文献学研究者のためのインド渡航備忘録ー①きっかけ編
目的
私は博士課程に通う学生で、中世イスラーム医学史を専門に研究しています。現在、博論に向けて史料をせっせと集めている最中なのですが、
その一環で、インドのハイデラバードに行くことになりました。
観光情報は探さずとも見つかる状態なのですが、研究目的でのインド滞在という点では簡単に探しただけでは情報が何も見つかりませんでした。そこで、せっかくならこれから向かう自分の経験を広く共有し、これからインドに研究調査で行く人に役に立てばと思い、書き残すことにしました。
そのため、「私は~だった」や「本来は~らしい」という話も集まると嬉しいです。
なぜインドに行くのか
そもそも、なぜインドに行かなければならないのか。理由は単純で
現地に行かないと史料が手に入らないから
2024年10月時点だと、世界各国の文書館や図書館、その他研究機関は所蔵する史資料をインターネット上で公開していることがほとんどです。例えば、日本の場合、国立国会図書館が「国立国会図書館デジタルコレクション」として古典籍や写真、雑誌などの所蔵資料をオンラインで公開しており、世界各地からアクセスできるようになっています。
ただし、このようなデータベースやコレクションは欧米や日本など先進地域ではある程度揃いますが、「全部の文書館で」という訳にはいきません。
とはいえ、この便利な時代、メールで連絡して史料を取り寄せることも簡単です。以前調査に行ったスペインの文書館だと、欲しい史料の情報を送れば、請求書が届き、振り込むと画像データが送られてきました。
インドも膨大な史資料があり、写本のサイトも用意されていますが、オンラインで見られるのは相当に限られます。そこで画像を送ってもらうために問題の図書館に連絡しました。それが全ての始まりでした。
文献学とは?
詳細を話す前に、文献学について簡単に理解しておくと、これからの話が理解しやすいかと思います。(知っていれば読み飛ばしてOKです)
さしあたって、私が研究している範囲での文献学は、
歴史的資料(史料)が元々どのような原文であり、それが後にどのように伝承され、現在に至るかを考察する学問
と理解してください。
現在のような印刷技術がない時代には、人が手書きで文章を写していました。その過程で書き間違いや抜けを含むものが流通し、それが引き継がれては、また間違えられ…を繰り返してきました。
そうすると現代の研究者として気になるのが、「元々、この文章はどういう形だったんだ?」とか「どうやってこんな間違いだらけになったんだ?」という問題です。
そこから様々な写本を比較して「Aの写本はBの写本より成立が古いらしいから、恐らくより原文に近い形を残しているな。Cの写本はAとBのどちらにも無い文章があるから、これはもっと後の時代かな」などと考察します。そうして、著者のオリジナルを(一定程度)復元しようとするのが文献学者です。ここでできる復元版を校訂版(エディション)と呼びます。
私はこれを9世紀頃に書かれたアラビア語の医学書を対象に行なっています。つまり、現存するとある作品の写本について、できるだけ収集し、それらを見比べた後に、成果としてエディションを作ることが進行中の研究のゴールということになります。
カタログとにらめっこ
ところで、私はなぜ目当ての写本がインドにあることが分かったのでしょうか。もちろん適当に渡航するわけではありません。
多くの文献学者が調査する写本を集めようとするとき、先行研究で一覧で提示されている場合もありますが、大抵は図書館や文書館のカタログやレファレンス類を読むことになります。多くの図書館や文書館は、自分たちが所蔵する史資料の情報を記載したカタログを持っています。自分たちで賄うというより、特定の研究者が例えばそこに所蔵されているアラビア語の写本を一通り目を通して、どのような写本であるかをカタログに記録しています。
アラビア語やペルシア語などの写本は、ヨーロッパが当地に進出した時期に蒐集家がヨーロッパに持ちこみ、相当な数がヨーロッパの図書館などに保管されています。そこでカタログが作られたというわけです。また、現地に赴いた欧米人が現地の図書館のカタログを作成したケースもあります。
このようなカタログ以外にも、作品ごとに写本に関する情報を記したレファレンス類も有用です。私の分野では、Ullmann. Die Medizin im Islam、Brockelmann. Geschichte der Arabischen Litteratur(通称GAL)、Sezgin. Geschichte des arabischen Schrifttums(通称GAS)などを読むことが多いです。
今回調査する作品の写本は、先行研究で言及があり、それを基にレファレンスも参照するというふうにして探しました。
その図書館どこですか
私が探そうとしている写本はインドのハイデラバードにあるらしいということは分かったのですが、一つ困ったことがありました。図書館の名前が書いてあるんですが、
そんな名前の図書館、インドにないぞ
おかしい。レファレンスは1970年代の執筆なので、多少変更があったとしても2015年に出た先行研究に書いてあるから、検索で出てこないということはないでしょう。ひとまず、いろいろ試してみました。小文字と大文字、アラビア語表記などなど。それでもやはり見つからない。
もう一度、英語で調べてみると、図書館のWikipediaが出てきました。それを見ると、どうやら先行研究が出たタイミングあたりでハイデラバードの属する州が新たに設立されたらしく、そこで図書館の名前が変わっていたようです。そういうの止めてよ。混乱の元よ。
そこからは、新しい名前で検索すると、いろいろと情報が出てきて、なにやら学術機関のメールアドレスサイトのようなものに出会って、目当ての図書館のアドレスを見つけました。ひとまず、めでたし。
欲しい写本の所蔵場所と連絡先が分かったので、次はいよいよ手に入れる方法を、ということで最初の図書館とのやり取りを始めたところに戻ります。
「テランガーナ映画振興社」
送ったメールを簡単に要約すると、
かなりシンプルです。実際には英語で書きましたが、それもChatGPTに下書きを書いてもらって、変に丁寧すぎたり、よく分からないことを書いていたりするところを修正するという感じです。
ちなみに、これは私のプロンプトが良くないのか、「~という以上のメールの返信を書いて」と言うと、なぜか相手側がこちらに送るメールの文面を作りました。なぜなのか。
ともかく、メールは送ったので後は返信を待つのみ。返信は4日ほど経ってから来ました。この辺も日本の感覚とは違いますね。
そこにはこう書かれていました。
え?要は「うちじゃないですよ」ってこと?じゃあ、あのアドレスは何だったの?これがインドの洗礼か。早速やられた・・・。
けれど、続けてこう書かれていました。
ありがとうございます!
皆さん、「RRR」とかインドの映画を振興しましょう。いっぱい見ましょう。善行を施した人は救われるべきです。
ようやく(本当の)図書館のアドレスを手に入れたので、意気揚々と連絡したら全く返信は来ず、ザオラルメールを送ってもガン無視。初めから脈なしです。というわけで、日本から画像を手に入れるのは、どのみち不可能だろうという結論に至り、現地に飛ぶことになりました。
今回向かうハイデラバードは、インド中南部に位置しており、年間の平均気温が約32度、雨量は804ミリだそうです。滞在する11月は雨量は比較的少ないものの、気温は28度ほどと依然として暑いようです。私は高温多湿が苦手で、基本的に砂漠か乾燥した夏のヨーロッパにしか行きません。
そういうわけで、インドには行くしかない。行きたくないけど。
【今回の備忘録】
・下調べは入念に
・諦めずに色んな手を使って調べる
②準備編に続く(予定)