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人生の漂白化

今日は「人生の漂白化」について書きます。
「人生の漂白化」とは生きる意味や喜びが剥奪されて、没個人的な生き方をすること、と捉えています。
この「人生の漂白化」というのは「他者との比較」「代替可能性」から生じてくるものだと考えられます。

まずは「他者との比較」について説明していきます。
現代では「他者との比較」が容易に行えるようになりました。スマホやSNSの普及によるものが大きいです。人間は元来社会的な生き物で集団のなかでの自分の立ち位置を気にします。ゆえに「他者との比較」というのは常々起こりうるものですが、これがSNSの台頭により、「他者との比較」の過当競争を招きました。

次に「代替可能性」です。代替可能性については発端は工業化があるのかなと思います。ベルトコンベアーの前に並んで同じ作業をみんなでする。作業は単純だから誰がやっても基本的には同じ結果が出る。→誰にでも置き換えられること、というムーブが発生しました。

「他者との比較」と「代替可能性」の関係性について論じると、まずはSNSが外せないと思います。SNSは「いいね!」を付けてくれる人=自分のファンが匿名性の高いネットで消えては現れるようなものです。構造としては、ネット上で「他者との比較」(いいねの数を競う)を行いながら、「代替可能性」の高い人=匿名の誰か からの賞賛を期待している、というものでしょうか。
平たくいうと、「自分の自己顕示欲を満たすためネット上のよく分からない人に褒めてもらいながら、よく分からない人と戦っている」という状況でしょうか。根底には自己顕示欲や承認欲求が隠れていると思います。
そして残念なことに人々はこの自己顕示欲や承認欲求を満たすためにテクノロジーを活用しています。

見方を変えると社会的な欲求にドリブンされてテクノロジーに踊らされている状況かもしれません。

このような本能に基づいた行動と万人が「いいね!」を欲して行う行動は均質化していくと考えられます。本能に基づいた行動が中心になれば不毛な「いいね!」獲得競争のなかで、ベルトコンベアーの前で代替可能な人生を歩むことになります。その中に生きる意味や喜びはあるのでしょうか。

一度立ち止まって自分が踊らされてないか内省してみるのもいいかもしれません。


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