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私はミル貝になりたい

終わりなき進化の果てに
――「私はミル貝になりたい」が照らす存在の不条理


はじめに

深海の砂泥に身を埋め、ただ潮の流れに身を任せるミル貝。その存在は、進化の終着点とも言える究極の「諦め」を体現している。人間が脳を発達させ、社会を築き、虚構の意味を紡いだ末にたどり着く先は、果たして貝殻の内側か。この願望は、進化の暴力への抗議か、それとも知性がもたらした終末的な倦怠か。


1. 進化という拷問器具

生物は38億年かけて神経系を発達させた。その結果、人間は「苦悩」を発明した。ミル貝には痛覚もなければ、未来への不安もない。鰓で濾過するプランクトンと、消化器官だけが全ての世界。彼らは「進化の失敗作」と呼ばれるが、むしろ「進化の暴力」から最も自由な存在ではないか。

我々が手に入れた大脳新皮質は、皮肉にも「自分がミル貝になりたい」と囁かせる。進化の頂点に立った種の末路が、無脳化への憧憬だとするなら、これは進化論の提供した壮大なアイロニーである。


2. 時間の砂漠を漂流する貝殻

ミル貝の時間は潮汐によって測られる。満ち引きの周期だけが彼らのカレンダーだ。一方、人間は秒針の刻む「生産性」という刑務所に閉じ込められている。デジタル時計が切り刻む人生の断片、SNSが強制する永遠の「現在」——この時間管理社会から砂泥に潜りたいと願う心情は、もはや病理ではなく理性の帰結だろう。

貝殻の成長線が示すのは、単なる年月の堆積ではない。環境に適応するという名の、受動的な諦念の歴史である。我々が「成長」と呼ぶものも、実は同じ原理ではなかったか。


3. 感覚の牢獄からの脱出

人間の感覚器官は世界を「解釈」するという刑罰を課す。美しい夕焼けも、愛の言葉も、すべて神経細胞の電気信号に過ぎない。ミル貝は光を感知しない。求愛のダンスもなければ、芸術的衝動もない。刺激に対する反応が0に近い生態——それが知性の先にある楽園か。

「感じる能力」を捨てることで初めて得られる安寧。この願望は、サルトルの言う「嘔吐」を経験した者が抱く、根源的な逃亡企図に他ならない。感覚世界の過剰さに溺れかけた者だけが、無感覚の海を渇望するのだ。


4. 生存競争という茶番劇

ダーウィンの描いた世界では、全ての生物が「適応」という強制労働に駆り立てられる。ミル貝はこの競争から降りた反逆者だ。彼らは移動せず、戦わず、ただ濾過摂食でエネルギーを摂取する。代謝率を限界まで低下させた抵抗の形——それは資本主義の超高速社会に対する、最も先鋭的な批判と言えるかもしれない。

我々が「成功」と呼ぶものは、実は代謝率を最大化する自殺行為ではなかったか。1秒間に千回転する株式相場も、SNSのバズも、要するに過剰代謝の痙攣でしかない。貝殻に閉じこもることは、この狂騒への静かな抗議なのだ。


5. 存在の無意味性を抱擁するために

ミル貝の最大の美徳は、存在理由を持たない潔さにある。人間は「目的」という虚構に縛られて窒息しつつある。自己実現、社会貢献、遺伝子の継承——これらの強制観念から自由な貝類の生態は、ニヒリズムの理想形かもしれない。

深海の砂地に横たわるミル貝は、ヘーゲルの弁証法も、資本主義の搾取構造も知らない。ただ存在することが即ち存在理由であるという無垢の境地。この「無意味性への開けっぴろげな態度」こそ、現代人が失った生存の原型ではないか。


終わりに

ミル貝になりたいという願望は、進化が生み出した最高の皮肉である。知性を獲得した種が最終的に憧れるのが、神経系を退化させた原始的な存在だという事実。この逆説は、進化のプロセスそのものが抱える矛盾を暴いている。

しかし悲劇は、仮にミル貝になれたとしても、我々は彼らの安寧を真似できないことだ。なぜなら「ミル貝になりたい」と思考する瞬間、すでに我々は貝殻の外にいる。存在の苦悩から逃れるためには、思考を停止しなければならない——その究極の矛盾こそが、知性という刑罰の重さを物語っている。

砂泥に埋もれるミル貝は、潮の流れに身を任せながら、おそらく何も考えていない。その無念慮状態への憧れが、逆説的に我々を人間たらしめている。進化の果てに待つのは、憧れそのものが不可能であるという認識——それこそが、知性の最後の審判なのだろう。

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