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忘れっぽい私のための(適当な)短い読書 31

とはいえ、彼女の帰宅がその瞬間どんなに私によろこびをあたえようとも、やがておなじような障害が出てくるであろうこと、精神の欲望の満足のなかに幸福を求めるのは、前進を続けて地平線に到達しようとするくわだてとおなじほどあさはかであることを、私は感じるのであった。欲望が先走れば先走るほど、真の所有は遠ざかる。だから、幸福をつかめそうならば、いやすくなくとも苦しまずに行けそうならば、欲望を満たそうとばかりすべきではなく、欲望をだんだん減らして最後に欲望をなくすようにすべきなのである。人は愛する相手に会おうとばかりするが、むしろ会わないようにすべきであろう、結局は忘却だけが欲望をなくしてくれるのだ。ところで私はこんなことを想像する、ある作家がいて、その種の真実を自分で盛りこんだ本をある女にあたえる献辞に、「この本はあなたのものです」と書いて、その女に得々として近づこうとするさまを。そんな場合、彼は自分の本では真実を語っているが、その献辞ではうそをいってることになるだろう、なぜなら、自分の本がその女のものであることに執心しているのは、女からもらってその女を愛しているあいだしかたいせつにしない宝石への執心と同じことでしかないからである。ある相手とわれわれとの絆は、われわれの思考のなかにしか存在しないのだ。記憶は、うすれるにしたがって、相手との絆をゆるめる、そして、自分から好んで幻想にだまされながら、また、愛、友情、礼儀、世間体、義務によって、他人を幻想でだましながら、それにかかわりなくわれわれは孤独に存在している。人間は自己から抜け出せない存在であり、自分のなかでしか他人を知らない存在である、そのくせそれとは反対のことをいって、うそをつく。私の場合、彼女へのそんな欲求、そんな愛が、私からうばわれることがあるのを、どんなに恐れたことだろう、それほどそれは私の生命にとってたいせつであると思いこんでいた。トゥーレーヌに行く汽車の通っていく停車場の名がつぎからつぎへと告げられるのをもし魅力も苦しみもなく耳にすることができたとしたら、それは私の自我の減少としか私に思われなかっただろう(それはとりもなおさず私がアルベルチーヌに無関心になったという証拠でしかなかったであろうから)。つぎつぎに彼女が何をし、何を考え、何を欲しているのか、彼女は帰るつもりなのか、現に帰りつつあるのか、と私はたえず自問する一方で、愛が私の心のなかにあけた貫通路の入口をひらいたままにしながら、誰かほかの女の生命が、堰を切ったあちこちの水門から、停滞をきらう内奥の給水タンクを満たしに流れ込んでくるのを感じて、これでよし、とつぶやくのであった。

失われた時を求めて マルセル・プルースト


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