03/思いもしていなかったバンコク移住生活の始まり
なんとか準備も整い、バンコクへの片道航空チケットをゲットしました。
今はなくなってしまいましたが、当時の直行便としてはバングラディッシュ航空とインド航空が安かったので、インド航空の片道チケットを38,000円で購入しました。
出発は、3月31日。
成田空港まで数人の友達と弟が見送りに来てくれることに。
この時期としてはめずらしく、行きのスカイライナーの中で雪がちらつき始め、見る見るうちに大粒の雪となって空を舞っています。
空港に着いた頃には、吹雪いて外がよく見えないほどになっていました。
一先ず、チェックインして荷物を預けようとすると思いがけないことが。
重量オーバーです。
その頃の私は、重さ制限があるなんて知りませんでした。
それまでは荷物で引っかかったことがなかったので、気にもしていませんでした。
旅行ではないのでパソコンに小型スピーカーに辞書や数冊の本、おまけに1リットルサイズのシャンプーやトリートメントに大量の日焼け止めや基礎化粧品まで。
現地で買えるかどうかわからないものもあったので、私にとっての生活必需品を目一杯、一番大きいサイズのトランクに詰められるだけ詰めたのでした。
我ながら上手く詰められたと喜んでいましたが、確かに重くて少しの段差を持ち上げるのもかなりの苦労でした。
その時に言われた超過料金、40,000円以上。
えっ?自分より荷物の方が高いじゃん!
仕方なくいくつかの荷物を抜いて、見送りに来てくれていた弟に家まで持って帰ってもらおうとするも大して変わらず。
途中であきらめ、結局42,000円を払うことになりました。
後から考えると、同じ80,000円を払うのなら日系の航空会社や、インド航空でもビジネスクラスを予約していれば重量制限自体がもっと大きいので楽な思いをして行けたのに、ただただ安いチケットを手に入れることしか考えていなかった結果、自分よりも荷物に多く支払うという経験をすることとなりました。
その後、無事にチェックインを終え、友達とも別れの挨拶を済ませて外を見渡すと辺り一面真っ白になりつつありましたが、意外にも遅延することなく予定通りに出発です。
機上では、友達が作ってくれた色紙を見ながら楽しかったことを思い出して、ちょっとセンチメンタルになったり。
一生会えないわけでもないのに、若い時って感情が豊かで今になって振り返ると、なんて素敵なことなんだろうと思います。
そうこうしているうちに、約6時間のフライトを得てバンコクに到着。
当時のドンムアン空港に降り立った途端に、暑くてムワッとしていて、ほんの数時間前とは全くの別世界が広がっていました。
タイは4月が一番暑い季節で気温が35度以上になることも多々あるので、日本との温度差が40度近くもあったことに。
あまりの季節感の違いと気温差にクラクラしたのを覚えています。
伊東さんと連絡を取らなくなってから暫くして、バンコク行きの準備がほぼ終わりかけた頃のことです。
仕事で弁護士会館の中の図書館を訪れました。
先生に頼まれた資料を探していた時に、声をかけられたのが他の知り合いの弁護士の先生でした。
「お疲れさまです」という挨拶とともに、タイのバンコクに移住することになったことを伝えたところ、先生の大学時代の一番の親友が仕事で今バンコクにいるとの話になりました。
以前、私もその方をちらっとだけお見かけしたことがありました。
その話から、「現地に誰か知り合いでもいるの?」と聞かれ、すでに伊東さんのことがあった後だったので「いえ、いないです」と答えると、その方を紹介してくださることになりました。
仮に、この方を松本さんとしておきます。
私の周りにいた人たちは皆んな、知り合いもいないのに一人で、しかも当時の途上国へわざわざ移住するという発想が信じられなかったようです。
電話をかけて話をしておくから、いつの便で行くのか教えてとおっしゃってくださったので、その後何度かのやり取りをし、松本さんが空港まで迎えに来てくださることになったのです。
これまた、偶然の出会いから思いもかけない展開となりました。
ほぼ到着予定時刻通り空港に着いてチェックインと税関を通りすぎ、言われていたとおりに約束のゲートへ出ます。
一度だけお会いしているので、大勢の迎えの中から松本さんらしき人を探します。
向こうも一度しか会っていない私に半信半疑ながら近づいてきたので、お互いに会えてよかったと挨拶を交わし、ホテルまで送ってもらいながら状況を説明します。
松本さんは、私が旅行で来たのだと思っていたそうで、例のあまりにも重い荷物に何をそんなに持って来たのかと驚いたと言っていました。
間に先生を介してのやり取りだったので行き違いが生じ、事情を説明しなおして、その日は遅いので後日食事をしながらゆっくり話をしようということになりました。
ここから松本さんとのバンコクライフが始まることとなるのでした。
ただ、伊東さんの時のこともあるので奥様ともお電話でお話したり、紹介してくださった先生ご夫妻とも交流があったので、親戚のようなお付き合いが始まりました。
奥様が日本でご両親の介護をされていて日本とタイとを行ったり来たりしていらしたので、一人で食事するのが寂しくなると連絡があって、一緒に食事に行くのが恒例となっていました。
あそこの通りに新しくイタリアンができたから行ってみようとか、どこどこのお店が美味しいと聞いたから行ってみようかとか。
本来は凄い立場の方なのに、そんな素振りは全く見せず、冗談が好きで面倒見が良くて、好奇心旺盛でいつもいつも明るい方でした。
はたまたバンコクで知る人ぞ知るの当たる占い師がいるからと、一緒に見てもらいに行ったり、親戚の叔父さんというのかお友達というのか。
この占い師さん、バンコクから車で1時間くらい離れたご自宅でやっていらっしゃるので口コミだけで噂が広まった方で、松本さんも最初は知り合いの方に連れて行ってもらったそうです。
会社に入社して最初の研修地としてバンコクを選択し、2年間の研修期間を終え、その後何年かして本格的にバンコク赴任となり、その任期が終わりを迎えた頃に見てもらったとのことでした
その時に言われたのが、『また戻って来る』だったとか。
研修期間と、さらに再度のバンコク任務を終えようとしていた時なので、もう一度戻って来るなんて本当だろうか?と思っていたそうです。
通常だとあり得ないことらしいのです。
それが、ちょうど私がバンコクに移住する少し前に、最後の海外赴任になるだろうとバンコク支社長として戻って来られていました。
転勤命令が出た時に、それはそれは驚いたそうです。
そして、後になって占いが当たっていたことを思い出し、これからのことも含め聞きたいことがあるから最後にもう一度行きたいとのことで、それなら私も便乗します!と、一緒に行って占ってもらいました。
その時に私が言われたことは、タイだか他の東南アジアだかの、どこか田舎に住むことになるだろうと言われました。
その頃は、まだまだバンコクを満喫中だったし、そんな東南アジアの田舎に自分がいることになるなんて想像もしませんでしたが、後から思うとこれもまたみごとに当たったことになるのではないでしょうか。
また、松本さんが仕事で知り合った、バンコクの不動産業界ではちょっと有名なタイ人の方と気が合ったようで、その後もプライベートなお付き合いを続けていたその方のホームパーティーに参加したり。
その方は結婚はせずに、3人の彼女がバンコクの一等地の広い家に一緒に生活しているような規格外の方で、そんな話を二人で「すごいね!?」と関心しながら聞いたり。
私がまだバンコクに住んでいる間に、先に松本さんの任期が終わって日本に帰ることとなり、マンダリン・オリエンタル・ホテルの最上階にある有名なフレンチレストラン『ノルマンディ』で送別会をしたり。
ホテル内にこのレストランに行く為だけの専用のエレベーターがあり、欧米人はタキシードにカクテルドレスを着ているような高級店での食事の体験もさせていただきました。
松本さんは、当時バンコクで800人を越えるタイ人の社員を持つ、某日本企業のタイ支社長をされていて、有名な漫画の題材にもなったことのある方でした。
ある時、松本さんに聞いたことがありました。
タイで日本人がタイ人の部下を持って、タイ語でコミュニケーションを図るって大変ではないですか?と。
想定外の渋滞は日常茶飯事、だからか約束や時間も守られるような守られないようなだったり、暑さのせいかすべてがゆっくりと進んでいく環境に、日本から来たばかりの私はイライラもし、時に頭にくることもありました。
それ故に、どうしても聞きたかった質問でした。
その時に、松本さんが話してくれたことがあります。
もし、遅刻した社員がいても絶対に皆んなの前で怒ってはいけないんだよ。
注意するのなら、別室に呼んで事情を聞いた上で、他の人がいない時に注意すること。
日本のように人前で注意することは、タイ人のプライドを傷つける行為となり、タイ人の反感をかうことに繋がるからとのことでした。
どんなにこちらが正しくても、また日本では正しくても、ここはタイなのだから「郷に入れば郷に従え」ということわざがあるように、風習や慣わしに沿ったやり方をしなければならないこと。
そして、社員に聞かれることがあるそうです。
なんで、日本人はタイ人よりもお給料が高いのかと。
勿論仕事に関する詳細は私にはわかりませんが、それを踏まえた上でこう教えてくれました。
それは、我慢料だと伝えるのだそうです。
君らには、まだ知らないことが沢山あるだろう、と。
できないことも沢山あるだろう、と。
それを教え、そして何よりそれができるようになるまで待たなければならないと。
それまで我慢、我慢、我慢なので、その我慢料だと言うのだそうです。
そう笑いながら教えてくださいました。
この時にはピンとこなかったのですが、ずっとずっと後になって私も東南アジアでスタッフを雇う立場になった時に、この言葉が身にしみるのでした。
ここからは、私ごととなって申し訳ありません。
実は、松本さんはつい先日永眠されました。
この場をお借りして、改めてお礼を言わせていただきたいと思います。
父が早くに他界した私にとっては、ある時はお父さんのような、ある時は親戚の叔父さんのような、ある時はなんでも話せる友達のような、とてもとても素敵な方でした。
松本さんにお会いできたこと、また一緒に過ごした時間は私にとってかけがえのない大切な人生の一片です。
本当に沢山のことを教えていただきました。
本当に沢山の楽しい思い出があります。
もう一度バンコクで一緒にお酒が飲みたかったなぁ、、、。
この場をお借りして、心よりお礼を申し上げます。
※情報に於いては年月の経過により変わりますので、どこかへ行かれます際には、現時点での詳細をお調べいただきますようお願いいたします。
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