八面六臂の働きを見せたのは70〜77年だから、それはほとんど期待できないと思っていい。問題はその後で、ロッテと西武を渡り歩いた78〜80年の三年間だ。事実上のお荷物ではあったが、生ける伝説として君臨していた野村は、その間のべ400回以上も打席に立ち、12本の本塁打を放っているのである。しかしその映像が、まったく世に出回っていない(テレビ局のアーカイブや、国立フィルムセンターなどにはあると思う)。野村がバットを振る姿をやはり私は、きちんと正面のアングルで見てみたいのだが、いまだ叶わぬ願いである。
監督としての野村は、実に印象深い。といって、イチロー・松井の渡米とともにプロ野球観戦を止めてしまった私には、90年代のヤクルト時代しか語る資格がないのだが。しかし野村がヤクルトの監督をしていた時代は、プロ野球が本当に面白かった。その頃の私は、セは巨人、パは西武を応援していたから、野村は常に敵将であった。しかしなぜだかわからないのだけど、野球人としての野村に、強烈に魅せられていた。週刊ベースボール社発行のプロ野球名鑑には、当時、推定年俸の記載と並んで自家用車の欄があったのだが(もっと昔はファンレターの宛先として自宅住所も書いてあった!)、野球選手は、まあだいたいがベンツであった。もうほとんど、9割方ベンツという時代である。560SELか500SECか。ヤクルトだけは球団の方針として国産車縛りというのがあり(これも今となっては謎のルールだ)、年俸が億を超える主力でも、トヨタ・ソアラとかに乗っていた。そういう中で、野村だけがベントレーなのである。もう一人、強烈な個性があったのは中日の落合で、アストンマーチンと書いてあった。清原がフェラーリ・テスタロッサに乗っていて、やれ生意気だと叩かれていた時代である。話が逸れた。
野村の存在感は絶大であった。晩年はボヤキのノムさんとして、好々爺ふうの印象を世間に与えていた野村だが、90年代のヤクルト時代はまだ監督としての名声を確立する途上にあり、ベンチに座る野村は常に眼光炯々として抜き差しならぬ感じを持っていた。荒井幸雄ポカリ事件というのがあるが、あの瞬間に発した野村の怒声を私は忘れずにいる。野村は南海で選手兼任監督をしていた頃から、日本シリーズなどの短期決戦では、試合の全配球をシミュレーションする思考実験までしていたというが(まるで将棋か囲碁の世界だ)、それだけに1球1球に与える意味が、凡百の指揮官とは違うようだった。サインの見落としか何かだったと思うけれど、ポカリ事件はその緊張がピークに振れた瞬間だった。私は今のプロ野球を知らず、スポーツニュースで瞥見する限りでしかないが、そのような感情の迸りはもう過去のものに違いない。良くも悪くも野球はすでにベースボールにマージされている。配球や読み、駆け引きといった要素よりも、瞬発力系スポーツとしてのアスリート性が観るものの心を掴む時代だ。それはイチローをもって嚆矢とするべきだが、イチロー論はまた別の機会に譲ろう。現在では大谷翔平がその典型である。大谷を見てその活躍を喜ぶことと、野球の楽しみを知ることはやはり別のものだ。強打者大谷を配球の妙で攻略せんとするメジャーのバッテリーもあるだろうが、大谷がその投球の裏を読むくらいでなければ、その攻防は野球的な意味では成立していない。160km/hを投げ、打ち返す。どや! というだけの世界だからである。100メートル男子決勝ほどの興奮はある。そこに日本人が挑戦する意味もあるが、野球の面白みはもう少し違った角度から味わうものであってほしい。そこに、野村がいるのである。野村的なものが、俟たれるのだ。
野村はおそらく、今の時代に生まれていたら、アスリートとして成功しなかっただろうと思う。あの体型からして、残した記録自体、奇跡というものだ。戦後の食糧難を生き抜いた世代だから、小柄なのは仕方がないが(王・長嶋も実は同じくらいだ)、今の時代はもっとピュアな意味での身体能力が問われるだろう。選手としての活躍がなければ、現場マネージャーとしてのキャリアもないわけだから、野村のようなタイプの監督はもう今後いっさい出てこないということになる。野村のOSをまるごとインストールしたはずの古田が、これからどんな監督として再登場するかに私は期待している。彼は一度失敗を経験しているから、次はもっといい仕事をするはずだ。思えば野村も、浮き沈みの激しい野球人生だった。そこにいつもサッチーの影が見え隠れするのだが、それを考察するのは容易いことではない。ある意味、新興宗教にひっかかったような印象さえ受けるのである。しかし、そうしたサッチー絡みのさまざまな事件を奇貨として、野村は人間力を鍛えていった。野村は、サッチーによって人生を狂わされるたび、その運命を甘んじて受け入れてきた。茨の道を敢えて選ばんとし、その苦難にこそ人生のヒントを見つけようとした。それは我ら凡夫には到底理解できないことなのだが、結果として野村の言説に独特の奥行きと味わいをもたらすこととなった。晩年の野村が人間学の類いでビジネス書界隈に居場所を得ていたのは、野球の知識というよりは、浮沈を繰り返す中で体得した人生訓といったものに、人々が価値を見出していたからだろう。野村のそうした側面を、私は必ずしも否定しないが、良いとも思わない。私の興味のいっさいは、野村の人間学ではなく、野球学についてなのである。
選手時代の野村はかなりの口下手であったらしい。スポーツ部記者たちの印象はとにかく「無愛想」ということで一致している。自らを月見草とよんだ野村だが、そうした比喩を使わなくても、もともと十分に地味であった。それはなぜか、わかる気がするのである。野村は無愛想なのではなく、言葉が出てこなかっただけなのだ。野村には学問がなかった。そして高校卒業以来ずっと頭の中では、野球のことだけが渦巻いていたはずである。それはいちいち言語化する必要のない思考であり、あくまでも筋肉を通じてアウトプットするための野球選手としての思考である。我々一般人が、言語を通じて思考を形成し、こうして駄文を連ねているのは、剛速球を投げたり、ホームランを打ったりすることができないからである。引退してようやく、その未体系の野球脳を紐解いていくチャンスに恵まれた。記事によるならば、それは週刊誌の連載を通じてであったらしい。野村は取材する記者の問いかけに、しばしば黙り込むことがあったという。それも十分、二十分という単位でだ。無視しているかと思えばそうではなく、何十分か経ってやおら口を開くという具合。それぐらいの口下手なのであった。私も若い頃はとことん不勉強であったので、感じていることを言葉にするのが苦手であり、いい答えは常に会話が終わった後で思いつくという為体なので、野村の気持ちはよくわかる。記者は野村の言葉を聴き、週イチの連載にまとめた。そのゲラを、野村は毎回穴のあくほど読み込んでいたという。自分の頭の中に雑然と詰まっていた野球脳が、言葉に変身していくさまを驚きをもって眺めていたに違いない。ボヤキのノムさんとして数々の名言を残した野村はその頃、文字を覚えたての子供と変らない。地頭の良さは誰もが認めるところ。干天の慈雨のごとく言葉を吸収していった。そうした非エリートらしい、叩き上げの逸話に、私はしみじみと懐かしさを抱くのである。
さてもうひとつ、野村の死を通じて私の感傷を刺激するものがある。90年代の空気である。あの時代、私はおおいに多感であった。12歳からハイティーンに至る時代はまるごと、90年代であった。バブルが崩壊し、日本は2020年の現在にまで続くゼロ成長の時代を迎えるのだが、まだその頃の日本には元気があった。あらゆることが、シンプルに済んでいた。
なぜ世の中はかくも複雑になったのか。何につけても面倒なことが多すぎる。90年代の私はまだ成人しておらず、朝は学校で過ごし、夕に大相撲と野球を見、夜はフジテレビのプロ野球ニュースでセ・パ全試合をチェックし、さらに深夜、ニフティサーブのプロ野球ニュースで番記者ウラ情報もひと通り網羅してから床につくのが日課であった。悩みはあったけれども、野球への憧れとラジカセで聴くヒットソングがそばにあれば、私はそれなりに明日を夢みて生きていけたのである。『浪漫飛行』とか『どんなときも』が流行っていた時代だ(へそ曲がりの私は、そういう流行歌を敢えて遠ざけていたふうでもあったのだが、耳をふさいでも聞こえてきたのがこの時代であるのだ)。そういう時代に野村は、プロ野球界にカンバックした。
92年、93年の日本シリーズは忘れない。常勝軍団・森西武との2年連続一騎打ち。共に勝ち、負け、勝敗は五分であった。森の采配は、どんなときも堅実で、隙がない。一方の野村は、代打サヨナラ満塁ホームランの杉浦とかピンポイント金沢といったオジサン(の年齢に自分もなってしまったのは何としたことだろう)を重要な役どころで出してきたり(またそれがスバズバあたるのだ)、面白いことこの上ない。2年目のシリーズでは、まんまとヤクルトを応援していた私であった(もちろん表向きは西武を応援していたのだが)。このあたりの軽さは、フジテレビの影響といっていい。そんな具合に、ヤクルト黄金時代を幸せのうちに眺めていたのである。古田、池山、広澤も、みんなそろって50代。長男の広澤は、もうすぐ還暦だという。人生はなんと儚く、短いものだろうかと思わずにいられない。
その後プロ野球は、イチロー・松井の時代になる。監督のレベルでは、野村と長嶋がいつも話題の中心だった。都会の学校に通うようになると、だ埼玉・西武を応援する気持ちが薄らいでしまって、代わりに日テレ読売贔屓となる。軽佻浮薄の誹りは免れないが、私にとって松井秀喜はまた格別の思い入れがあったのである。
なにしろ、私の野球熱は高校野球を原点としているのだ。古関裕而作曲の『栄冠は君に輝く』を聴くと、今でもはらはらと涙が出てしまうのである。もっとも思い入れがあるのは、91年大会だ。四日市工VS松商学園の延長16回の熱戦は、何やら奇跡のような記憶である。四日市工の井手元健一朗(中日)が松商のエース・上田佳範(日ハム)にあてた232球目のサヨナラ・デッドボールは、完璧すぎて言葉にならぬ。そして、箸が持てなくなるほど肘を壊しながらも決勝まで773球を一人で投げ切った沖縄水産の悲運のエース大野倫(巨人)など、今日ならば“球児虐待”で一発アウトとなりそうなシーンのオンパレードなのである。美談では済まない話というのは重々承知のうえで、あえて彼らの熱闘を、私は大事に記憶している。松井秀喜が5打席連続敬遠で甲子園を騒がせるのは、その翌年のこと。
長嶋茂雄が松井のくじを引き当てたのと同時に、私の巨人入りも決まったのである。そこからはしばらく、フジサンケイのヤクルトではなく、日テレ巨人の目線から野球を見ることになる。異動日以外は毎日必ず中継がある巨人を応援していると、愛着はすぐにわいてくる。やはり一番の楽しみは、野村ヤクルトとの対決だったが、ルーキーの松井が、現ヤクルト監督の高津臣吾から弾丸ライナーのプロ第1号を放った試合も当然生で見ていた。後で知った話では、高津に全球ストレート勝負の指示を出したのは野村であったそうだ。野村は、その長いキャリアから、本当の一流は、そうした場面で必ず打ってみせるのだという。それを松井に試してみたのだ。栴檀は双葉より芳しというべきか、プロ1年目の松井は当たり前のように、それを完璧に打ち返してみせた。だから野村は死ぬまで松井贔屓であった。松井は結局、同世代のイチローには記録の面で圧倒的な差をつけられてしまったのだが、松井が球史に残る本物の大打者であることは間違いない。
実は私は、松井のメジャー・デビューの日、ヤンキースの本拠地ニューヨークであの劇的な満塁ホームランを見ていた。氷点下の寒い夜だった。松井の試合を見るために買ったRCAの小さなアナログテレビで、その瞬間に臨んでいた。高津からプロ初アーチを放ってちょうど10年。かつて甲子園を沸かせた容貌魁偉のスラッガーは、北陸の出であるだけに、寒さはまったく平気のようだった。私はその夜、本当に信じられないほど嬉しくて、松井関連のスポーツニュースやネットの情報を見まくった(もちろん盛大に報道していた)。その日から、もう17年が経ってしまった。
話を90年代に戻そう。21世紀が近づいてくると、いつも明るいミスターの迷采配とは裏腹に、時代はだんだんと嫌な空気に包まれていく。95年は阪神大震災とオウムのサリン事件があった。97年には酒鬼薔薇聖斗が神戸で事件を起こし、拓銀は破綻。山一證券が自主廃業した。翌98年に、野村はヤクルトを退団する。ついで99年は阪神の監督に就任するのだが、その頃の私は、すでに野球への興味をほとんど失っていた。不勉強のまま、なんとなく成人し、気づけば何も持っていない自分に猛烈な焦りを感じていた。私は、前途の展望なきままに、ある種の気分から高校も中退していたのである。殊勝らしくものの本を読んだりしても、基礎がないから何も頭に入ってこない。実家にいては埒が明かんと、家を飛び出してもみた。アルバイトを転々としたり、大学の夜間部へ通ったりした。徒手空拳の数年間には、見るべきものがひとつもない。しっかりと腰を据えてやったことは何ひとつないから、私は1ミリも進歩しなかった。そうして、破れかぶれのうちにアメリカへ逃げた。アナログテレビの中の松井と再会する、2003年のことである。
野村はその頃、サッチーの脱税疑惑で阪神を引責辞任させられたり、アマチュアのチームで指導したりしていたらしい。日本の野球ファンの関心は、完全にイチローに移っていた。01年にメジャー・デビューしたイチローの活躍はここで改めて言うまでもないが、先述の通り、これを機にイチロー型のアスリート野球が、野村的な古い昭和の野球観を圧倒していく。凄さを理解するのに、玄人である必要がないイチロー型の野球は、野球の裾野をさらに押し広げた。国民的な英雄となったイチローに、私も素直に拍手した。ただし、松井の方をより熱く応援していたことは変わらない。
90年代の記憶が素敵なものであるとすれば、それはしたがって、世界がまだシンプルだった前半数年間だけのものであるらしい。後半に近づくほど、私の思い出は苦いものになっていく。バブル崩壊が91年とすれば、そこにあるエゲツないまでにポジティブなエネルギーは、当時中学生だった私などのもとへも、なんとも知れないバイブレーションを伝えていたのだ。
野村が死んで、野村が監督としてもっとも輝いた90年代という時代の終わりに気づかされた。私が全身で野球を楽しめた時代が、とうとう本物の過去になってしまった。その事実は、長く続いた価値が新しく台頭してくる者に書き換えられる寂しさとは無縁の、まだそんな心配はいらないほど「今ここ」の現在に十分時間があった時代の、未来を少しも疑うことなく「今を生き」られた時代の最後の賑わいを思い出させ、私に深い溜息をつかせるのだった。こんな夜にはせめて少しの酩酊が、なおも流れる時間を止めてはくれまいかと願うばかりに、またも私は杯を重ねるのである。