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12/大自然に囲まれたもう一つのチャン島でのスローライフ

ある時、カンボジアで知り合った、プノンペンで金融業をされていた日本人の方と、バンコクの日本料理店に食事に行ったことがありました。

バンコクには大勢の日本人駐在員がいるので、日本料理店もそれこそ数え切れないほどありますが、私はあまり日本食を食べに行くことがありませんでした。

タイ料理が好きだったことや、日頃タイ人の友達と行動を共にすることが多くなっていたこともあり、たまに日本食が恋しくなった時に行く程度です。

そのお店も、その方に初めて連れて行っていただきました。

その時に、お店の大将がバンコクに長らく住んでいる、ある日本人の方を紹介してくださったのです。

仮に、この方の名前を福島さんとしておきます。

福島さんは、この時既にタイに住み始めて30年以上だったと思います。

バンコクの郊外に鯖などの缶詰を作る工場を経営していて、食品を扱う仕事をされていました。

元々は商社に勤めていらして、そのままタイに住み着いたそうです。

福島さんは、パッポン通りにある『みずキッチン』の常連でした。

昔からタイを行き来したり、駐在経験のある人にとっては、みずキッチンを知らなければもぐりだと言われるほど、とても有名なお店でした。

かつての総理大臣のうちの何名かも訪れたことのある、ステーキが有名な洋食屋さんです。

常連というのか、いつもお酒を持ち込んではマスターを話し相手に飲んでいました。

福島さんとどこかで食事をした後は、必ずみずキッチンでマスターを交えて飲んだり、おしゃべりするのが恒例になっていました。

それこそ、タイのことはこの二人に聞けば知らないことはないんじゃないかっていうほど情報通でした。

こうやって改めて振り返ってみると、バンコクではおじさんの友達も多かったな。

そんなみずキッチンも、2019年に62年の歴史に幕を閉じました。

夜な夜なみずキッチンで飲んでいた頃が懐かしいな。

あんな老舗のお店がもうないのかと思うと、淋しさがこみ上げてきます。

そして、お二人に出会えたことも、私にとっては大切な思い出です。

あれほど人で溢れかえっていたパッポン通りも変わりつつあり、そんな遷りゆくバンコクが寂しくもあり、発展していくこれからの未来が楽しみでもあり。

でも、やっぱり古き時代のバンコクを知っている人たちが少なくなっていくのは淋しいなぁ、、、。



バンコクに住むようになって、3年が以上が過ぎた頃です。

一先ず仕事にも区切りをつけ、そろそろビザも切れるので日本に帰ることをぼんやりと考えつつも、その前にもう少しタイ国内を旅して廻りたいと思っていました。

観光ビザでなら引き続き滞在することは可能です。

旅行しながら国境をまたぎ、再入国で1ヶ月の延長をしてもらう。

この頃のタイでは大半の外国人がこうやってビザを取得し、延長延長を繰り返しながら長期滞在している人たちが大勢いました。

3ヶ月の観光ビザを取得するには、他国のタイ大使館まで出向かなければなりません。

大使館のある場所が限られているため、空路で移動しなければならないなど費用と時間がかかるので1ヶ月のビザの延長を繰り返している人も多かったのです。

旅をしながら国境でスタンプをもらう生活が何ヶ月か続きました。

ポイペトにも日帰りで行ったことがありました。

バンコクから日帰りで行ける国境としては一番近いのです。

オーキデーに長期滞在していた時には、その間にカンボジア側のビザが切れるので、2度ほどビザ取得のためにシェムリアップからポイペトまで往復したことがありましたが、この時もあかねと一緒だったし、国境でのお客さん確保のためもあり必ず誰かスタッフが一緒だったのです。

まさかタイのビザを取るために、またポイペトに来ることになるとは思ってもいませんでした。

カンボジアのビザを取得するための行き来の時は、体力的に大変なだけで得に何も思いませんでしたが、今になってタイ側から来てそのまま誰にも会わずに帰ることはそれまで一度もなかったことなので、なんだか今まで私が知っていた国境とは違うものにさえ思えました。

行く度に少しずつ様子が変わっていく様を目の当たりにしながら、パンナと出会った最初の頃の光景を思い浮かべて一人で国境超えをしている現実に淋しさを感じたり。

早いもので、あれから3年以上が経ちます。

皆んなどうしているのだろうか?

元気でやっているのだろうか?

どこかでなんとか生き抜いているのだろうか?

たまにメールを送ってはみるものの、返事はなかなか来ません。

向こうの状況がわかっているので、それも無理ないと思い負担をかけてしまうのも悪いので、こちらも段々と送らなくなっていました。

すぐそこにいるのに会えないもどかしさ。

これこそが、発展途上国の現実だと思い知らされます。

日本への帰国が現実的になってくると、尚さらこの国境越えが空しく思えてくるのでした。

たとえ、シェムリアップまで行ったところで会えるわけではありません。

だからこそ、良い思い出のままとっておきたい気持ちが強かったのです。

ここへ来る度に、あの楽しかった最高の夏休みを思い出すので、帰りのバスがよけいに物悲しくなるのでした。



今回が最後のSimple Lifeになるかもしれないかなと思いながら、久しぶりにタオ島に行くことにしました。

バンコクから直接行く時は、チュンポンという町から船に乗ります。

この時は、めずらしく昼間のバスに乗ったので、チュンポンに一夜泊まって翌朝の船でタオ島に移動することにしました。

この頃、ジョンもタオ島でダイビングを教えたり、パンガン島のハンモックの専門店で働いたり、あの辺りの島を行ったり来たりしながらタイに住んでいました。

たまにメールでの近況報告などをしながら連絡はしていましたが、バンコクとは距離があるため、その後はなかなか会うこともありませんでした。

もしかしたら、ジョンに会えるのもこれが最後になるかもしれないので、前日に一応タオ島に行くことをメールしておきました。

チュンポンのホテルにチェックインして、メールを確認している時でした。

ジョンからのメールが同じタイミングで届いたのです。

今ラノーンに向かっていると。

ちょうど入れ違いの状態です。

明日ラノーンから近くのチャン島へタイ人の友達と行くから、よかったら一緒に行く?との内容でした。

ラノーンはミャンマーとの国境にある町で、温泉のある田舎町です。

ラノーンにもチャン島にも行ったことがなかったのでそれもありかなと、翌朝のバスでチュンポンからラノーンに向かうことにしました。

タイで有名なチャン島は、カンボジアとの国境にあるタイ国内でも2番目に大きい島ですが、こちらのチャン島はあまり知られていないミャンマーとの国境にあるもっともっと小さな島です。

実は、タイにはチャン島が2つあるのです。

タオ島やパンガン島はタイの東側に位置し、チャン島はタイの西側に位置します。

ちょうど日本の本州を挟んで、太平洋と日本海のような感じです。

その間を東から西へとバスで移動し、ラノーンに着いたのが13時を過ぎた頃でした。

待ち合わせは、バスターミナルのそばにあるKIWI ORCHIDゲストハウス。

ここは、今でも変わらずにあります。

ただ、長らく行っていないので同じオーナーかはわかりません。

KIWIというぐらいなので、ニュージーランド人の旦那さんとタイ人の奥さん夫婦が経営していました。

私はここのカオパット(タイチャーハン)が好きでした。

作り方も教えてもらったので自分でも試してはみたけれど、やはり同じようにはいきません。

KIWIゲストハウスでも色々とお世話になりました。

本当に沢山の方々にお世話になっていたんだなと、改めて感謝するばかりです。


ゲストハウスに近づいて行くと、見覚えのある顔が見えてきました。

ゲストハウスの道路に面した入口のテーブル席にジョンが座っています。

そのそばには、二人のタイ人がいました。

チャン島でツリーハウスとバーを作っているKと、それを手伝っている友達のアームだと紹介されました。

KIWIゲストハウスで食事を済ませ、それから買出しをするとのことでした。

島には何もないので、必要な生活必需品を買い揃える必要があるとのことです。

いったい、どんな島に行くんだろうか?

今まで行ったことのあるどの島よりも、ローカルな気がしてなりませんでした。

これまで、タイの島へはそれなりに行っています。

サムイ島に始まって、タオ島、パンガン島、カンボジアとの国境のチャン島、マーク島、クート島、プーケット島にピピ島、ランタ島など、忘れているだけで他にもあるかもしれないけれど、それまで日用品をすべて自分で用意しなければならない島はありませんでした。

ラノーンの市場に行ってトイレットペーパーだとか、石鹸だとか、蚊取り線香だとか、蝋燭だとか、その他にも色々と日用品を買い、さらに食べ物や飲み物や水などを一通り揃えました。

キャンプに行く時に必要な物と変わりません。

準備が済むと、ソンテウに乗ってラノーンからしばらく行った小さな船着場に着きました。

ここは旅行客が乗る船の船着場とは違って、現地の人が使う船が停まっている船着場です。

そこからカンボジアのコン島の時と同じような、ボートにエンジンが積んであるだけの船に乗ることに。

それを、Kとアームが自分たちで操縦します。

マングローブの生い茂る林を抜け、1時間半ほど行くと島が見えてきました。

着いた頃には、もう陽が落ちて暗くなっていました。

できるだけ岸に船を寄せると、そこから海の中に降りて砂浜まで歩きます。

よく見ると、目の前の海岸から崖沿いに上へと続く道がありました。

高さにして、5、6メートルくらいでしょうか。

その道を上がっていくと、バンガローが5棟と母屋らしき建物が見えました。

一先ず、この階段を何度か往復して買って来た荷物を皆んなで上まで運びます。

やっと荷物を運び終わった頃に、タイ人夫婦が起きてきました。

はっきりした時間はわかりませんが、たぶん19時半を過ぎた頃だったのではないかな。

陽が落ちると暗くて何もできないので必然的に早く寝て、陽が昇ると同時に早く起きるのが島での自然に合わせた生活のようでした。


旦那さんはKの従兄弟のPeaと、その奥さんのJeeです。

その日はJeeがあるもので食べる物を作ってくれて、買ってきたビールを皆んなで少しずつ飲んでからバンガローで寝ることにしました。

翌朝起きてみると、バンガローは高台にあり眼下に海を見下ろせましたが、この島の砂浜は黒くて小さな丸い粒のようでした。

代表的なタイの島の写真で見るような、砂浜が白くて海が真っ青でというのとは、少し違います。

しかも、この島では船でしか移動ができませんでした。

バンガローの裏に細い道がありましたが、裏側の小さな湾まで行けるだけで、それより奥はジャングルになるので島の反対側へは船で行き来をしています。

荷物もラノーンに注文をすると次の日の船で運んで来るような、雑貨屋すらもない島でした。

この時は、雨季でお客さんもいなかったので営業もしていません。

基本的には夫婦二人で切り盛りし、Jeeが一人で食事や洗濯、掃除などをこなし、Peaはバンガローの増築をしたり、数日に一度の割合でラノーンに行っては必要なものを買って来たり、時にはお客さんを連れて帰って来ることもありました。

このバンガローから海岸沿いを300メートルほど行ったところに、Kは自分のツリーハウスとバーを作っていました。

Peaのバンガローで一緒にご飯を食べたり寝泊りしながら、朝になると作業をしに行っては陽が落ちると戻って来る生活をしているようでした。

こうして思ってもいなかった、この大自然に囲まれた何もない島での生活がここから始まるのでした。



※情報に於いては年月の経過により変わりますので、どこかへ行かれます際には、現時点での詳細をお調べいただきますようお願いいたします。

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