変化が怖い
同じことについて、もう何年も「変化したい」という感じを持ち続けている。
坂爪圭吾さんのnoteを読むと、いつも「そんなことを言われたら、俺だったら嫌われたか、怒られたか、軽蔑されたと感じて、ものすごい恐怖を感じるだろうな」というような、しかし核心を突いた感想ないし考えを、いろんな人に持っているし、実際に相手に伝えたりしているように見える。
大抵の場合、突かれて痛いところというのは、自分が怖くて目を背けている核心であり、「変化したい」のであれば、本当は「突かれたいところ」でもある。
目を背けている核心を突かれると、「今まで核心と向き合ってこなかった、逃げている自分」「また逃げたいと思っている・逃げようとしている自分」「正面から核心に突っ込まないことを選ぼうとしている自分」と出会うことになる。
そして、『今まで目を背けてきて、人に突いてでも貰わないともう一度自分の眼前に持ってきて見つめなおすこともできなかったほどの怖いものに、今正面から向き合うことを始めるのか、それともまた逃げるのか。』という二択を迫られる。
その二択を迫られると、今まで避けてきたことに突っ込むとてつもない恐怖と直面するか、このままでは一生自分の人生が進展しないことをわかっていながらそれを避け、自己嫌悪に陥ることになる。
だから、ゲームをしたりYoutubeを見たり、友達と遊んだりして、自分の最もクリティカルな問題から目を背け続けている苦しさを紛らわせつつ、2択を自分に迫ることを先延ばしにしている。
坂爪圭吾さんは、「私に会いたい方はいつでも連絡をください。どこにでも行きます。」と公言しており、LINEのIDも公開している。
僕も、連絡しようと思えば連絡することができ、会おうと思えば会うことができる。
そして、坂爪さんと会うことは、おそらく自分一人でやるよりも、件の2択に直面することの大きな助けになるだろう。
そこで僕は、「坂爪さんにこんなところを見られたら嫌われるのではないか」「ここで突っ込むことを選択できなかったらもう二度と見てもらえなくなるのではないか」そして「自分はまた突っ込むことを選択できずに自己嫌悪に陥るのではないか」「そもそも、相手に見つけてもらおうなんていう態度を坂爪さんはどう思うだろうか」など、膨大な量の恐怖を乗り越えないといけないと思う。
読者として読んでいるときには、「嫌われるべき人間には嫌われろ」「人に嫌われるかどうかに自分が介入しようとするな」「傷つく前に傷つくな」という言葉に対して深く感動し、気づきを得、なるほどその通りだ、自分もそうあろうとなどと思う。
だが、いざ自分がそれを実践しなくてはいけない場面に出くわすと、とてつもない恐怖を感じる。
怖いのは、今までの生ぬるい日常が変わってしまうことだ。
深い満足もないが、怒られもしないし、ケガもしない。
生ぬるいどんよりとした不安や不満はあるが、大きな失敗や大きな恥もないという、生ぬるい現状。それが変わってしまうのが怖い。
おそらく何がどう怖いというよりも、「どうなるのかわからないのが怖い」のだと思う。
または過去の経験から、「どうせこうなる」と半ば決めているトラウマチックな観念に飛び込まなければいけないのが怖いのだと思う。
結局先に進むしかないとわかっていて、先に進まないことをこれほどストレスに感じているのに、それでもこれほどまでに変化が怖いのは驚きである。
いつかは覚悟を決めなくてはいけない、そして、覚悟を決められるのは自分以外にはいない。逆に言えば、覚悟さえ決めればできることはいくらでもあり、助けてくれる人はいくらでもいる。
何を踏ん切りに、最後は覚悟を決めているのだろう。