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埋もれかけた苦しみに光を――映画『ジャンヌ・ディエルマン』感想
慣れた手つきでジャガイモの皮を剥き、肉をこねる――画面に映し出されるのは、ひとりの女性が家の中で淡々と家事をこなしていく姿。しかし次第に重く暗い雰囲気に包まれ、だんだん息苦しさが募ってくる。
そんな感覚を覚えたのは『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』を4月に宇都宮ヒカリ座で観た時のこと。これはベルギー出身のシャンタル・アケルマン監督によって1975年に発表された作品で、ジャンヌ・ディエルマンというひとりの主婦の日常にスポットを当てた内容だ。思春期の息子とブリュッセルのアパートで暮らす主人公のある3日間を追った本作は、主に室内の定点カメラから覗き見るような構図が印象的であり基本的に淡々と似たような光景が反復される。だが、息子が学校に通っている間に売春をしお金を稼ぐ姿や、数少ない会話の中から彼女が重苦しい感情を抱えていると窺え、様々な想像が搔き立てられるのだ。常に何か感情を押し殺しているように見える主人公だったが、やがてこれまでのルーティンを打ち破る行動に出る。それは決して許される行為ではないものの悲痛な心の叫びを象徴している気がしてならなかった。
では彼女を苦しめたものは一体何なのだろう。それは、当たり前のように繰り返される日常のルーティン――母や主婦、女性として求められる役割ではないだろうか。例えば、冒頭で触れたジャガイモの皮を剝くシーンで言うと、一見主婦が食事の支度をするごくありふれた光景だと思ってしまう。だがここで突きつけられるのは、主婦や母親という役割に彼女という存在を縛り付けていないか?という鋭い問いだ。世間一般的に謳われる〈主婦だから〉〈母親だからこうでなければならない〉といった呪縛。それによって次第に心が蝕まれ、本心や欲望を押し殺し、彼女はバランスを崩してしまったのではないかと推測する。ただ、現実に押しつぶされるわけにはいかない。彼女は最大限抗った。現実を飲み込もうとはしなかった。このままの生活は嫌、苦しみから解放されたいんだ――そんな必死の抵抗ともとれる行動を起こすわけだが爽快なカタルシスを得たり、何かがはっきりと解決したわけではない。それでも、ジャンヌ・ディエルマンという一人の人間の苦しみ、内なる悲鳴がなかったことにはされないのは事実だ。私はその点に少しの希望を感じる。
生きていると知らず知らずのうちに〈こうでなければいけない〉〈女性だから、男性だからこうあるべき〉といった誰かが、社会が作り出した既成の価値観に縛られてしまうことがいまだにあると思う。余談だが私は1997年生まれで現在27歳。本作が制作された当時よりもきっと女性を取り巻く状況はよくなり、理解は少し進んでいると信じたい。それでも「女の子だから安定した仕事に就いたほうがいい」「仕事は結婚して出産しても続けられるものがいいよ」といったことを言われたり、他にも〈女性らしさ〉という価値観に振り回され息苦しくなった瞬間は正直何度もある。〈女の子だから〉〈女性らしさ〉というような言葉や風潮は呪いのようなものだ。女性である前に自分である。どう生きていきたいか、どうありたいかを選ぶのは自分自身。それは性別に関係なくこの世に生きる人すべてが、自由に選ぶことができるはずなのだ。だから、本作でジャンヌ・ディエルマンという一人の女性の苦しみが浮き彫りとなることを通じて、人を縛り付ける既存の価値観に疑問を持ち、解放へ向かうきっかけにもなると私は思う。
主婦の日常から埋もれかけていた苦しみを表面化し、当たり前と思われる価値観に一石を投じたうえで現実に抗った本作。これを制作した当時、監督は25歳であり、制作スタッフ陣はほとんど女性で構成されていたという。そういった制作状況しかり1975年という時代に本作を発表することに革新性を感じつつ、今にも通底するテーマであるのは少し悲しさもある。どうしたら自由になれるのか。世の中の価値観は刷新されるのか――その問いはこれからもずっと続いていくだろう。いつかこの作品に描かれるものが〈古い〉と感じる未来がくることを願っている。