もう誰も私のことを形容しないでくれ
人はとても簡単に他者を形容する。「かっこいい」とか「真面目」とか「賢い」とか「面白い」とか。そうやってペタペタと他人にレッテルを貼ることには、あたかもなんの凶器性を帯びていないかのように。むしろ、相手を受容し理解し称賛している自分に誇らしげに。
ある程度成熟してくると、他者からの言葉は、余程気心知れた関係かパワハラ気質の上司以外からは、基本的に形容詞自体の意味はポジティブに捉えられるものを投げかけられることの方が多くなると思う。その見せかけのポジティブな称賛を「ありがとう」なんて常套句で受け取る。謙遜をすることさえある。それを投げかけた相手にほとんどの場合好意はあっても悪意はない。受け取った側も、その好意を喜んで受け入れる。そこに隠された少量の毒に気づかずに。タチが悪いことに、その毒は少量では致命傷にはならいないのだ。
しかし、それが長年かけて何度も何度も同じ言葉で形容されたとき、その言葉は賛辞から呪いへと変わるタイミングがくる。特に、幼少期・思春期からずっと受け取ってきた言葉には強い拘束力がある。「頭が良いね」と言われてきた人間は、人前で自分の愚かしいところを晒すことができなくなる。
「真面目」だと言われてきた人間は、他のあの子のように完璧でない成果物を笑って提出するようなことを自分に許すことが出来なくなる。「可愛いね」と言われてきた人間は、自分の容姿に対する価値の比重があまりに大きくなって、虚構の完璧の美を求める。「優しい」と言われた人間は、他人に意見を言えなくなり、優しくない気持ちが生まれた自分を否定するようになる。
ここまで一般化した書き方では語弊を与えてしまう可能性も大いにあるが、事実として上記のような形容による毒性に侵されている人間は少なからずいるのだ。だからとにかくもうこれ以上私のことを形容するのはやめてくれ。私は皆の前でバカになることを完璧でない自分を晒すことを自身に許したいのだ。