苦しいよね生きるって
止まらない希死念慮。
取るに足らない人間関係で意味もなく苦痛を感じていることの自分の非合理さに虫酸が走る。気持ちが悪い。人はひとりじゃないけていけない。生まれてからこれまでずっと社会に属する事による恩恵を受け続けてきた人間が発する言葉じゃないかもしれないけど、人間が、社会が、そしてそうした摩擦になんの生産性もなく苦しんでいる自分がとても気持ちが悪い。
どこか人の存在しないところへ逃げ込んで、本当の暇が訪れたとき、私は何を望むのだろうか。
哀れにも社会への復帰を望むのだろうか。
社会を嫌悪して、社会からの脱出を試みても、真の孤独には打ち勝てず、やがてなんの成果を得ることもなくのうのうと社会へ帰ってくる。
くだらない。つまらない。一辺倒な人生。
生きていれば、悩むことや大変なことがあるのは当たり前。その度に傷ついて、全部どうでも良くなって、そんな自分の人生台無しにしちゃおうよ、って思ったりもする。傷ついて、治りかけのかさぶたは何度でもえぐりはがされる。
自分の中に潜在的にある二面性、裏表とかじゃなくて、外向性と内向性みたいなもの。私は自分の二面性をどちらも自分の要素であると理解してはいるのだけれど、理解したからといってそこになんの進展もない。普通に生きづらい。ある刺激に対して自分がどういう反応をするのかということに予測がつかないということはストレス要因なのかもしれない。
双極性障害の診断が出る前から自分の二面性によるアイデンティの不確立には悩まされていて、今でも自分がどういう刺激にどんな反応するかを手探りで探している。
それはとても地道で、勿論時と場合によるので体系化することはできない。それでも、そうしたメモを積み重ねて行くことで少しでも自分の生きづらさが解消されるのであればそれで良い。
どの私も本当の私だという確信があるからこそ、その多面性に辟易する。アイデンティの不確立。自分が自分を一番分かっていない。
そうして、生きていたら起きうる嫌なことや悲しいことに傷ついて、その些細な擦り傷は私にとってすぐに致命傷になり得る。そうやって傷つきながらこれから生きていくのであれば、そんなことに耐えられる気がしない私は、今ここで、あるいはなるべく早く、生きるという行為に終止符を打つしか対処法はないのかもしれない。
全てに100点を出し続けるのは無理だってわかってる。そしてその大抵の犠牲は、私自身だけ。自分に落胆することで人を嫌いにならずに生きてこれた。それは幸運だろうか。
誰かが幸せなんて言葉を作るから、不幸せは生まれる。
人間として社会の中で生きることは苦しいことの連続なのに、一杯の温かいカフェラテなんかに救われたりする。
気持ち悪い人間たちに認められることに喜びを覚えたりする。
なんて滑稽で軽薄で幸せな人生。
自分がわからなくて苦しいよ。だけど皆が幸せだと良いななんて安直にも祈ったりして。
私の好きな人が私のことを一生好きでいてくれますように。
なんて呪いをかける。