15/写真を片手に意を決して海を越えての大捜索が始まる
翌日の早朝、アンコール・ワットを背景に昇る朝陽を見に行くことになりました。
これを見ずして、アンコール・ワットを語れません。
翌朝、行きがけに通りがかったドライバーを捕まえることに。
5時前にはゲストハウスを出発します。
外はまだ真っ暗です。
誰も歩いていませんでした。
そんななか、大通りに向かって歩いていると後ろから声をかけられました。
こんな時間に歩いているのは、サンライズを見に行く旅行者くらいしかいないので。
この時のドライバーに乗せてもらうことにしました。
決め手は、このドライバーが着ていたベストでした。
この頃、ドライバーとしてきちんと登録している人はナンバーが書いてあるベストを持っていました。
これを着ていたので、このドライバーに乗せてもらうことにしたのです。
場合によっては、こんな朝方のまだ暗いうちに、人も通らない状態でどこか違うところへ連れて行かれることだってあり得るのですから。
少しでも身元のわかるものがある方が安心です。
結局早く着きすぎたので、アンコール・ワットの正面にあった掘っ立て小屋のようなドライバー御用達のお店の前にトゥクトゥクを停めて、少し明るくなって足元が見えるようになるまでコーヒーを飲んで待つことに。
この時に、このドライバーにも写真を見せながら聞いてみました。
実は、カンボジア人の友達を探していると。
それを聞いたドライバーが、彼らのことは知らないけれど、私たちが遺跡観光をしている間にドライバーたちがたむろしているところで他のドライバーたちに聞いてみてくれることに。
私の持っていた写真を携帯で撮ってもいいかと聞くので、勿論と。
こうして、私たちが遺跡を廻っている間にも、彼が集まっているドライバーたちから情報を集めてくれていたのでした。
この日は、得にこれといった情報はありませんでした。
ゲストハウスまで無事に送り届けてもらい、翌日の約束をして別れました。
その翌日は、朝から少し遠い遺跡まで行きました。
この時にも、各々のお客さんが戻って来るのを待機しているドライバーたちに聞いてくれていたようでしたが、収穫はありませんでした。
そう簡単に見つかるとは思っていなかったので、特に落ち込みもしませんでしたが、それでも聞いてくれることに感謝してこの日の観光は終わりました。
翌日は、ミエちゃんが帰る日です。
この日の夜、二人でパブストリートで食事をしてその界隈を散策していると、町の中心を走るバーを見つけました。
中央にカウンター席を設けて改造した車体を、前を走る車が牽引する形で町中を走っていました。
そのカウンターのある車両に乗り込むと、数人の欧米人が楽しんでいます。
こういうの、欧米人は大好きです。
私ももれずですが。
この時に、このバーで一緒だったアメリカ人とオーストラリア人の旅行者と仲良くなりました。
シェムリアップの町を二周してから、4人でパブストリートに飲みに行きました。
この時以来、この走るバーを見かけることはなくなったのが残念です。
なんでだろう?
とっても良かったのに。
オーストラリア人の彼は、翌朝のバスでシアヌークビルを目指すと言っていました。
アメリカ人の彼は、その2日後の飛行機でバンコクに戻るとのことでした。
翌朝、ミエちゃんを空港まで見送ったあと、二人で観光する約束をしていました。
彼は、私たちの泊まっていたゲストハウスからも近かったGolden Temple Villaというホテルに宿泊しています。
お昼頃にそのホテルで待ち合わせをして、午後から地雷博物館まで行くことになりました。
シェムリアップ郊外にある小さな博物館で、カンボジア人の地雷除去活動家であるアキ・ラー氏(通称アキラ)が撤去した地雷や不発弾を集めて展示をし、地雷博物館として運営しています。
クメール・ルージュの支配により自身も地雷を埋めたことへの自責の念から、生涯を地雷撤去に捧げることを決意したそうです。
カンボジアには今でも沢山の地雷が埋まっていて、全部を撤去するまでには100年かかるとも言われています。
最初にオーキデーに泊まった時に、「遺跡に行ってもそれ以外の敷地には絶対に足を踏み入れないように」と言われたことを思い出します。
その頃よりかは地雷除去活動も進んではいますが、それでもどこどこの村で地雷が見つかったと言う話を耳にすることもあります。
夕方帰って来てから、Golden Templeの1階にある小さなレストランで一緒に食事をしたのですが、とても美味しくて居心地のよいレストランでした。
それ以来、一人になってからもそこで食事をするようになりました。
こうして、彼もその翌日には帰って行きました。
ここからは、私一人での捜索が始まります。
どこかに行く度に、そこの従業員たちにオーキデーの皆んなの写真を見せて聞いてみたりもしましたが、わかるはずもありません。
シェムリアップの発展は目まぐるしく、人口も増え町も広がり、他から移住してくる若者も増えていて、あの頃のシェムリアップを知っている人自体が少なくなってきているのが現状でした。
最初のゲストハウスのドライバーに言われた言葉を思い出します。
やはり、探し出すことは無理なのだろうか?
この日も、Golden Templeで食事をしてゲストハウスまで戻ってくると、聞き込みをしてくれたドライバーが私を待っていました。
その後も引き続き、お客さんを連れてアンコール遺跡群へ行く度に他のドライバーたちに聞いてくれていたそうです。
その日も、お客さんを乗せてアンコール・ワットに行った際にドライバーたちに聞きこ込みをしていたら、ついに知っているというドライバーに会ったというのです。
その皆んなを知っているというドライバーも仕事中だったのと、私ともすぐに連絡がつくかわからなかったので、夕方にもう一度連絡をすることになっているとのことでした。
それならばと、それまで時間があったのでサンセットを見に行くことになりました。
その帰りの道中で、ドライバーが何度か電話のやり取りをしていました。
そのうちの、何度目かの電話の時でした。
私の乗っている後ろを何度か振り向くことがあったのです。
たぶん、私に連絡が取れたことを伝えてくれていたのだと思います。
クメール(カンボジア)語なので、何をしゃべっているのかはわかりません。
そして、町中まで戻って来ると、皆んなと連絡が取れたと教えてくれました。
後になってわかったことですが、皆んなを知っていると言っていたドライバーが各々に電話をしてくれていたそうです。
その時に、探してくれていたドライバーの電話番号を伝え、皆んなが直接彼に電話をかけてきていたということでした。
それぞれに事情を説明し、私が皆んなを探しに来ていることを伝えてくれました。
皆んなの中でも、まさかと半信半疑だったようです。
だって10年も経っているのですから。
名前だけなら他にも同じ旅行者がいたかもしれないけれど、オーキデーにず
っと泊まっていたと言ったら私とあかねしかいません。
そして、今から待ち合わせの場所に向かうからということでした。
この時点では、私には誰に連絡が取れて、誰が来てくれるのかもわかりませんでした。
そして、「ここが待ち合わせの場所だよ」とドライバーに伝えられた瞬間、辺りを見渡すと背の高いレンの顔が飛び込んできました。
その次の瞬間にはトゥクトゥクを飛び降りていたと思います。
「いたーっ!」と思って駆けよると、レンの横にはアダムとタンナもいました。
メインストリートのど真ん中で、皆んなでワーワー言いながらハグをしました。
まさか、10年も経ってから私が皆んなを探しに戻って来るとは思ってもいなかったようです
皆んなも涙目でした。
あんなに思い続けていたことが叶った瞬間です。
私も涙が止りませんでした。
メインストリートでハグして騒いでいたかと思うと、今度は皆んなで泣いているのですから、通りがかりの旅行者も何事だろうといった顔で振り返っていきます。
そして、そこからすぐの所でパパさんがお土産物屋をしているからと、会いに行きました。
たぶんその為に、そこでの待ち合わせにしてくれたのだろうと思います。
パパさんも元気でした。
そこには、じゅんいちもいました。
じゅんいちのお兄ちゃんもいました。
もう、嬉しくてたまりません。
またもや、お店の前で大勢の旅行者が通るなか、「会いたかったー」と言いながらハグをしました。
自分から探しに来たのだけれど、こうして本当に会えるなんて。
長い間、皆んなと会えることを夢みていたその光景が、今まさに目の前で起こっているなんて。
どんな言葉で表現していいのかわかりませんでした。
落ち着いてから4人でローカルなお店に飲みに行きました。
パブストリートの賑やかさとは違って、相変わらずローカル店は薄暗かったけど。
そして、実はその日は、私の誕生日だったのです。
もう、奇跡としか言いようがありません。
10年間ずっと会いたいと思い続け、意を決して海を越え、数枚の写真を頼りに皆んなを探し出し、やっとの思いで自分の誕生日にまた会うことができたのですから。
実際に探してくれたのは、ドライバーだったけれど、、、。
彼には、本当に感謝しています。
彼にとっては仕事でもなんでもないのに。
私たちをお客さんとして乗せている間だけ聞いてくれてるだけだって貴重なことなのに、その後も探し続けてくれていたなんて思いもしませんでした。
この時も声をかけたけれど遠慮して来なかったので、また日を改めて連絡することにして別れたのでした。
実は誕生日だということを知って、途中で皆んながケーキを買って来てくれました。
しかもホール。
だけど、バタークリーム。
カンボジアでは王道です。
生涯忘れられない誕生日となりました。
皆んなも帰っちゃったし、もし彼らに会えていなかったら、異国の地で一人で誕生日を迎えることになっていたのです。
きっと、寂しかっただろうな。
こうして皆んなとの楽しいひと時を過ごし、翌日の約束をしてゲストハウスに帰りました。
翌日は、今カンボジア人に一番人気の場所だということで、4人で60(Sixty)ロードに行きました。
ここも10年前にはありませんでした。
国道60号線沿いに、夕方から色々な露店が出て沢山のカンボジア人で賑わいます。
洋服を売っていたり、靴を売っていたり、日用品を売っていたり、パジャマや寝具を売っているお店までもがあったり。
テントを張った下で飲食店をやっていたり、ござをひいた上に大きなパラソルを並べて飲み食いできるお店があったり。
もう少し先には、子供用の簡易遊園地ができていたり。
旅行者は見かけなかったけれど、カンボジア人の家族連れやカップルで賑わっていました。
そこで夕方から4人で飲んで、色々な話をしました。
レンも一時期実家のコンポンチャムへ戻っていたり、タンナも長い間プノンペンに帰っていて、つい最近またシェムリアップに戻って来たところだったそうです。
そして、こにしきは今国境にいるとのことでした。
家族がポイペトに住んでいて、今はお母さんの面倒を見ているとのこと。
その時に、レンが電話してくれました。
あの懐かしい声が聞こえてきます。
電話の向こうから、昔と変わらない笑い声が聞こえてきました。
いつもの元気なこにしきで、なんだかホッとしました。
そして、帰りにポイペトで会う約束をして電話を切りました。
これで、こにしきとも会うことができます。
改めて、このタイミングでなかったら、皆んなに会えていなかったであろうことがわかりました。
私が行くのがもう少し早かったら皆んなシェムリアップにはいなかったし、今だからこそやっと携帯が持てるようになり連絡がつくようになったけれど、そうでなかったら10年前と同じで連絡の取りようもありませんでした。
しかも、皆んなもお互いがどこでどうしていたのかも知らなかったし、連絡先も知らなかったのです。
皆んなに連絡を取ってくれたドライバーだけが、それぞれの連絡先を知っていたということです。
もし、最初にこの中の誰かに会うことができていたとしても、皆んなに連絡を取ることはできなかったのですから不思議です。
ただこの時も、私の中で一つだけ気になっていたことがありました。
それは、パンナのことでした。
彼にだけは会うことができませんでした。
できることなら、パンナにも会いたいと思っていました。
彼がいなかったら、オーキデーとも皆んなとも出会えていなかったのですから。
皆んなの話だと、結婚したのは知っているけれど、連絡先は知らないとのことです。
そして、昔とは違って太ったとも言っていました。
この時点で、帰りの飛行機まで残り5日を残すのみでした。
※情報に於いては年月の経過により変わりますので、どこかへ行かれます際には、現時点での詳細をお調べいただきますようお願いいたします。