創作とは供養である 小説編

 ふと気づいたら、国際関係論の中間レポートの締め切りまで一週間を切っていた。レポートの課題自体は先月末に教授から出されていたので、締め切りが近づくまでこの一か月何をしていたんだと言われたら、答えようがなくなってしまう。この数週間を思い出そうとしても、高崎駅から大学までの自転車で通るがたがたとした感覚だけしか浮き上がってこない。

 どうしようもないので、とにかくレポートを書き上げなければならない。求められている分量は1,600字。入試小論文の400字ですら苦労した私にとって、とにかくで書き切れる文章量ではない。そこで、何か私が書いて文章量が稼げそうなもの──いわば得意分野のお気持ち表明をすることで、レポートのような大量の文を書く練習になるのではないか。
 そう考えた足でnoteを開設してしまったのだが、こうして書き殴っているだけでnotes(noteではない)の文字カウンターは400字に届きそうだった。こういうノリを4回繰り返せば私の国際関係論の単位の半分は安泰というわけだ。

つまりはそういうことです。よかったらお付き合い願います。

 この文章のタイトルにある通り、ここからは私の創作に対する持論を垂れ流していきます。noteはこのようなお気持ち表明をして良い場所なのだろうか、という不安は私が尊敬して止まないある下車作者様のnoteが払拭してくださいます。詳細は伏せます。
 小説編、となっているのは、先に触れたように私は小説だけでなく、下車というおおよそ一般人の理解の外にあるコンテンツの創作を行っています。小説も下車も私にとっては同じ創作の範疇であるため勝手は同じですが、下車は下車で書きたくなった時に困るので、今回の文章は小説編としておくことにします。

 創作的な視点から、人間を定命の者と表現することは多いのではないでしょうか。例えば人間と人外の出会いだったり。やはり寿命が尽きた後どうなるかのアンサーが示されていない以上、人間にとって長命への憧れというのは尽きないものです。
 しかし、私には、創作物は人間よりも寿命の短いものだという感覚があるのです。私にとって創作は私の頭の中で生まれ、そして寿命尽き、何かしらの形になって私に供養されるものだと捉えています。一時私のすべての興味関心をある創作物に注いだとしても、他の創作のアイデアが私の頭の中で生まれるまでに完成したものは一つも存在しません。生まれたときはどんなに斬新なアイデアを持った創作でも、それについて頭の中で繰り返し考えていく中で、そのアイデアは日に日に陳腐化していきます。しかも、その創作物はまだ一度も世に出たことがないのに、私の中では日を追うごとにその価値が下がっていくのだからたちが悪いです。
 そのような創作物は、他の新しいアイデアたちに押され、ただでさえ遅い執筆速度を悪化させます。いずれ小説の表現一文さえ書くのも辛くなり、私はなぜこんな苦行をしているのかとすら思い始めるようになります。これが、私の小説の中で世に出る前に折ってしまった作品が多い理由です。
 そんな意識で小説を書いているため、何とか世に出せるレベルになる(多くの場合はその文字数が5、6千字になり、キリが良いところ)頃には、私はその創作物に対して何の興味を持たなくなってしまっています。私の頭の中で生まれたときはあんなにも斬新だったアイデアに何も興味を持てない申し訳なさから、私は「創作は供養だ」と考えて、まるでお盆の夜、灯篭を川にそっと流すように、作品を投稿しています。

 以上、私の創作に対するイメージをつらつらと書いてみると、1,600字になってしまいました。中間レポートもこの勢いで書けば何とかなりそうです。
 こうして私が創作に対してとか題してお気持ち表明しているのは、小説や下車において一定の評価を頂けているからこそです。ありがとうございます。いくら自信のある創作物でも、評価が乏しければ自己肯定感がどんどん低くなりますし、(リアルが充実していたらネットなんかしないという観点から、一般にオタクは自己満、および自己肯定感のために創作している、と私は考えることにしています。)こんな黒歴史になりそうな文章を書く気にもなっていないでしょう。現に評価が伸び悩む新作に家庭環境も相まって沈んでいるオタクをTLで見かけます。ご自愛してください。

1,600字では小説についてだけでも書き切ることができませんでした。
人の痛いお気持ち表明が見たくなったらまた来てください。
新しい駄文があなたを待っているはずです。

※投稿後に誤字修正などのため加筆する、または恥ずかしくなってこっそり削除する可能性があります。ご了承ください。

きょうの一言:上で触れた下車作者様と八高ペアってことで合作したい
(了)

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