まなみのりさを終わらせる、ということ
去る4月1日、1年後の来年2023年4月1日をもって、まなみのりさが解散することが公式発表された。
自分たちまなみのりさのプレミアムFC会員に対しては公式発表の24時間前、3月31日の時点でこのお知らせが届いた。当然のことながら最初は頭の中が混乱し、何が起こってるのかさっぱり理解できなかった。一呼吸おいて、改めて「不意を突かれた。油断してた。」という思いがこみ上げてきた。そんなはずないのに、まなみのりさはずっと続いていく、と錯覚していた。危機感が足りなかった。油断してた。
あまりにも絵空事と笑われるかもしれないが、まなみのりさはずっと続くと思っていたから、還暦になったまなみのりさを観るのが個人的な夢だった。還暦のまみりを観ることを目標に、割と今を刹那的に生きている自分も85歳までは長生きしよう、と思っていたのだが、それも叶わなくなってしまった。
「有り難い」5年間
まなみのりさはいつ終わってもおかしくない。そんな危機感は思い起こせば5年前、事務所移籍前の半年間の活動休止の時にはたしかにあった。あの時は最悪の事態まで覚悟した。もし解散した場合、個々の活動になった場合に自分はそれぞれ応援できるだろうか、というところまで自問自答した。何とか復活出来たとしても、出直しは故郷広島に帰ってまた一から細々と…という活動を想定してた(かつて同じ事務所だった石井杏奈のその後を見ているので)。
血液型A型の性なのか、頭の形では常に最悪の事態まで想定してしまうのが自分の常。だからこそ、事務所移籍して復活ライブをduoで行う、と聞いた時には上出来だと思ったし、復活時に旧曲が大人の事情で歌えなくなったことに関して当時は様々な意見があったものの、個人的には「生きてさえいればかすり傷」くらいの思いだった。
それでも当時は危機感はあった。復活の日に掲げたのは、4ヶ月後のフェニックスホール1500人への挑戦。当時のまみりの集客力と4ヶ月という期間を考えれば無謀な挑戦とも思えた。これに失敗したら、今度こそまなみのりさは終わるかも…という危機感は拭えなかった。
無謀とも思えたフェニックスホールを満員にしてなお、東広2拠点体制を始めたまみりは東京での集客に難儀して悩んでいた。復活翌年の東京初の勝負ワンマンであった新宿ReNYが終わった後には苦しかった胸の内をみのちゃんがインスタで吐露していたこともあったし。その年に東広4本の勝負ワンマンを成功させ、そして迎えた翌2019年の3月「満員になったら…」と銘打ったワンマンで、会場のO-WESTを文字通り満員にして、12周年のduoワンマンと年末のヒューリックホールワンマンを発表する。
その時のMCでの「辞めることより続けることの方が100倍難しい。だから私たちはこれまでも、これからも難しい方を選びます。」「私たちはまだまだまなみのりさを辞めません。」という宣言。これによってここまで抱いていた不安から解放された、と言っても過言ではない。まなみのりさはもう大丈夫。どん底の状態から這い上がってこれだけ苦労して、これだけの思いで復活したのだからちょっとやそっとで辞めることはない、と確信できた。それを裏付けるように、年末のヒューリックホールワンマンは立ち見が出るほどの大盛況での成功を収めた。
だからこそ、その直後にコロナ禍が全国を襲って3人が集まって思うように活動できなくなった時ですら、各自宅からのツイキャスコラボ配信やnanaによるカヴァー曲披露と、ライブ以外で自分たちができることに精力的に取り組んでいたので大丈夫、と思っていた。とくに昨年はコロナ禍の間隙を付きながら生誕祭含めて6回の勝負ワンマンを東広ですべて開催できたのは「続けていく」という意志を貫いた彼女たちへの神様からの粋なご褒美、くらいに思っていた。
そのうちの一つ、神田スクエアホールで行われた14周年ワンマンライブ「Elope」。みのちゃんは最後のMCで感極まって言った。
「ずっと待ってます」と言って1年も経たないうちに解散の発表、っていうのに困惑している人も多いような気がするし、自分自身も最初にそれを感じたのは事実。だけど「ずっと」を文字通り「永遠」ととらえるのは無理のある話だし、それを求めるのも酷な話だと思う。
じゃ、「ずっと」の期限っていつくらいまでなの?1年も経たずに、っていうなら1年経ったらいいの?てことはこれから1年間は続けてくれるのであればセーフじゃね?とか考えてしまう。そもそもがそういう言葉尻の話だろうか?絶対量としての「1年間」の捉え方も、刹那的に再編が繰り返されるのが常態化してる「女性アイドルグループ」という中に置かれた彼女たちの環境を考えれば決して短い期間ではない。加えて、そういう環境に置かれているということは、長く続ければ続けるほど続けることの負担が増えてくるという側面は拭えない。1年続けるということは「ずっと」であり「いつまでも」に相当するような長さかもしれない、とも思ったりする。先の「まだまだ、まなみのりさを辞めません」という宣言についても、そこから3年間も続けてくれた(そしてさらに1年間のプラスがある)のであれば十分に「まだまだ」を全うした、とも言える。
改めて振り返れば、自分はまなみのりさファンになって8年弱、旧体制からの活動休止、復活をリアルタイムに見てきた身としては、あの復活から5年間の長きに渡って続けてくれた、ということになる訳だ。それは実に旧体制で応援していた頃の倍の時間にも匹敵する。一度は覚悟していたことを考えれば5年前には想像がつかなかったようなアディショナルタイムを貰ってる、というだけで贅沢なことなんだよね。
辞めるより続ける方が100倍難しい、と言っていた彼女たちが、この5年間続けていくことがどれだけ大変だったことだろうか。ありがたいは「有り難い」。存在することが難しい、ということ。5年間続けてくれることだけで奇跡的なことだったということに「有り難い」という言葉しかない。その5年間に数々の盟友であったアイドルグループが解散しているのをいくつも見送ってきたのだから。
逆に言えば、当たり前のように続いていく、と思いこんでいたということは、この「有り難い」ということを忘れていたということなのだ。現実を突きつけられて改めて、当たり前と思っていたことが「有り難い」ことだったことに気づくと同時に、盟友たちが解散する度に「彼女たちの思いも背負って頑張って続けてね!」と言い続けてきたことが、3人にどれだけ負担をかけてきたのか、と思うと今では後悔している。まみりがそれぞれ「みんなを悲しませてしまったことを謝りたい」っていうけど、自分は逆にこういうことを気軽に言いすぎて負担をかけたり傷つけたかもしれないことを謝りたい、と思った。
「終わらせる」ということ
自分の中では、まなみのりさは続けることこそが正義であり、辞めるのは悪である、ということが勝手に脳内に刷り込まれていたんだな、と思う。数々の老舗グループが解散したり、長く続けていたメンバー卒業したりしてる中、それでも続けているまみりはエラい!尊い!と。だからこそ「彼女たちの思いも背負って頑張って続けてね!」などと気軽に言ってしまったんだと。もちろん続けていくことはありがたいことなんだけど、先にも言った「有り難い」ことでもあった訳だ。
じゃ、まなみのりさを終わらせる、と決めた今、まなみのりさはエラくないのか?尊くないのか?否、続ける続けないの判断を抜きにして、まなみのりさの奏でるハーモニーとダンスパフォーマンスは圧倒的であり唯一無二だ。少なくとも自分はそう信じている。むしろ、それにもかかわらず実力が世間に認められていないもどかしさを感じている、と言った方が正解だと思う。
本人たちもそれは感じていたんだと思う。
Perfumeという偉大なスクールの先輩を持ってしまったがために、比べられることも多かったと思うし、負けず嫌いの3人としてはもっと大きいステージに行きたかった、という思いはあるだろう。それに関して「悔しい」という言葉は使っているんだけど、まなみのりさを続けられなくなること、終わりにすることに対して悔しがってる様子は、不思議とブログやらインタビュー記事を読んでもとくに感じない。単に自分が鈍感なだけなのかもしれないと思いつつも、そこは割と文字通り受け取ってもいいんじゃないかと思っている。
まなさんのいう「自然の流れ」というのが、自分は最初、なかなか理解できなかった。でもブログや記事を読み返して、何となくわかってきたのは、続けることが当たり前、というのがいつの間にか使命感のようになっていたことを、この時期に改めて考える機会があったということ、だと思う。
それが「コロナ禍で改めて自分たちを見つめ直す機会ができたから」というのは皮肉だし、それだけを字面で考えれば「コロナふざけんな!」なんだけど、逆に、一個人の女性として彼女たちの人生を考えれば、突っ走ってこれた間はそれを疑う余地もなかったけどそれが負担として蓄積していたこと、それを時間をかけて考えたときに、改めて続けることが当たり前ではなく「解散」も選択肢の一つ、ということが肯定的に出てきた、ということは決して悪いことではないと思う。そう考えればまなさんが「自然な流れ」っていう表現をしたのもうなづける。
一方でりっちゃんのブログでは「最初は解散なんて言葉は頭の片隅にもなかった。」っていう言葉が独り歩きして、りっちゃんは本当は解散なんてしたくなかったんじゃないのか?という憶測も飛び交ってるみたいだけど…
あくまで個人的な意見なんだけど、それは深読みのし過ぎというか、1年前に「解散」を意識し始めた時点では、まなみのの2人も意識的にはりっちゃんとそんなに違わない中で、選択肢の一つとして「解散」の可能性が出てきたのではないかと思うんだ。少なくともその前までは解散を考えたことはない、って言ってるしね。
3人とも、ブログやインタビューを読めば自分たちのパフォーマンスには自信を持っているし、まだまだ更新できると思っているのは間違いない。もう限界だから辞める、ということではないと思う。一方で、続けていくということは、不可抗力で続けられなくなるリスクも伴う、ということ。体力的な問題もあるだろうし、特に女性ならではの「結婚、出産」といった人生設計の問題もある。今すぐにそれが直面している問題ではないかもしれないけど、近い将来には顕在化してきておかしくないリスクだ。さらに言えばまなさんの頸椎ヘルニアやりっちゃんの腰痛など、身体にバクダンを抱えていることもある。
ボロボロになるまで続ける美学もあるだろうし、個人的にもそれこそ3人とも限界になるまで続けてほしい、続けることが正義だと思っていた。だけど、それは単なる一ファンのエゴかもしれない、と思い直した。「まなみのりさを綺麗に終わらせたい」「惜しまれつつ終わりたい」という言葉にするとものすごく軽くエゴイスティックにも聞こえるけど、自分たちのパフォーマンスに自信を持っているからこそ、不可抗力で突然終わってしまったりフェードアウトするのではなく、自分たちの最高を更新して幕を引きたい、と考えたときに、ただ続けるのではなく「解散」という選択肢が出てきたことはそれこそまなさんの言う「自然な流れ」なのかもしれない。まなみのりさをどのような形で終わらせるのかを選ぶことができるのは、他でもない「まなみのりさ」本人である3人であるべきなのだから。
続けることこそが「まなみのりさを守ること」と思っていたりっちゃんの中でも、こうすることでまなみのりさを守れるんだと目から鱗が落ちた、ってことなんじゃないかな。だとすれば、3人で話し合って解散を決めた時点では「前向きに考えている」というのはとくに間違ってないと思う。
その通りで、何かがズレて崩れて終わらざるを得ない状況になる前にキチンと終わらせる。そのことこそが「まなみのりさを守る」ことでもあると思うんだ。
そして、これも言葉尻の問題なのかもしれないが、3人ともまなみのりさを「辞める」「引退する」「卒業する」という言葉を使っていないんだよね。あくまでも、まなみのりさを「解散する」「終える」「終わらせる」という表現だ。
かつて「辞めるより続ける方が100倍難しい」と言っていた3人だけど、辞めると終わらせるでは難しさも全然違うと思う。ひょっとすると「終わらせる」ということは「続ける」ことよりも難しいのかもしれないとさえ思う。少なくとも、まなみのりさを終わらせる、という決断の難しさは続けることの1/100ではなかったと思うし、逆に続ける難しさに匹敵するような難しさだったかもしれない。
そんなところにも、決して後ろ向きな解散ではなく、前に向いた故の難しい挑戦としての「解散」という選択なんだ、という気持ちが表れているようにも捉えている。自分が鈍感で能天気なだけですかね?(笑)
終わりの始まり
さらに自分がこの解散を比較的ポジティブに考えているのは、一旦まなみのりさを終わらせる、ということは「終わりの始まり」なのではないか、と期待している、という面もある。
とはいっても、別に来年の4/2から「まなみのりさ2」が始まりますよ、ということを期待している訳ではないので念のため(笑)。それで喜ぶ人もいるかもしれないけど、ドルヲタというのは、というか少なくとも自分は意外とナイーブなので、それをやられたら逆に一気に冷めると思う。
ただ、まなみのりさは解散しても、谷野愛美、岡山みのり、松前吏紗の3人の絆は続いていく、はず。
※いや、本当の解散の原因が3人の仲違いだ、っていうんなら話は別だけど(いや、そんなことはないと思うけど、頭の中では最悪の事態まで想定してしまう性なので(笑))。
話を戻すと、そうだとすればたとえ来年の4月以降はそれぞれの道を歩んだって、15年間、いやデビュー前も含めれば人生の2/3くらいを一緒に歩んできた3人の絆は続いていくだろうし、当然同窓会的に集まることもあるだろう。だったら、その何回かに一回を、我々ファンもご相伴に預からせて貰えないだろうか、ということである。
Especiaが結成10周年ということで、ホームである大阪・北堀江のライブハウスで記念イベントを行うそうだ。メンバー5人のうち2人は出産を控えており、体調次第ではあるが参加する方向だという。
盟友Caramelだって、そういった記念日にこだわらずに活動停止してからもう2回ほど「一夜限りの復活」を成し遂げている。
別に期間限定で復活、とかそんなに大仰に構えなくてもいい。記念日とかにこだわらなくてもいい。「一夜限りの同窓会」をたまにやってくれて、歌えれば歌えばいいし踊れれば踊ればいい。なんならトークだけでもいい。そこでステージレベルの更新なんて期待しない。あくまでも「同窓会」なのだから。昔を懐かしみながら昔話に花を咲かせる、でいいんじゃないかと思う。そのためにも一度自分たちが納得いく形で、過去最高を更新した形で一度「終わらせる」という選択は重要なんではないかと思う。
あと、終わらせることなく続けていった場合、個人的には結婚とか出産といった、一個人の女性としての幸せを自分は素直に祝えるだろうか、という懸念もあった。それに関してはたとえば今のNegiccoがその状態ではあるが、自分がその立場だったら個人の幸せは祝福したいけれどそれによってグループの活動が止まってしまうことに苛立ちを感じて複雑な思いになってしまうのではないか、と思う。
その点、一度きちんと終わらせることによってそういった祝い事も素直にお祝いできるんじゃないかと思う。活動が止まるかも、という苛立ちも、元々活動が止まっていれば感じずに済む訳でね。
もう一つ。現在は事務所を変わって復活してからの活動なのでなかなか歌いにくかった旧曲も、一旦「まなみのりさを終わらせた後」の同窓会なら歌いやすくなるんじゃないか、という期待もある。それでもtetsuhiko曲は版権の大人の事情から歌えないかもしれないけど、それ以前の曲を歌うことのハードルは相当に下がるんじゃないのかな、という気もする。40歳になっても50歳になっても「アイドルやってますが、何か?」っていうセリフが聞けたらサイコーじゃないか?サイコーじゃないか?
そう考えると、最初に言っていた「還暦のまなみのりさ」を観るのも夢じゃない。むしろ、ずっと続けていくよりもこういった「同窓会」の形の方がよっぽど現実味が出てきたんじゃないか、とすら思ってる。
さいごに
以上、あくまでも一個人の意見なので賛同できる部分もできない部分もあると思う。とりあえず自分はこういう形で「まなみのりさを終わらせる」ということをある程度肯定的に捉えている、つもりであるということを書き留めておきたかった。
勿論こうすることが正解である、と主張するつもりはない。ファンはそれぞれ考え方も違えば出会ったタイミングも違う。自分がたまたま旧体制を超える時間を新体制で貰えたから感じた部分もあるだろう。だから新体制からしか知らないファンや、逆に旧体制の方が長いファンと比べたら当然違う感じ方をするかもしれない。こんな感じ方をしてある程度納得しました理解しましたよ、というファンの一例として読んでいただければ幸いである。
納得したり理解するには時間がかかる人もいるだろう。それは個人差あって当然だと思う。あるいは納得なんてできない、理解なんてしない!と思う人もいるだろう。
それは否定しない。だけどまみりの3人は、やっぱり最終的には、納得してほしい、あるいは納得できなくても理解してほしい、あるいは納得も理解もできなくても受け入れてほしい、と思っているんじゃないかと思うんだ。
誰も置いていきたくないから、時間かかっても待ってるけど、最後のサンプラザまでには間に合うようにあとからでもいいから全速力で追いかけてきて、という思いだ。だからそこまでには、何とか整理をつけてきてほしい、というのが彼女たちの思いだと思う。とりあえず自分は、出遅れて全力で着いていく体力があるかどうかも疑わしいので(笑)、今のうちに全力で納得して理解できるようにしたい、と思ってここ数日考えたことをまとめてみた。
もっとも、こんなこと文章に書いているから言えるのであって、実際には今はまみりの曲を聴いただけで涙ぐんでしまうような情緒不安定な状態でもあることは事実。感情と理性は違うので、彼女たちを目の前にしたら感情的な部分でどうなってしまうかもわからないし、そのことを否定したら自分自身を否定することになるので、自分のそういう部分も全部受け入れるつもり。
その上で、いつもの楽しいまみりライブを心から楽しめるよう、できるだけ早く立ち直りたいと思う、少なくともライブ中はそんな不安や寂しさを忘れて没頭して楽しみたい。あの時充分楽しめなかったな、と、後々後悔なんてしたくないので。
そして、解散が決まった時には、もう長生きしなくてもいいから刹那的に生きようと思ったけど、今はまた、還暦のまみりを観ることを楽しみに長生きしようと思う(笑)。