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17/こうして奇跡は向こうからやってきた!!
翌日、タンナがホテルまで迎えに来てくれて物件探しに出発です。
この頃のシェムリアップには不動産屋はなく、張り紙や人づてでの情報で貸し借りするのが一般的でした。
今では、オンラインでの契約も可能だそうなので、カンボジアの発展の早さは凄いなと改めて感じます。
さて、一軒目は、タンナの友達の両親が所有しているゲストハウスでした。
オーキデーを閉めたあと、タンナも一時このゲストハウスに常勤していたことがあったそうです。
その後プノンペンに帰郷して、前回私が皆んなを探しに来る少し前にまたシェムリアップに戻って来ていたところでした。
ここは、昔ながらの『カンボジアのゲストハウスってこんな感じ』だよね、という造りでした。
友達の両親が持っている物件ということもあり、安心ではありましたが、特に興味が持てませんでした。
場所は、最初の物件の半分くらいの距離です。
それならば少し遠くても、最初のゲストハウスの方が興味を引かれるものがありました。
残念ながら、ここはないなというのが私の感想でした。
そして、もう一つの物件に移動します。
その建物が建っていたのは、何度かレンに会いに行く時に通っていた道沿いでした。
メインストリートから1本裏に入った通りで、私の泊まっていたホテルからその道を抜けるとレンの働いていたホテルまで近道だったので、何度かその道を通っては行ったり来たりしていました。
その時に、ゲートが閉まっていて何か営業しているわけでもなさそうだけれど、だからといって普通の家でもないようだったので、気になって通る度にそのゲートから中を覗いていたのでした。
タンナに「ここだよ」とトゥクトゥクを停められた瞬間に、「私ここ知ってる!!」と叫んでいました。
彼もほんの数日前に、友達に連れられて中を見に来たところだったそうです。
まだ張り紙もされていませんでした。
その場でオーナーさんに電話をしてくれて、開けに来てくれるまで待つ間のことです。
まだ中も見ていないうちから、「私ここ借りる!」とタンナに伝えていました。
そう言われたタンナも「えっ、まだ中も見てないのに?」と、驚いていました。
遡ること10年前、バンコクで伊東さんに放った「私もバンコクに住もうと思います!」に次いで、二度目のことでした。
何の計画もないのに、そんな言葉が出てきたのは。
でも、きっともうこの時点で何かを感じていたのだと思います。
だってこの道を通る度に、他の建物には目がいかないのに、なぜかこの建物だけは気になってゲートから覗いていたのですから。
わざわざ閉まっているゲートの隙間に頭を突っ込んで覗くようなことをしたのも、この時が初めてでした。
本当に、不思議としか言いようがありません。
だからといって特別目立つような建物だったわけではないのですが、3階建ての建物の前にスペースがあり、そこがとても気になっていたのでした。
覗いていた時も、まさか貸し出されているとも思っていなかったし、ましてや宿泊施設としての建物だということさえもわかっていませんでした。
言葉では上手く言い表わせないけれど、縁としか言いようがありません。
その日は一通り中を見せてもらって、条件だけを確認してホテルに帰って来ました。
日本に帰るまで残り2日しかありません。
その間に決めることが沢山ありました。
絶対にあそこがいいけれど、現実的な問題もありました。
最初に見せてもらった物件よりも、ずっと家賃が高かったのです。
建ってまだ3年も経っていないこともあり、立地も中心部でシェムリアップで一番の繁華街であるオールドマーケットやパブストリートまで歩いて3、4分でした。
また、天井や壁などあちこちに木材が使われていて、ベットやクローゼットまでもが木でできていたので建築費用が相当かかっていたことなどもありました。
それ故に、高いのは理解できるけれど、最初の物件だとある程度イメージできていたものが、それだけ金額が変わってくると違ってきます。
翌日、一日かけて色々と考えました。
部屋を借りるのと違って、家賃が払えるだけで終わりではないですから。
悩んでもみましたが、きっと私の中ではすでに答えが出ていたのかもしれません。
その日の夕方、前回皆んなを探しに来た時に私が唯一の情報として持っていた、オーキデーを閉めたあとにレンとこにしきが一時期働いていたゲストハウスのオーナーだったThongを交えて飲みに行くことになりました。
私もレンの結婚式の時に泊まったことがあります。
今は、以前とは違う場所にホテルを建てて、10年契約で他のカンボジア人に貸しているとのことでした。
彼の両親は、シェムリアップのメインストリート沿いも含め、他にも数ヶ所に土地を持っている、いわゆるお金持ちの中国系カンボジア人です。
Thongが帰りに送ってくれるというので、送ってもらいがてら私の好きなアンコール・ワットのお堀りまでドライブに行きました。
その時に、経営者としていくつか話をしてくれたことがありました。
カンボジア人と結婚しているわけでもなく、日本人の女性が一人で宿泊施設を経営するということの大変さ。
たぶんこの時点で、私は他の旅行者よりも、シェムリアップでの観光業の裏も表もある程度わかっていたと思います。
シェムリアップならではのルールがそこには存在していました。
今では、インターネットによる予約サイトや独自のWebサイトでの予約が一般的となりましたが、この頃はまだまだ独特の守らなければならない掟のようなものがそこにはあったのです。
これは、この時も10年前も変わっていませんでした。
それを理解せずして、もしくは知らずして、ここではやっていけません。
絶対に上手くいきません。
そんなことも覚悟のうえでした。
そして、それを私なりにどのようにクリアしていくかということこそが、シェムリアップで宿泊施設を経営していくうえでの最大の難題だということもわかっていました。
きっと、Thongはそれを遠回しに教えてくれようとしていたのでしょう。
あり難いことです。
時代の移り変わりと共に、今ならシェムリアップで宿泊施設を経営することもそう難しくなくなりました。
そんなことも、今となっては懐かしい思い出です。
こうして、シェムリアップ滞在最後の日になりました。
あの物件を借りるのなら、仮契約をしなくてはなりません。
前日の夜には、もう気持ちが固まっていました。
『ここでこの一歩を踏み出さなかったら、きっと一生後悔するだろう』というのが私の決断の理由でした。
タイに住むことを母に報告した時のことです。
きっと、母は私の性格を良くわかっていたのでしょう。
一度も反対はしませんでした。
でも、今になったらわかります。
心配ないはずがありません。
ただ一言、「あなたの人生だから、あなたが後悔しないように生きなさい」が、母が私に言った言葉でした。
それ以来、後悔だけはしない選択をしようというのが、迷った時や、何かを決断する時の指針になっています。
その日は、朝オーナーさんに連絡を入れアポイントを取り、まず3ヶ月分の家賃を仮契約として支払います。
そして一度日本に戻り、3ヶ月以内に正式に戻ってくる日が決まったら連絡をすることになりました。
オーナーによってや物件によっても違うのですが、この時の契約内容としては一年間のデポジットが必要でした。
契約期間は最低5年間です。
要は、先に1年分の家賃をデポジットとして払います。
再度戻って来た時に、残りの9ヶ月分をまとめて支払うことで本契約が成立するということです。
そして、5年目に入った時点から最後の1年間は家賃を払わなくてよいということになります。
但し、その前にこちらの都合で賃貸契約を破棄する場合は、そのデポジット分は戻ってきません。
さらに5年経った時点で、協議によって更新するかどうするかを決めるというのが大まかな契約内容でした。
カンボジアでの経済発展や物価上昇を考えると、この時に家賃が爆上がりすることは充分にありえます。
この最初のデポジットは、3ヶ月だったり、6ヶ月だったりともっと短い場合もあるし、契約期間も1年更新の場合や、3年更新ということだってあります。
逆に、最低でも10年でないと貸さないという場合もあります。
オーナーさんによってまちまちです。
ただ、この物件は、一番最初に借りた人も、その後に借りた人も1年も経たずに辞めてしまっていたようで、このような契約内容になったようです。
私がゲートを覗いていたあの時も、前に借りていたアメリカ人が1年も経たないうちに辞めて本国に帰ってしまった後で、営業はしていないようだけれどなんの建物だろう?の状態になっていたようでした。
一旦、この内容で仮契約を済ませ日本への帰路に着きました。
ここから怒涛の毎日が過ぎていきました。
経営面も勿論ですが、この物件を借りる決め手となった建物前の空間をどうしようかと考えてみたり、部屋をどう飾るかやレストランをどうするかなどを考えてみたり。
どちらにしても、シェムリアップでは手に入れられるものが限られていました。
かといって、日本から持ち込んでも例にもれず、運賃の方が高くついてしまうので、プノンペンとバンコクをその時々で往復しながら必要なものを揃えることにしました。
タンナもオーナーさんと知り合いだったわけではないので、3ヶ月分のデポジットを払って私がいない間に他の人に貸したりしていないだろうかと心配して、毎日建物の前を通っては確認してくれていました。
そんなことも、カンボジアではあり得ることですから。
こうして日本での準備を終え、シェムリアップでオーキデーのようなゲストハウスを作るという夢に向かって歩き出したのでした。
日にちは、9月3日。
10年ぶりに皆んなを探しに行ってから、6ヶ月が過ぎた頃でした。
2度目にゲストハウスを見に行ってから、2ヶ月目でした。
今振り返ってみても、この時のパワーは凄かったなと自分でも思います。
冷静に考えてみると、最初のゲストハウスを見ていなかったら私の夢は形になっていなかったと思います。
それまでは、もしかしたらこれが最後のシェムリアップになるかもしれない、とさえ思っていたぐらいですから。
でも、皆んなを探しに行く前に自分の中で芽吹き始めていたものを、アダムに話したことで流れが変わったのです。
あのゲストハウスを見たことで、費用を含め可能かもしれないと思えるようになりました。
そして、それを踏まえたうえでの2回目の訪問だったので、実際に借りた物件を見た時に即決できたのだと思います。
もし、何もなくていきなり気になっていた物件に出会えていたとしても、滞在期間内での即決はできなかったのではないかと思うのです。
考えなれけばならないことも沢山あったし、その場で3ヶ月分もの家賃を払うことも実際にはなかなかできなかったでしょう。
すでに最初の物件を見ていたことで、少なからずとも心の準備ができていたこと、そして何より気になって覗いていた建物そのものだったという奇跡!
この物件だって、4ヶ月前に来た時にはまだ貸し出されていなかったわけですから。
しかも、その前に来た時には一度もこの道を通っていないのです。
泊まっていたゲストハウスも、Golden Templeのすぐ近くだったのに。
その数々の目には見えない不思議な縁とタイミングによって、手繰り寄せられるようにして夢を実現するに至りました。
勿論、ここで終わりではありません。
ここからが始まりです。
10年ぶりに皆んなを探しに行こうと決意した時も、簡単ではないかもしれないけれど、会えないとは思っていませんでした。
なぜか『絶対に会える』と思っている自分がいました。
そしてこの時も、自分が本当にしたかったこと、その夢を自分の中で認めてからは『絶対に成し遂げられる』と思っている自分がいました。
皆んなを探すところから始まって、ゲストハウスを経営するという夢を形にするまでにかかった期間はたったの半年間でした。
そして、日本で準備している時ことです。
報告も含め、友達と代官山に食事に行った帰りにTSUTAYAに寄りました。
この時、初めて『aruco』を目にしたのです。
それまでは、バックパッカー御用達ガイドブックといえば『地球の歩き方』と言われるほど地球の歩き方が主流でしたが、女の子の一人旅に大活躍しそうな、ポップで楽しそうなイラストや写真がたくさん並んだ女子受け間違いなしのガイドブックでした。
この当時は、まだカンボジア版は発行されていませんでした。
これを見た時に、「いつか絶対に自分のゲストハウスもこれに載せる!」と、その場で友達に宣言していました。
後々、これも実現することができました。
それも、出版社の方からオファーをいただいたのです。
この瞬間、代官山のTSUTAYAで宣言した時のことが蘇ってきました。
そして、『地球の歩き方』にも掲載していただきました。
たまたま編集者の方が私のゲストハウスの前を通りがかり、こんな所に新しく宿ができたんだと、覗いたのがきっかけでした。
まさか、日本人が経営しているとは思ってもいなかったようで驚いていました。
「できることなら掲載させていただきたいと思うけれど、紙面が限られているので小さくなってしまうかもしれません」というのが最初のお話でした。
それまで散々『地球の歩き方』にはお世話になったけれど、地球の歩き方は見るものであって、まさかあのガイドブックに自分のゲストハウスが採りあげられる日が来るなんて、初めてシェムリアップを訪れた時には夢にも思っていなかったのですから。
皆んなにもう一度会いたいということも、オーキデーのようなゲストハウスを作りたいということも、そしてそれをいつか『aruco』に掲載してもらうということも、その数々の「夢を叶える」ということを、身をもって体験したのでした。
こうして、半年前には想像もしていなかった、私の二度目の海外移住生活がここから始まったのです。
※情報に於いては年月の経過により変わりますので、どこかへ行かれます際には、現時点での詳細をお調べいただきますようお願いいたします。