♪コンテスト参加記事 【進水式のはずが浸水◆期!?我が大変身記念日】
実際には片手で数えられる数秒間だったのは、九分九厘間違いありません。
たとえるならビデオの早送りレベルの垂直落下だったかと。
それでもストップ・モーションのようだった、視界内の風景と体感の変化。
これを綴りながら振り返ってみても、呆れるほど冷静だったようです。
物事が変わるのは一瞬だと、数え切れない人たちが声を揃えています。
人格とまではいわずとも、自身の価値観もまた然り?
1971年夏だったとの記憶は間違いなく、つまりは遡ること53年前のこと。
どこをどれだけ探しても、あの行動に及んだ意味が全く見当たりません。
それでもあの日の『挑戦』ならぬ『愚行』あればこその、今日の私です。
物心ついてからあの日あの瞬間まで、これまた単純計算で10年未満。
幼少期の私は、次の通りの園児からの児童でした。
・高所が怖くてジャングルジムは2段目以上に登れない。
・大きな地球儀のような回転遊具は目が回るので、触れることさえできず。
・集合写真は常に一番端のすみっこで半ベソ顔。
これだけでも十分お察しいただけるかと。
『自転車に乗れない』『泳げない』『逆上がりができない』
一応健常者として小学4年生に進級した時点で、この調子でした。
これには当時の家庭環境が影響していたようですが、ここでは無視します。
自転車で走り回る仲間を走って追い駆けてみるも、やはり限界があります。
プールの授業など、これぞ晒し者の刑。
低学年用の浅く小さなプールで、先生に両手を持たれてのバタ足の私に、
「がんばってェ~」
女子児童の表向きだけ激励の声、これぞ残酷極まりない公開処刑でした。
鉄棒のテストに至っては、私の試技は時間の無駄らしく、
「しなくていいよ」
体育教師のご配慮で免除される始末。
英才教育どころか、習い事とは一切無縁の子ども時代。
それでも机上の勉強は突出して成績優秀プラス、なぜかお絵描き上手。
これが『いじめ』なる集団理不尽から自身を守る『鎧』だったのかも?
夏休みのある日のことだったと、これは記憶が曖昧です。
昭和40年代、当時の我が家の近くに、自然形成された溜め池があって。
電気店が捨てたのか、冷蔵庫もしくは洗濯機の梱包材だったかと。
軽くて柔らかい木製の大きな木枠らしき物体が、複数放置されていました。
先述の通り、お絵描き図画工作は得意だった私。
「筏(いかだ)を造って、それに乗ってみたいな」
衝動といえるほど激しくもない、無垢(むく)な興味が湧いたのでしょう。
折しもその時期、自身の生活環境が大きく急変していました。
おそらく周囲の賢明な大人達の判断だったかと、これは後付けの推察です。
両親の庇護ならぬ下を離れ、父方の祖父母と寝食を共にし始めた頃でした。
つまりはそのような星の下で、それまで育てられていたのでしょう。
これすなわち、自覚していなかった◆◆から解き放たれた時期?
船出だ!
気づけばそれらを並べ、組み合わせ始めていました。
頭の中で見据えていた三次元の完成図。
それに近づけるべく、強度ゼロの構築作業に没頭していました。
大量の発砲スチロールが付随していたことも、心強い限りでした。
「これならバッチリ浮かぶに違いないぞ!」
自身が完全なるカナヅチであることを、綺麗に忘れていたようでした。
衛生面最悪の濃厚に濁った水面に浮かべた、自作の筏(いかだ)擬き。
両足を乗せきる前に、私ごと沈みました・・・・・・そりゃそうだ。
堆積した泥に足先が触れるも、踏ん張れるはずもなく。
「溺れ◆ぬのかな?」
服が泥水を吸っているにもかかわらず、だるまさんみたくプカプカ。
母親の羊水に浮かぶ新しい生命とは対極の劣悪環境も、態勢は酷似?
実際にはわずかな時間だったに違いなくも、物凄く長く感じました。
そして不思議なことに、息苦しさや恐怖感は覚えませんでした。
無意識に目を閉じ、息を止めていたのでしょう。
ほどなく後頭部が水面上に出たことを感じ、そこから顔を上げました。
眩しかった。
そして水面視点の景色が広がり、生還できたことを確信。
今振り返っても不思議なほど、終始冷静だった記憶ですが、実際は?・・・・・・
そこから先の顛末は割愛しますが、こうして生きています。
こっぴどく叱られる以上の昭和の子ども、ご推察の通りでした。
僕は1回◆んで、生まれ変わって泥水の中から帰ってきたんだ!
頭蓋骨を全部水の中に沈めれば、身体は勝手に浮き上がるみたいだぞ!?
2学期最初のプールの時間、先日のだるまさんを敢行。
綺麗な水道水の中、生まれて初めて心地良く水にプカリ。
この大きな進歩を、この日はクラスメートに話すことなく、さらに次の授業。
先生を含めた全員が、これぞ鳩豆の表情で一致していたことでしょう。
その夏最後の泳ぎのテストで、いきなり50mを泳ぎ切った私。
当時は能力に応じ、水泳帽に赤線や黒線が入る優劣明示の教育環境。
さびしかった私の帽子に、細い赤線が3本、誇らしく縫い付けられました。
これまた先述の通り、自転車を買い与えられる環境ではなかった現実。
近所の年上の女の子の家を自ら訪ね、小さな赤い自転車をお借りしました。
これだけでもそれまでの自身とは、完全なる別人の行動力です。
翌日から密かな独りの早朝練習。
初日の小一時間で両足が地面から離れ、ペダルを漕ぐことができました。
乗れた!
同級生は当時流行の、方向指示器が光る、26インチ級のサイクリング車。
その最後尾を16インチの赤い女の子用自転車が追随。
我ながら物凄い両足の回転数、疲れを忘れるほどの嬉しさが原動力でした。
この珍妙な少年一団、第三者の目にはどのように映っていたのやら?
もちろん逆上がりもクリアしていましたが、このあたりの記憶は朧気です。
繰り返しになってしまいますが、周囲の大人たちの判断だったのでしょう。
近所で暮らす両親宅を離れ、父方の祖父母と寝食を共にしていたこの時期。
「買ってもらえないのなら、自分で造ればいいんだ」
筏の教訓のプラスの部分だけを迷わず実践する、積極少年に大変身。
当時流行していた、日米対抗ローラーゲーム。
危ないからと学校は禁止令を発するも、それが無力なのは時代を問わず。
近所の工務店を訪ね、網戸の滑車のパーツを分けてもらって。
かまぼこ板に打ち付ければ、超簡易ローラースケート擬き、の完成。
「これで仲間に入れてもらえるぞ」
嬉々として衆目の前で両足を乗せた直後に砕け散り、直後に気づいた私。
あの日の筏(いかだ)と一緒だ。
心配性の極みから180度急転した少年は、以後あらゆる場面でこの調子。
ちなみにこの時期、ジャングルジムの一番上から地上にダイブが得意技に。
自身の身長より遙かに高所からの無茶、よく怪我しなかったものですね。
その後の自身の性格特性・価値観・判断基準・対峙姿勢その他・・・・・・
齢十歳の夏に確定から還暦を過ぎて数年目の現在地まで、変化進歩無し?
ちなみに思春期入口の当時、同級生男子の憧れは、実在の有名人でした。
・野球好きは四番サードで帽子を飛ばしての送球で、好きな数字は『3』。
・プロレスファンは16文キックと卍固めを校舎の廊下で乱発。
・特撮好きは正義の仮面の1号と2号、どちらが強いのかと激論が絶えず。
そんな彼らを横目に、当時本気で憧れどころではなく、
「僕はこんな大人になりたい!」
一点の曇りもない人生初の目標だったと、今だからこそ責任明言できます。
あれから半世紀以上、自身のささやかな歩みを振り返ってみれば、
「とりあえず上っ面だけは、結構実現できていたかも?」
純粋無垢ならぬ厚顔無恥も、振り切ればパワーとなるようですね。
#挑戦してよかった
あの日の泥溜め池への無謀進水あればこそ、今の私がこれを綴っています。
「アンタほどの人生好き勝手の極み、呆れを通り越して尊敬レベルね」
声の主は奇特ならぬ、冷静な判断力が危篤レベルの御仁。
我が法的配偶者と称されるポジション39年目を、飽くなき現在進行形。
「こんな変なヤツとの二人三脚人生、ここまで喜徳はありましたか?」
そのうちタイミングを見計らって、訊ねてみようかと ・・・・・・ そうか!?
これも『挑戦』なのでしょうね。
ここまでどうだったのか、やはり訊ねるのは野暮でしょうね。
数十年前に債務整理を経験しているので、貯えは皆無同然。
自己破産以外手助けできないと、弁護士が声を揃えた絶体絶命。
あの当時を体験談として、こうして振り返られていることが不思議です。
いわゆる退職金や分厚い諸々の年金支給も期待できません。
さらには本来であれば、視力障害者手帳が交付されるレベルの弱視。
本来であれば白杖を携えるべきだそうですが ・・・・・・ まだまだ足掻きます。
年齢的にもキャリア的にも、今後健常者としての雇用は望めません。
それでも不安や悲壮感はありません。
小さな遊園地の古びた木製ジェットコースターのような、我が人生。
脱輪しても気づかぬ素振りで、今も走り続けられているのですから。
世間さまに極力ご迷惑が及ばぬよう、今しばらく足掻いてみましょう。
我が武器らしきものといえば、往生際の悪さと半端ない天邪鬼。
あとは思い立ったら即実行・・・・・・これは熟慮を欠いている短所かも?
沈み始めたと感じたなら、だるまさんのポーズで流れに身を任せて。
十分以上でしょう。
こんなにも平和豊かなこの国この時代に、人として生命を授かったのだから。
これだけでも奇跡以上だと思えば、『挑戦』の二文字は無視できません。
そうそう簡単に、人は力尽きるものではないようです。
これ、責任明言。
(9/24/2024 書き下ろし)