【大衆小説】夏から夏へ ~ SumSumMer ~ 第4回
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第四譚 四 年 生 編
*転校の思い出の話
1997年4月、大人気漫画ワンピースの連載が始まったこの年に、ぼくは大好きだった千葉から旅立ち、転校先の家へと向かっていた。ぼくらの引っ越し先は、あの『阪神淡路大震災』があった『神戸市東灘区』で、山手に地震の時に瓦が2枚落ちただけというかなり頑丈な一軒家の社宅があったので、そこを借りて住むことになっていた。
新幹線に乗って新神戸駅までたどり着き、そこから地下鉄で三宮まで行って、阪急線の最寄り駅が偶然にも『岡本駅』であったことで家族で盛り上がったりしながら、そこから坂を上って新居まで向かった。
その日は雨が降っていて、初めて見る神戸の景色はどこか幻想的な感じがしていた。家の庭に飛び石があることに甚く感動し、駐車場のコンクリートの壁をカタツムリが食べているのを不思議に思ったりしながら、新生活が始まる期待と不安が入り交じった感情に妙な高揚感《こうようかん》を覚え、その日はなかなか寝付けなかった。
そして迎えた転校初日、慣れない学校に行くのはかなり不安な体験だった。1年生から入学する妹とは違い、『人間関係が既にできている集団』の中で暮らし始めるのは、子供にとっては負担の大きい事で、当日はそわそわしっぱなしだった。
学校に着くと40代くらいの女性の先生が案内してくれて、校庭に並んでクラス毎に分けられたプリントから自分の名前を探し出そうと試みた。
「前まで3クラスやってんけど、今年から4クラスになってみんな喜んでんねん」
先生は至って普通なのだが、ぼくにとってこの言葉は覚悟していたとはいえ、やはり少し衝撃的だった。その理由はこの先生が話している言葉というのが『関西弁』であり、ぼくが以前住んでいた関東で話されている『標準語』とは口調がだいぶ違っているからだ。
「そうなんだ。それでみんなこんなに盛り上がってるんだね」
「今年は転校生が多くてね。他にも15人くらい新しい子が来てるみたいやわ」
「ぼく以外にもそんなに居るんだ。あっ、先生、ぼく4組になったみたい」
「そうやろ。そやから私が案内してんねん。4組の担任の大下です~よろしく」
「そうだったのか。うん、よろしくね先生」
そう言うとぼくは4組の札が立っている場所に並んで、教室に連れて行ってもらうのを待っていた。ちょっと厳しそうな感じもするが、親切に案内してくれて良い先生だと感じていた。
それから暫くしておおした先生に案内されて、学校の入口側にある建物の3階の一番奥の教室に案内された。すると、隣の席に座っていた子が話しかけてくれて、少し身の上話をすることになった。
「転校生なんやろ?どっから来たん?」
「千葉の土気ってとこだよ」
「ふーん。結構遠いとこから来たんやな。千葉って関東やろ?」
「そうだよ。だからこっちのことは全然分かんなくって――」
「それやったら俺が教えたるわ。虎山って言うねん、よろしく」
「虎山くんか。ぼくは岡本っていうんだ、よろしくね」
「おかもとか、よろしく。まあわからんことあったらなんでも聞いてや」
「ありがとう、そうさせてもらうよ」
転校初日は緊張するものだが、こうやって話し掛けてくれる子がいたりすると後々クラスの輪に入って行きやすかったりするので、虎山にはこの時のことで凄く感謝している。
そんなこんなで、初日はクラス替えだけだったので、この日は午前中で早々に学校を終えて帰宅した。これからの学校生活で起こる、『良い事も悪い事も』この時には知る由もないのであった。
*おおした先生の話
小学校の先生は授業中に時間が余った時に自分の昔の話をしてくれることがあるのだが、おおした先生もそういう時があった。そして、天使の話と題されたその話を20分ほど聞いた後、ちょっとした工作で出たゴミを授業終わりに一番前の席に座っていたぼくに
「それ、ほうっといて」と言って手渡してきた。
「うん」そう言って放置しておくと、次の授業の時間になって、
「ほうっといってって言ったやんか!!」と怒られてしまった。
ぼくはなにがなんだか訳が分からず、
「えっ、でも、ちゃんとほうっといたよ?」と言ったのだが、
「もうええわ」と言って、近くに居た井本くんに任せてしまった。
いもやんはそのゴミをつかんでゴミ箱に入れながら、
「捨てといてって意味やで」と優しく言って教えてくれた。
今は改善されているのかもしれないが、ぼくらが小学生の頃(1990年代)には、転校生に対するこういった配慮は皆無で、『方言が本気で分からない』のを理解してもらえないことが多々あった。これは今でも理不尽だったと思うし、教員になる人は、『自分の言葉が方言かもしれない』ということを念頭に置いて話してほしいと今になっても思う。
*仲山第一小学校の話
神戸にある小学校は他の地域とは少し違っていて、それは『校舎に土足で入る』ことだった。これは今まで上履きを履いて生活していたぼくにとってかなり衝撃的だった。
母が言うには震災前までは神戸は世界一の貿易港で、外国人が多く出入りしていたため、靴のまま家に上がるという欧米の文化がそのまま根付いたんじゃないかということだった。
ただし、体育館だけはロッカーに入れてある『体育館シューズ』を使っていて、マット運動とか、バスケットボールをやる時には普段履ている靴から上履きに履き替えていた。そして、これは大葉小が特殊であっただけなのだが、出席番号が誕生日順から『名前の順』になっていた。
だが、土足で校舎に入るのは最初とまどったものの、名前が『お』から始まるので番号が5番になったこともあり、出席番号が変わったことはそれほど気にならなくなっていった。
それよりもここへ来て一番とまどったのは『方言の違い』だ。標準語圏の人間からすると『関西弁』というのはかなり異質なものに聞こえ、子供だったぼくは転校してからの3ヶ月くらいはずっと“千葉に帰りたいと“思っていたものだった。
転校初日、クラスの係を決める時にみんなが『ニチバン』という聞き慣れない係の取り決めを話し合っていて、それが終わるまで何のことか分からなかった。後日実際にやってみるとそれは『日直』のことで、関西ではそれを『日番』と言うらしい。
当直と当番のような言葉の違いから、連想できそうな話ではあったが、まだ人生経験の浅い少年には、少々難しい話であった。同じ日本なのにこうも違うのかということを子供ながらに感じる日々であった。
*ドッヂボールの思い出の話
大葉小にはクラスのボールというものがなかったのだが、この仲山第一小学校には『ドッチボール』と『バスケットボール』が1個ずつ各クラスに割り当てられていた。
これはぼくにとってはとても嬉しく、『ドッチボール』をやったことがなかったぼくは転校2日目にみんながやっているのに混ぜてもらうことができた。それは、初日に話した虎山くんが声を掛けてくれたらだ。
「この子も寄したろうや」
この『寄せる』というのは関西特有の表現で、『仲間に入れる』という意味で使われていた。ぼくはこの言葉を教えてもらってからというもの、授業の間にある10分の休み時間の時には、
「おれも寄して!」と言って『ドッチボール』の輪に入れてもらっていた。消極的な子はこの一言が言いにくいと聞くが、当時のぼくはあまり深く考える方でもなかったので、『拒絶されたらどうしよう』とかは考えず普通に言えていた。この『ドッチボール』を通して友達の輪が広がり、ぼくはこの遊びが凄く好きになって行った。
休み時間の間は毎回クラスの子とやるようになっていて、普段の授業の時よりも運動をやっている時の方が友達とも仲良くなりやすかったので、この学校でボールがあって遊べたことは、ぼくにとってかなり大きくてありがたいことであった。
*馬が合わない奴の話
4年生になって仲山第一小学校に通うようになり、麻木という子と同じクラスになったのだが、この子とはどうしても反りが合わなかった。この子は左利きでドッヂボールが強く、野球をやっていたので足が速かった。
そして家庭環境がよくなかったようで、4年生になる時に母親が再婚しており、前の苗字である平川と呼ばれることと、左利きに対する差別用語である『ギッチョ』と呼ばれることを酷く嫌っていた。タイプが似ていたことで仲良くなる場合もあるのだろうが、ぼくらの場合はライバル意識が強く、事ある毎に喧嘩になっていた。
彼とは今でも記憶に残っている出来事があり、
「次って音楽やっけ?」
「いや、体育じゃん」
「じゃんってなんやねん!!」
「え、普通にしゃべってるだけなんだけど――」
「お前のその関東弁ムカつくんじゃ」
「そんなこと言われても――」
「うるさいんじゃボケ」
「なんだよ、殴ることないだろ!ぼくが悪いんじゃないんだ!!」
という具合で殴り合いの喧嘩に発展し、彼とは犬猿の仲になって行った。そして、このことがあってからぼくは“このままではマズイ”と感じ、『標準語』から『関西弁』に直すことを決意した。
だが、誰かが教えてくれるというわけでもないし、みんなが話すのを聞きながら直していくのは思いのほか難しかった。特にイントネーションが難しく、5年生になる頃までは『標準語』と『関西弁』が混ざった変な話し方になっていた。
それでもその甲斐あってか、5年生になるころには一応ちゃんとした『関西弁』と言えるものが話せるようになっていて、胸を張って5年生を迎えることができた。人と仲良くなるにはまず自分から歩み寄ることが大切であるが、そのことがこの年頃の時には分からないものであった。
*初めての漫才の話
転校してすぐに『お楽しみ会』というものがあり、放るの件で仲良くなっていた、いもやんと『漫才』をやることになった。これはぼくたち二人だけでなく、クラスの全員がやることになっていて、母に話すと流石は関西と感心していた。
よく遊んでいた『五反田公園』でネタ合わせのようなことをやってみたりしたのだが、子供ながらに考えてみたネタは、お世辞にも面白いとは言えないようなものだった。ちなみにどちらがネタを考えたかというと、この頃から考えることが好きで、得意だったぼくの方が作って練習した。
お笑い界の帝王『ダウンタウン』には遠く及ばなかったものの、自分で作ったネタをやってみるのは、思いの外楽しいもので、ハリセンを作って遊んだり、実際に『お楽しみ会』で披露したりしたのは、子供ながらにいい経験になったんだと思う。
他には『フルーツバスケット』という椅子を円の形に並べて、人数より一個少なくし、中心に立っている人が言った事柄、例えば「今日の朝バナナ食べた人」などに当てはまっている人が移動し、座れなかった一人が中心に立ってまた何か言うという遊びや、『ハンカチ落とし』という座っている鬼が見ていない隙に後ろにハンカチを落とす遊びがあった。
一番変わっていたと思うのは、『いつだれがなにをしてどうなったゲーム』という、4枚の紙に『いつ』『だれが』『なにをして』『どうなった』というフレーズをみんなで書き、それをバラバラにして違う人のものと組み合わせて笑うという遊びなど楽しいゲームが目白押しだった。
折り紙を縦に切った輪っかを鎖のように繋げて、教室を飾りながら準備をしている間のワクワクする感じが良かったのを今でもよく覚えている。
*ポケモンの話
4年生になるとポケットモンスター略して『ポケモン』が爆発的な人気を得て、クラスの子たちはみんなプレーしていた。自分でゲットしたポケモンを育てて技を覚えさせたり、進化させたり、通信ケーブルを使って友達とポケモンを交換したり、対戦したりしていた。
また、コンパンとバタフリー、トランセルとモルフォンの衝撃や、ゴローンとカイリキー、ゴーリキーとゴローニャの真実、ピクシーとゲンガー、カラカラとガルーラの秘話だったりとか、これまた興味深い事実がたくさんあったりもした。
ぼくも誕生日にポケモンを買ってもらったのだが、目が悪くなることを異常なまでにを気にしていた両親からゲームボーイを買ってもらえず、スーパーファミコンと繋げて遊ぶアダプターを買ってもらってプレーしていた。
この理由で子供に携帯ゲーム機を買い与えない親は数多く居るが、結論から言うとぼくは大人になると視力が0.1ほどになっていて出掛ける時には毎回コンタクトをハメるようになっている。
現代人はゲームをやらなくとも受験戦争での教科書とのにらめっこ、パソコンやスマホの使用などで視力が悪くなることは最早避けられない。それならば過剰に厳しくするよりは、早々に切り替えて子供の『今』を大切にしてあげてほしい。
そして、同じ時期にデジタルモンスターというものも流行っており、この『デジモン』も学年の男子のほとんどが持っていた。同じ理由でぼくはこのデジモンは買ってもらえさえしなかったのだが、4年生で同じクラスだった奥野も持っていなくて、公園でみんなでデジモンをやっている時にはいつも二人で別の話していた。
ぼくはそういうことを気に病むタイプではなかったし、輪に入って行けるような子だったが、この時の疎外感というものは生涯忘れがたく、常につらい記憶として人生につきまとって来ている。
仲間はずれにされると不登校になったり、後でそれが爆発したりするので、かなり無理をしてでも流行りのものは買ってあげるようにしてほしい。
また、ぼくは一度もそれが存在したことはないのだが、『門限』と言うものにはかなり気を付けた方がいいということは知っている。それは兄弟間・姉妹間での話で、年上の子の時に禁止した事柄や習い事などを年下の兄弟が同じ年頃になった時に安易に解禁してはならないということだ。
子供は親に対して常に『平等である』ということを望んでおり、自分はダメだけど弟や妹はいいというような対応を取られてしまうと、親に対する不信感は下手を打つと一生拭い去れないものになってしまう。
我慢させる時は『何のために』我慢させるのかを明確にし、必ず全員に対して『同じように』接するようにすべきである。『お兄ちゃんだから』『お姉ちゃんだから』というのは、もはや親であることを放棄するに等しい暴言であり、何の正当性も持たせることが出来ない己の能力のなさを露呈しているにすぎないのである。
*オマケたちの話
ぼくらが小学生だった時には、『ポケモン』とは切っても切れない縁があった。その中でお菓子のオマケとして存在した『ポケモンキッズ』と呼ばれるラムネがお菓子としてついていて、塩ビ人形と呼ばれる塩化ビニールでできている指人形が好きだった。
これは、箱に入っているオマケが(と言っても実質こっちがメイン)、ランダムではなく選べるようになっていて、自分の好きなものを買っていた。リザードン、カメックス、フシギバナなど、20種類くらいを袋ラーメンの空き箱に入れ、時々取り出して眺めては遊んでいた。
友達の家に遊びに行った時や、友達が家に遊びに来た時などに見せ合ったりするのも楽しかったりして、当時のポケモン151匹はよく知っていたものの、自分が持っていないものは、どんなポーズか知らないので興味深かった。
また、フリカケについていたちっこいオマケが好きで、親にせがんでスーパーに行った時に買ってもらったりしていた。基本的に一箱に一個入っていて、『赤と緑』のものばかりだったのだが、一回だけ確実に当たりだと言えるものが入っていて、それが当時から小学生に大人気だった『ピカチュウ』だった。
『ピカチュウ』のオマケは他のものと違っていて特別に『黄色』で、出た時は凄く嬉しかったのをよく覚えている。だが、小学生にありがちなミスなのだが、ものをゴチャゴチャに置いていたぼくは、いつしかそのフリカケのオマケたちをなくしてしまい、部屋をひっくり返して探したのだが、結局どこに行ったか分からなくなってしまった。
けど、部屋の中にあることは分かっていたので、“いつかは必ず見つけられるはず”と考えてオマケを集めることはやめなかった。
*学校の遊具の話
仲山第一小学校には、それぞれが重なってできている『お城のような遊具』があった。転校初日に校庭に出て最も気になったものであり、実際に使ってみて楽し過ぎて感動した覚えがある。そこにはサンダーバードに出てくるような10本ののぼり棒があって、クラスの子たちと早のぼり競争をやったり、蹴り合って落ちたら負けというゲームをやったりした。
また、高さ10mほどで間が1回くぼんでいて、途中で1回はねて横に落ちそうになるすべり台があった。ケイドロをしている時にここから逃げると、下で捕まってしまうので手すりをつかんでのぼったり、途中で横に下りたりして結構危なかった。今にして思えば、みんなよく怪我をしなかったものだと思う。
あとは、8つほどの連続した2コースの『つり輪』があった。ここでは5、6年生くらいになると、身長の高い子は足がついてしまい、向こうまで楽々行けたり、低学年の子が落ちて手を骨折したりしていた。
それと、その遊具のお城から少し離れたところにある『ブランコ』でもよく遊んでいた。ブランコの前に安全のための柵があるのだが、悪ガキだったぼくたちは、勢いよくブランコをこいで、その柵を飛び越えていた。かなり危ない行為だが、当時からアホだったぼくたちは、何のためらいもなくそれをやっていた。
この時代の遊具は安全管理が不十分なものも多く、回転する遊具で子供が指を切ってしまったり、体が挟まってしまったりしていた。今、子供がいる親御さんは、公園の遊具を信用し過ぎず、自分の判断で遊んでもいい遊具かどうかというのを見極めてほしい。
*千葉との違いの話
当時から関東と関西ではテレビのチャンネルが微妙に違っていて、『TBS』は関東では6ch、関西では4ch、逆に『テレビ朝日』は関東では4ch、関西では6chになっていた。
子供だったぼくは、テレビ局の名前などは意識していなかったので、当初見たい番組が関西ではやっていないと思っていたのだが、チャンネルをコロコロ変える『ザッピング』をしている時にこのチャンネルが違っているという事実に気が付いた。
他には、ちょっとしたことなのだが、千葉で売っていて好きだった『ポテトウインナー』が関西では売っておらず、残念に感じてわざわざ友達に話したくらいだ。これはウインナーの中にポテトが入っているという商品で、その二つが合わさった味が好きだったので、母に頼んで買ってきてもらって、一緒にして食べるというようなことを代替案としてやっていた。
また、小学生の時には怪我をすることが多く、その度に絆創膏を貼ってもらっていた。ぼくは親が山口県出身だったので、「カットバン貼って」と言っていたのだが、神戸に来てからはみんなが、『バンドエイド』という呼び方をしていたので、それを知ってからはその呼び名に変えていた。
一般的に北海道では『サビオ』関東、関西、四国の東側では『バンドエイド』中部ではそのまま『絆創膏』富山だけは『キズバン』東北、中国、四国の西側では『カットバン』、九州、沖縄では『リバテープ』と呼ぶらしい。
一口に絆創膏と言ってもいろいろあるんだなと思ったのと、エスカレーターに乗るときに関東は左側に立ち、関西では右側に立つなど違いがあって当たり前という雰囲気の関東と関西が『バンドエイド』という同じ呼び名だというのは面白いなと感じた。
あとは、転校生あるあるだと思うのだが、前に居た学校と授業の進み具合や内容が異なっており、戸惑ってしまう場合だ。
ぼくの場合はまず、分数の計算が分からなくなってしまい、計算ドリルとにらめっこにながら前に少しだけ習った内容を思い出しながら解いていった。幸い一番得意な科目が算数だったこともあり、二、三回授業を受けたら分かるようになっていた。
それと、社会科で習う地理の部分でも多少苦労した。
ぼくは前に居た千葉のことを中心に習っていたのだが、仲山第一小学校では神戸や兵庫のことを中心に習っていたのと、みんな行ったことがある場所には詳しいので(甲子園球場に行ったことがあるので西宮を知っているなど)、話に着いて行けなくて苦労した。だが、半年もすれば慣れたもので、その差は全く気にならなくなっていた。
*Nとの思い出の話
ぼくの幼少期を語るには、この話を抜きにしては不可能だと言えるほどのことがある。神戸に引っ越してすぐに、可愛らしい訪問者が岡本家にやって来るようになった。家の入口にある石の階段の所ですれ違うのだが、ぼくは最初はあまり興味がなかったのでスルーしてしまっていた。
「ニャウ~」
と残念そうな声を出して、毎回その猫は石畳の上で寝転がり、ちょっと寂しそうにしているのであった。そのうち家1階のガラス戸の所で何かの気配がするようになり、網戸を残して開けてみるとその猫がやって来てスリスリしており、ぼくが鳴きまねをして声を掛けると
「ニャンニャ~ン」
「ニャ~ン」
と返事をしてくれるのであった。そしてよく見るとアルファベットの形でスリスリしていて、試しに呼んでみると、
「N~」
「ニャッ」
「N~」
「ニャッ」
「N~」
「ニャッ!!」
という感じで元気よく返事をしてくれ、この名前を気に入ってくれたようだった。ヒョウ柄の模様をしたメス猫なのだが、近所の子供たちからは、なぜかトラと呼ばれていて、ぼくは母に飼いたいと言ったのだが、放し飼いにしておいて他所に迷惑が掛かるといけないからという理由で許してもらえなかった。
それから1年ほどして隣の熊本さんに飼われることとなり、金魚鉢の水を飲んだり、植木鉢の中で寝たりしなくてもよくなって、たまに近所の猫に盗られることもあったが、エサももらえるようになったようであった。
そして、妊娠したら子猫が増えて大変だからということで病院で避妊手術を受け、メスだから左耳をカットされ避妊手術を施された『桜耳』になって戻って来た。とっても可愛いくて、それでいて懐いてくれていて、ぼくはこのNが大好きだった。
*ポケモンスタンプの話
転校したての時に家に居る時に退屈だろうと両親から小学校4年生という雑誌を買ってもらった。妹はタイトルが1年生の雑誌を買ってもらい、それぞれ楽しんでいた。この時にちょうどタイミング良く『ポケモンスタンプ』というものが付録として付いていて、これはポケモンが描かれたオモチャの切手で、半年間雑誌を購読すると全種類手に入るというものであった。
ぼくらが4月に買った5月号(日本では月間の場合、先取りして一ヶ月早い月の号になっていることが多い)には『スタンプ帳』が付いており、妹と一緒に張り切って集めていた。だが、9月号まで集めた時に困ったことが起こってしまった。4月号が3月に発売されていたため、スタンプシートが1枚足りなくなってしまったのだ。
そういう人の救済措置として、1500円でシートを郵送で販売するという話が掲載(けいさい)されており、妹と共に母にそれを頼んでみたのだが、1500円は高すぎるということで却下されてしまった。
今にして思えば、1年生から6年生まで雑誌があり、それぞれに違うシートが振り分けられていて、違う学年のやつに自分が欲しいシートが付いていたのではないかと考えられるのだが、当時は妹とシートの中で同じキャラが2枚あるものもあったので、それを交換してあと20匹ほど足りない状態になった『スタンプ帳』をなんとも言えない気持ちで眺めていた。
この話を通じて知って頂きたいことは、どんな状況でも工夫次第で案外切り抜けられる場面は多く、打開策を見出すことを諦めないでほしいということだ。その気はないが今でもネットオークションや地方の中心街のホビーショップなどで探せば見つけることは可能だと考えられるし、欲しているものというのは案外その辺に転がっていることが多いものなのである。
*4年生のプールの話
そんな感じで夏ごろまでドッチボールを楽しんでいたのだが、例のあさぎは野球をやっていて運動神経が良く、左利きで鋭い球を投げていた。そのあさぎの投げた球が運悪く左手の小指に当たり、そこが凄く腫れて痛んできてしまった。 授業が終わって放課後になっても腫れが引かず、痛みが酷いので病院へ行くことにした。
母に付き添われて小児外科へ行くとなんと『骨折』しており、添え木を付けて安静にしておくことになった。ちょうど夏だったこともあり、好きだったプールの授業にも参加できないので凄く残念に思っていた。
どういうわけかこのプールにはカメムシが多くいて、みんな臭いに悩まされたりもしていた。そんな時に、違うクラスの太田という子と話すようになった。
この子もぼくと同じように関東から引っ越して来た子で、ぼくのように変わり身が早いタイプではなかったらしく『標準語』のまま話していた。彼はあまり活動的ではなく、恰幅が良い体形でちょっと太っていて、水泳の授業は毎年毎回休んでいたようなので、同じように病気がちな子と仲良くなっていたようであった。ただ、明るくて面白く、人を悪く言わないので話しやすくて良い奴だなと思っていた。
後に彼とは5年生で同じクラスになるのだが、この時に何人か友達になったお陰で、クラス替えの後にも4年生で同じクラスだった子以外にも話せる子が少しいた。
得意の水泳ができずにつまらない思いをしていたのだが、5年生になった時にクラスに溶け込みやすくなったので、悪いことばかりではなかったなとクラス替えの後で考えたものであった。
*久保のおじさんとおばさんの話
ぼくのおじさんは東京の大学を出て市役所で公務員をやっていて、平凡な人と言われていたのだが、ぼくにとっては『憧れの存在』だった。
ぼくの父は学があるのを良いことに人を馬鹿にするようなタイプの人で「こんなことも知らないのか」とよく言っていたのだが、おじさんは決して人を悪く言うようなことはせず、寛容に接することができる人だった。
ぼくは家族を幸せにし、愚痴を言いながらもしっかりと出勤して働くおじさんを今でも尊敬しているし、人として手本となるような生き方をしている人だと言える。
そんなおじさんとは知人の紹介で出会ったというおばさんだが、母の姉であり9つ歳が離れていた。母が他の兄弟と歳が離れている理由としては、おじいちゃんが船乗りだったことが影響していると考えられる。
新幹線の設計をやっている職場で働いていて、ぼくたちが下松に帰った時には新幹線が止まる徳山駅まで毎回車で迎えに来てくれていた。
ぼくは毎回軽くお礼を言うだけで手土産なども持ち帰らない母に不満を持っていたのだが、おばさんはいつもあたたかく迎え入れてくれていた。親しき中にも礼儀ありというが、ぼくはいつまでも人の優しさに甘えてはいけないと考えているし、何かしてもらったのなら、必ずお礼をすべきだとも思う。
*おじさんとラーメンの話
久保のおじさんとおばさんには、よく遊んでもらっていて、近所の太華山に登って『やまびこ』をやってヤッホー、ヤッホーと自分の声がはね返ってくるのを体験したり、遠出したりして可愛がってもらっていた。ある年、下松駅の近くに美味いラーメン屋があるという話になり、久保のおじさんに連れて行ってもらえることになった。
「今日はおじさんの奢りだから、遠慮せずに食べていいよ」
「うん。ありがとう、おじさん」
「おじさんはもう歳だから小にしとくけど、健ちゃんは中盛にしときんさい」
「え、いいの?じゃあそうする!」
そう言って食べ始めたのだが、ここのラーメンは値段は700円で普通なのだが、量が異常に多く、大人でも食べきれるかどうか微妙な量なのであった。おじさんは決して悪意を持ってぼくに中を勧めたわけではないのだが、ぼくは昔から頑固なところがあり、そうと決めたらやり遂げるまで投げ出さないような性分だった。
日本には『腹八分目』という言葉があり、満腹になるまで食べるのは体に良くないとされているのだが、当のぼくはいくつになってもアホなままだったので、常に全力でやるようなタイプだった。
何度もおじさんに「残してもいいよ」と言われながらもなんとか完食し、息も絶え絶え店から出て行った。だが、腹が相撲取りのように膨らんでしまい、陸橋を登らずに遠回りして線路を横切って帰ることになった。
*おばさんとの話
4年生のある日、せっかく神戸に引っ越して、山口から近くに住んでいるからと、久保のおばさんが1泊2日で泊りにきてくれたことがある。カセットテープに自作の歌を録音したり、『オバガード』と名付けて、段ボールでおばさん用の鎧を作って遊んでもらったりした。毎回おばさんは、子供の相手をするのは大変だったろうに、嫌な顔ひとつせずに接してくれていた。
また、久保のおばさんとは、車でデッカイ恐竜のオブジェがある公園まで連れて行ってもらって遊んだりしていた。この恐竜はほぼ等身大で15mくらいある巨大な『造り物』で、小学生だったぼくはこの恐竜が大好きだった。
*いとこのお姉ちゃんたちの話
親戚のおじさん、おばさんは凄く親切な人で、毎年夏になると川へキャンプに連れて行ってくれた。その時にいとこのお姉ちゃんたちと行く時が多かったのだが、親同士の年が離れていたので必然的にぼくと二人の従姉妹のお姉ちゃんたちも10歳ほど歳が離れていた。
姉のゆりこちゃんは話がおもしろい人で、チョコボールのキョロちゃんがアニメ化された時に、クチバシが崖に刺さって他のキャラにバカにされていたことをおもしろく話してくれた。妹ののりこちゃんは運動が得意でバスケをやっていて身長が高く、専門学校に行ってからも続けているらしかった。
ぼくたち家族は姉のゆりちゃんから借りた車でキャンプ場まで行っていて、いつも向こうの家族の車について行っていた。日本の田舎は車がないと移動することがほぼ不可能というところが多々あって、一人一台車を持っているということも珍しくはなかった。
キャンプ場に着くとまずはテントを2つ組み立てて、バーベキューをしてみんなで話していた。そこで、親戚あるあるだと思うのだが母は田舎に帰ると
「そういね(そうだね)」
「いやいね(いやだよ)」
などと中国地方の方言がかなり出ており、ぼくは特に誰にも言ったことはなかったのだが、この方言を勝手に『いね語』と名付けて自分の中でそう呼んでいた。
あと、キャンプをしていた時に1分間息を止められるかという話になって本当にちゃんと止めているのか不信に思えたため、おじさんの鼻をつまんで検証したことがあった。今にして思えば相当に失礼な話で、子供の頃の申し訳ない出来事ではあったのだが、おじさんは見事に1分間息を止め切ってみせた。
その後、近くで見ていた母とご飯を炊く飯盒に入れる水を汲みに行ったところ、
「そんなズルいことをするのはお父さんだけだから、おじさんにあんなことするのはやめときなさい」と言われてしまい、確かにそうだなと思って妙に納得したことがあった。
このキャンプ場の横には川が流れていて、そこで、うきわにお尻をいれて流れて行くのは、都会の喧騒を忘れ田舎でのゆったりした気分に浸れて楽しかった。だが、川というのは深かったり流れが速かったりするところがあるので、その時に姉のゆりちゃんから、
「深いとこは足がたわんけえね、気をつけんさいよ」とよく言われていた。
この『たわない』とは中国地方の方言で、『届かない』という意味で使われている。実際、1回妹が溺れかけて後ろから脇を押して助けたことがあった。
また、ぼくはよくいたずらをしていたのだが、手が当たって、妹ののりちゃんのリップクリームを折ってしまったことがあり、
「わやしよるね、いけんじゃ」と言われたこともあった。
この『わや』というのは『いたずら』という意味で、いたずらするね、いけないじゃないのという意味で話していた。その後、弁償してもらう(本当はそんな気はない)と言って、それをネタに何かいたずらをしようとすると止められたりしていた。
*体操の授業の話
4年生になると、転校して初めての体操の授業があり、その日は『跳び箱』をやることになっていて、その上で宙返りをやるというものだった。これは一見難しく見えるのだが、『跳び箱』の高さの分着地するまでに時間があるので、普通にマットの上でやるよりは断然簡単だった。
男子は6人くらいはできていたのだが、クラスの女の子では唯一できている子がいて、それが紺野だった。紺野はかなり運動神経が良くて、他の授業でも目立っていたのだが、この時ばかりは
「凄げえ」と歓声が上がったくらいだった。
小学生くらいだと、身長や運動神経の関係で、努力ではどうしようもないくらい差がつくもので、5段くらいの『跳び箱』を飛べずに苦労している子もいるくらいだった。
仲一は大葉小にいた頃とは違い、ガンガン運動をやるようなところだったので、千葉にいた頃には普通に跳ぶだけで退屈していたぼくにとって、この授業は凄く楽しかった。
授業が終わって、『耳』と呼ばれるマットの長い方の辺に輪っかになってついているところ(躓くと危ないので、毎回これをしまうようによく言われていた)を持って倉庫にしまいながら、転校してきてよかったと思えたのであった。
*初めてのホームランの話
4年生の時、仲間内でよく野球をやっている時期があった。近所の中之町公園でよくやっていて、同じクラスのきたとけんちゃんとよくやっていた。ぼくは当時、バッティングセンターに行ったことがなく、走ってばかりで球技には触れて来なかったので、力強く空振りするだけということが多かった。
ある時、いつものように野球をやっていると、外野で守っていたきたがトイレに行くと言ってその場を離れ、練習だからとけんちゃんがボールを投げていた。ぼくも練習だからと軽くバットを振っていたのだが、そのうち、けんちゃんが投げたボールをバットが捕らえ、ボールが天高く飛んで行ったのだ。
その時の爽快感と言ったら、それまで体験したことがないくらいのもので、それはそれは大きいものだった。けんちゃんから
「けんたろう、今打ってもしゃーないやん」
と言われはしたのだが、ぼくの中ではそれまで野球に対して漠然と抱いていた苦手意識が一気に払拭され、少し野球が好きになり始めた瞬間だった。その後、公園の中を流れていた川までボールを拾いに行き、トイレから戻って来たきたに
「なんで今やねん」と言われながらも野球を続けた。
この経験の後、力んで思いっきりバットを振るよりも、むしろ力を抜いて楽に流して振った方がボールに当たりやすく、飛びやすいということを学び、少しづつではあるがヒットが打てるようになって行った。
*終わりの会の話
日本の学校には『終わりの会』というものがあり、ここでは今日あった問題行動を報告するということが行われていた。要は告げ口大会であり、ぼくはこういうやりとりが大嫌いであった。
この会については、印象に残っている出来事が二つあり、一つは仲が悪かった麻木とのやりとりだ。この日ぼくはちょっとしたことで、麻木と喧嘩になっていて、どうしても腹に据えかねるものがあったので会の最後に手を上げて発言しようと考えていた。
「今日麻木と喧嘩になって、叩かれて」ぼくがこう言うと、
「すみません、うちの子が」
関西のオカンが息子のことを謝っているのをマネしたような、人を小バカにした態度に、これはさすがにみんなもカチンときたのか、
「なんやねんその言い方。ちゃんと謝れや」と口々にぼくに加勢してくれた。
関西人は口は悪いが根は正直なので、曲がったことが大嫌いだと考えるのは良いところだと今でも思う。
そして、もう一つ印象に残っている出来事は、掃除についての話である。
これに関しては、『理不尽』というものを体験した瞬間でもあった。
「先生、おかもとくんは掃除の時間、適当に掃いて私たちに協力的でないんです」
同じクラスの武藤さんにそう言われ、ぼくは些かショックを受けながら反論した。
「先生、違います。ぼくは真面目にゴミを集めていました」
ぼくがそう言うと、むとうさんもすかさず意見を言う。
「先生。おかもとくんはウソをついています。誰の目から見ても、おかもとくんはやる気がなかったです。ねえ、みんな」
むとうさんがそう言い終わると、一緒に掃除をしていた子たちもそれに賛同してしまった。この件に関してぼくに全く悪気はなく、ただ掃除が下手で、強く掃いてゴミをまとめることができないでいただけなのだが、武藤さんから見るとサボってホウキで遊んでいるように見えたのだろう。
「みんな武藤さんの意見を支持してるわ。先生は見ていなかったから確かなことは分かんけど、むとうさんがウソをついているようには思えんのよね~」
それを聞いた瞬間、武藤さんは普段見せることのないような勝ち誇った表情を見せた。
「ごめんなさい。次からはちゃんと掃除します」
納得が行かなかったが、このまま責めら続けるよりは謝っておいた方がいいと判断し、不本意だが謝罪の言葉を口にした。ぼくはこの『裁判のようなしきたり』にどうしてもなじめず、千葉に居た頃を思い出しては帰りたいと嘆いていたのであった。
*たかむらの話
昔のことというのは時が経つと忘れてしまうもので、特に自分に都合が悪いことというのはそうなってしまうものなのだろう。大人になって本人から聞いた話なのだが、4年生の時に友達になったたかむらと遊ぶ約束をしていたのに、忘れていて別の友達と遊んでしまったことがあったらしい。家に帰った時に母にたかむらが家に来たことを告げられ、これは謝っておかないとと思って電話で謝罪することにした。
「今日約束してたの忘れてた。すっぽかしてごめん」
「うん、いいよ。けど、今度からは気をつけてな」
「分かった。ホントごめん」
「それじゃ、また明日」
「うん。また明日」
ぼくはこのことを後に言われるまで忘れてしまっていたのだが、たかむらはこのことがあったから、ぼくとずっと友達でいようと思ってくれたらしい。
また、他の日にだが、ぼくは5年生までポケモンを持っていなかったので、たかむらにちょっとだけ貸してもらってプレーしたことがあった。続きからやってもよく分からないので、最初からプレーすることにしたのだが、ぼくはその時に操作方法が分からず、大変なことになってしまったことがある。
それはどういうことかというと、データをセーブする時に『レポート』というものを書くのだが、それは一つのゲームに一つしかないものに上書きしてしまい、データが消えてしまったのだ。
ぼくはそのことがあまり分かっておらず、今にして思えば本当に申し訳ないことをしたと思う。小学生にとってゲームのデータは自分の分身と言えるくらい大切なものなのに、それを消してしまったぼくを快く許してくれた彼は本当に凄く良い奴だった。
*あやしい商売の話
4年生の2学期ごろに、校門の近くでウロウロしているヤンキー風の若者が二人いた。2010年代くらいになると、こういう場合に通報されることもあるのだろうが、ぼくらが子供だった1990年代には、まだそういう部分は大らかであった。
ある日、みんなで遊んでいて、家が近かったきたと一緒に帰ろうとすると、校門を出たところでそのお兄ちゃんたちに声を掛けられた。
「きみら、今から帰んの?」
「うん、そうだよ」
「じゃあさ、これ配ってくんない?」
「何これ。チラシ?」
「そう。面白いだろ?頼むよ」
こんな具合で頼まれたものを、何の警戒もなく安請け合いしてしまい、道行く人に配って行った。この時代にはファミコンあげるから連絡網のコピーを頂戴(電話番号を手に入れて電話セールスするなど個人情報を悪用するため)といった物騒な話があったりもした。そうこうしているうちに校門の所まで教頭先生がやって来て、
「きみら、この人ら、知り合いか?」
「ううん。違うよ、今日初めて会った」
ぼくらがそう言うと
「あんたら、うちの生徒に関わらんとってくれるか」
「ええやないですか、ちょっとくらい。別に怪しい者モンちゃいますよ」
「ええことないわ。ほら、きみらもそんなことやってないではよ帰りや」
という感じで諭されて
「ええ~ちょっとくらいええやん先生」
「アカン。とにかく今日はチラシを返して帰るんや」
不本意ではあったが、ぼくらは渋々チラシを返し帰路に就いた。少々厳し過ぎるように見えるかもしれないが、この年1997年の5月に、世間を揺るがすような大事件であった『神戸連続児童殺傷事件』がぼくらの住んでいた東灘区のすぐ近くにある須磨区で起こっていたことを考えれば当然の対応であったと言える。
*プレステのゲームの話
4年生の時の同級生のきたとはわりとよく遊んでおり、何人かの友達と一緒に家に遊びに行ったり、家の前でスケボーを貸してもらったりしていた。そこで凄く印象に残っているゲームがあって、それは初代プレーステーションのゲームである『パラッパラッパー』だ。
このゲームは当時パラパラが流行っていたことに便乗して作られていたであろうゲームで、クリーム色の一重で黒くて大きな目と、丸くて大きな鼻が特徴的な二足歩行の犬がおどるという内容だった。
人ん家のゲームというのは、やる回数が少なくレア感があるからかもしれないが、何故かめちゃくちゃ面白く感じるもので、ぼくはこのパラッパラッパーが大好きだった。
この頃はなんでヒットしたのかよく分からないようなゲームも多数あり、他には『シーマン』と呼ばれるにくたらしい言葉を返してくる人面魚のゲームや、『電車でGO』というただ電車を運転するだけの専用コントローラーまであるゲーム、『ときめきメモリアル』という恋愛シミュレーションゲームなどがあった。
*自転車での爆走の話
4年生の時に同じクラスになった、稲尾とは、自転車でいろいろな所へ遊びに行った。特に行ったのがゲームショップで、近所に大きい店舗があって、そこにお試しでできるスペースがあったのでプレーさせてもらっていた。
3Dでロボットを操作して敵を倒しまくるものや、流行りのシューティングゲームなど、持っていないゲームができるのがすごく楽しかった。
また、自転車での移動中に見通しの悪い所があったりするのだが、稲尾がそこをかなりの速さで通過するので、毎回車に轢かれないか不安になっていた。それを指摘すると、
「大丈夫やって、俺、轢かれたことないし」と言われ、
“これから轢かれることになりそうやから言ってるんやけどな”と思いながらも、
「そっか、じゃあ気を付けて行こう」と返していた。
小学生の時にだいたいの子が習う、『右、左、右』の順に確認してから渡るという話は、車が左側通行であるため、大通りでは必ず右からくることから来ているが、これはかなり大切なことだと言える。
交通事故に遭ってしまうと痛い思いをするし、成長が妨げられてしまったり、最悪の場合命を落としてしまうかもしれない。良い子も悪い子も普通の子も大人も年配の方も、道を横切る時はちゃんと左右を確認してから渡るようにしよう。
*リザードンの行方の話
4年生の時に同じクラスになった柱間はちょっとナヨナヨしていて、おとなしめな感じの子だった。友達何人かと柱間の家に行ったことがあったのだが、当時ぼくはまだ持っていなかったポケモンカードを見せてもらったことがある。その時に、柱間はポケモンカードを皆に見せながら、ちょっと恨めしそうに
「あさぎがポケモンカードのスターターボックスを1000円で買うって言うから売ってんけど、その中にリザードンが入っとってん」と言っていた。
それを聞いた皆は口々に
「それは勿体ないなかったな」と話していた。
当時ポケモンカードのスターターボックスは1200円ほどで売られていて、中古だからそれ自体は別にいいのだが、問題はリザードンだ。リザードンは当時の一番人気のカードで、だいたいはミューツーが入っているスターターパックで、それを引き当てるのはかなりラッキーなのだが、はしらまはよく確認せずにそれを手放してしまったらしい。
あさぎに取り合ってみても、
「でも、もう買ってもたし返すん嫌や」と言われて取り戻せなかったらしい。
いい加減なことをすると、大体は痛い目に遭うものなので、何かする時には『しっかりと確認する』ということが大切だと言える。
*テレビに出て凄い!話
4年生の中頃、休み時間にくつろいでいると、なんだかクラスの一部で大きく盛り上がっているではないか。何事かと気になって近づいてみると、なんとクラスメイトの尾田くんがテレビに出るというのだ。
年号が令和となった今でもそうなのだが、この頃のテレビの影響力というものは凄まじく、たとえ1場面だけでも出演するということはたいへん名誉なことであった。さらに聞いてみると夕方にやっているドラマにエキストラで出て、1つセリフを言って立ち去るというものであった。
なんでも親がテレビ関係の人と親しいらしく、そのコネで出演できることになったようだ。
この頃には天才てれびくんや、さわやかやか三組、ズッコケ三人組など子供が出演している番組が多数あり、オーディションにさえ受かればテレビに出ることは不可能なわけではなかった。
だが悲しいかな、ジュニアタレントというのはその人気を維持し続けることが難しく、ほとんどが大人になると消えてしまうのだが、ウエンツ瑛士さんのように輝きを発し続け、成人してからも生き残る例がマレにだがある。
おだがテレビに映った次の日にはクラスでだいぶ話題になったのだが、3日もするともう誰もその話はしなくなり、人の興味というのは移ろい行くものなんだなと感じた。
*ハムスターを連れ帰った話
4年生のクラスでは、みんなで飼っていたハムスターを当番ではなく手を上げた子が土日の間に預かって世話をするという試みがあった。当時はこういった自主性を重んじていたため、みんなで仲良く手を繋いでゴールしたり、順位をつけないといったことは考えられなかった。
賛否あるとは思うのだが、僕は個人的に順位や優劣をつけるということは必要だと考えていて、それは後で困ると考えるからだ。子供の頃に甘やかしていても、結局は大人になれば厳しい社会の中で戦うことになる。ならば多少の失敗が許される子供のうちに経験を積んでおいた方がいいと思われる。
クラスの中で一回も連れて帰らないような子もいたのだろうが、ぼくはこういうのは率先して参加するようなタイプの人なので、わりと早い段階で連れて帰っていた。
連れ帰ったジャンガリアンだかゴールデンだかのハムスターをゲージごと家の玄関に置き、妹ときゅうりやにんじんなどのエサをやると、小動物を愛でることでしか得られないような幸福感を感じることができた。
中でもひまわりの種は、とっとこハム太郎の歌にもあるようにハムスターたちの大好物であるようで、大切そうにほお袋にしまい込んで少しずつ食べていた。かんらん車みたいな運動セットで遊んだり、口をつけると少しずつ水が出る給水機でちびちび水を飲んでいたりするのを大いに興味を持ってながめていた。
昔はこんな風にして命の大切さというものを知ることができており、ある意味笑えない笑い話としては、飼っているカブトムシが死んだ際に母親に「電池入れて」とせがんだ子供の話というのがあったりもする。
この世界は不完全なリアルであり、完全なアイディアルに逃げ込んでしまっては、現実の成功など得られようはずもない。完璧な人生などは不可能であり、魂を成熟させるためには日々の成長が不可欠なのである。仮想現実である電子パネルとにらめっこしてるようでは、こういった充足感とは縁遠いままなのではないだろうか。
*コナンのテーマでなわとびの話
4年生の運動会の時に、当時から流行っていたアニメ『名探偵コナン』の主題歌で、小松未歩さんが歌う『謎』という曲に合わせてなわとびをするという演目があった。そのことでこの謎という曲はおそらく何百回も聞いているため、大人になった今でも容易に歌詞を思い出すことができる。
当時からクソ真面目だったぼくは、夏休みに出された課題をサボることなく全てこなし、万全の状態で2学期を迎えていた。この頃になると生徒たちの間ではなわとびの能力にもかなり差がついており、『交差跳び』という一回ごとに順手とクロスで跳ぶ跳び方や、『ハヤブサ』という二重跳びのうち一回を交差跳びで跳ぶ跳び方、『三重跳び』という三回連続で跳ぶ跳び方ができる子などが居た。
中でも一際凄いと思われていたのが、100回連続で二重跳びが出来る子たちだった。
クラスでも3人ほどしかおらず、交差飛び、ハヤブサ、三重飛びができていたぼくはどうしてもできるようになりたかった。だが、ぼくはこの頃はあまり体力がなかったので、結局60回くらいまでしかできず、運動会と直接関係はないものの、かなり悔しい思いをしていた。
また、夏休み中にこの練習をしている時に、家の周りに『虹色に輝く謎の虫』がいることに気が付いた。
そして迎えた運動会の実演の時、田舎に謎を録音したカセットテープを持って帰って練習したことや、みんなとペースが合わない所があり、家で黙々と練習したことなどが思い出され、少し泣きそうになった。
結局全体で誰も泣くことはなかったが、みんなも真剣にやった分このなわとびの演目に思い入れがあったのではないかと思う。それからは休み時間も放課後もボール遊びに戻りはしたものの、授業でなわとびをやることがあると、必ずこの運動会のことを思い出すのであった。
*これって神戸だけ?の話
仲山第一小学校にも日本の小学校にあるような設備があって、薪を背負った少年が本を読みながら歩いており仕事をしながらも勉強しているのが偉い『二宮金次郎』の像や、小さな箱の中に温度計が入っていて常に気温が観測できる『百葉箱』や、半分が普通の人間で残りの半分が体内が露出している構造になっておりグロテスクで夜中に見たらギョッとしそうな『人体模型』など、いろいろ定番のものがあった。
また、神戸の小学校に通っている生徒は『のびのびパスポート』というものを支給してもらうことができ、それを使っていろいろな所に行くことができた。神戸市葺合(ふきあい)の辺りにある『王子動物園』やポートアイランドにある『科学技術館』などが無料で利用でき(親は有料)、土日や夏休みに貴重な経験をさせてもらえていた。
大人になってから大阪出身の友達にその話をしたところ、「ええなあ、俺らそんなんなかったで」と言われ、神戸で暮らしていることのメリットだったんだと知ることができた。
他には「体操の隊形に開け」という号令を受けると「ヤーー!!」という掛け声で応じたり、前述の土足で学校に入る件など神戸には独特の風習があったりもした。
また余談だが、宝塚市の手塚治虫記念館に行った時、ブラックジャックがグロすぎて気分が悪くなって帰って来るなど小学生の時にはまだいろいろとつたない出来事が多くあった。
*ぼくらの珍百景の話
神戸に移り住んでから少し経って、隣にある芦屋市の北側に両親が連れて行ってくれた際に、凄く珍しい光景を見たことがある。そこには大きな池があって、辺り一面見渡す限りオタマジャクシがいて、手ですくってみると掌いっぱいに黒い塊が広がるほどの数であった。
当時からアホだったぼくはすぐに「持って帰りたい!」と言って水槽に入れようと試みたのだが、母から「さすがにこんな量もって帰ってカエルになられても困る」と言われて断念した。
だが、それからは妹と二人でその池が気に入ってしまい、土日の度に両親にせがんでは連れて行ってもらうのであった。
*学級崩壊の話
ぼくらが小学生の時には、日本全体に不良やヤンキーと呼ばれるようなタイプの子がまだ多くいて、『学級崩壊』というものが社会問題になっていたりもした。
ぼくの4組はわりと先生の言うことを聞くような子が多かったが、1組は問題児と呼ばれる子が多くいて、授業中に教室を抜け出して4組のクラスの外まで歩いて来たりしていた。
その度に担任のザッキー(岡﨑先生、50m6秒台で年齢は60代の定年間際の先生)が猛ダッシュで追いかけて捕まえにかかるのだった。中でも、みやも(宮本)、三村、大垣はよく脱走しており、先生はかなり手を焼いているようだった。
この時はこの3人と話したことはなく、最初に廊下の外で見かけた時にはかなり驚いたが、数回見ると慣れてしまった。
*ぼくの原点の話
今にして思えば、4年生の時に起きたこの出来事が、ぼくの人生を大きく変えたのかもしれない。事の発端はおおした先生に声をかけられたことだった。
「学年全体に配られる文集のクラスの代表としておかもとくんの作品を載せたいんやけどいい?」
この一言を言われるまで、ぼくは自分が『文章を書くのが得意だ』と思ったことはただの一度もなかった。内容としては音楽の授業の時に高い声が出ないので、どうにかしたいといった内容なのだが、『声が出たらいい』というタイトルのその作文が文集に載った日はなんだかとても誇らしい気持ちになった。
作家になろうかもの凄く悩んだ日や、もうダメかと思った日にも、どこか心の中でこの体験が支えになっていたことは確かである。よく失敗を糧になどと言うが、ぼくは人生にいい影響を与え、豊かにしてくれるのは『成功体験だけだ』と考えており、怒られて伸びるなんてのは支配する側の頭の悪い言い分だと心得ている。
なので、何かを始めたいが己の道が分からなかったり、踏み出す勇気が持てない時には好きなことより『得意なこと』をやるのをお勧めする。好きなことは嫌いにもなるが、得意なことはそうそう苦手にはならない。
ただ、その中で『人から評価されるかどうか』ということを特に気にしておくべきであり、『自分的に』や『こんなに頑張ったのに』といったことは『自己満足』としてあしらわれてしまうことになるだろう。見極め方としては、みんなとやっていて『褒められたことがある』ことが、やっていくべきことと捉えていいと思われる。
*妹の病気の話
4年生のある日のこと学校へ来た母から、妹が『盲腸』で手術することになったと言われ、ちょうど6時間目だったので、そのまま早退して病院まで行くことになった。
妹には父が付き添っていたのだが、既に手術は始まっており、それから2時間いたのだが、夜ぼくを泊めておくことはできないという理由で家に帰ることになった。
そこで家で一人で留守番することになったのだが、そこでぼくは貴重なものを見ることになる。毎週見ていたポケモンのアニメをテレビを点けてなにげなく見ていると、サトシたちが巨大化したポケモンに乗って亜空間を移動し、違う世界に行って戻るといった内容の話が放送されていた。
この時ピカチュウが凄い勢いで電気技を繰り出していて“派手な演出やな”と思っていたのだが、実はこの回は後になってかなり問題視されることになる『ポリゴンショック』の回で、赤緑青の『光の3原色』をふんだんに使って光りまくる映像を見て、気絶してしまう子が多かったようだ。
この時ぼくまで倒れていては両親はパニックだったかもしれないが、幸いぼくは部屋を明るくして離れて見ていたので事なきを得た。この放送から程なくして、テレビに注意書きが加わるようになり、『こち亀(こちら亀有区公園前派出所)』のアニメでは歌にして注意を促すようになったりした。
一方、妹の方はと言うと1990年代後半で地方の中型病院であったため少し大きな傷が残ってしまったものの、術後の回復も悪くはなかった。その入院している時にちょうどクリスマス会があり、ぼくもちゃっかり参加して『仮面ライダーV3』のフィギュアをもらって嬉しかったのを覚えている。
中には凄く大きくてたくさんのプレゼントをもらっている子が居たりして羨ましくもあったのだが、後日病室が空になっていたのを見て“自分の考えが浅はかだった”と猛省した。その後妹は退院し、普通に生活できるようになったが、鉄棒の授業だけはお腹に悪いからと休んでいた。
*たっちゃんとの文通の話
神戸に引っ越してからの数ヶ月間、大葉小学校で仲の良かったたっちゃんと『文通』をしていた。メールでないところが時代を感じさせると思うが、『文通』を始めて数回は近況や絵を描いたりしながら月に1通ほどのペースでやりとりしていたのだが、次第にめんどくさくなってしまい。ぼくのほうから出すのを止めてしまった。
今にして思えば申し訳ないことをしたというのと、仮にずっと続けていたらメールアドレスを交換したり、東京か大阪で会うようなこともあったのかな?と考えたりもする。いずれにせよ、彼とはもう会うことはないのかなと考えると、わりと寂しい気がしたりしている。
*2分の1成人式の話
4年生の3学期頃、ぼくらが10歳になるのを記念して、先生たちが2分の1成人式というのを開いてくれた。これは20歳の半分だからという意味で、一人一人がこれまでの人生を振り返り、将来の夢を語るという行事だった。
いくつの時までこれを本気にしていたかは今となってはもう定かではないが、この時ぼくが語った将来の夢は『おもちゃ屋』だった。
大人になっても大好きなものに囲まれて暮らせるからという単純な理由からであったが、何の夢も持たないよりは、将来について漠然としてでも考えるキッカケを与えてもらえたことが、貴重な経験だったと言える。
また、友達の夢を聞くことで、人の考えにふれたり、やはり自分と人とは違うのだということを知ることができたりもした。サラリーマンや専業主婦、警察官や保育士、消防士や看護師、野球選手やアイドルなど、人によってはば広い夢があった。中には教師と言い出して先生が大いに喜んだりと、みんな個性を爆発させていた。
この年頃というのは、口だけは達者だが、中身はまだまだ子供という中途半端な時期であり、ローマ字が書けるようになったり、鉄棒でできる技が増えて行ったりすることで日々の成長を実感できていたので、明確に大人になることを意識するような出来事だった。
最後には表彰状のようなものを渡してくれて、また一歩、大人に近づいたことを誇らしく思うことができたのであった。
ほかのはなし
第二回 https://note.com/aquarius12/n/n485711a96bee
第三回 https://note.com/aquarius12/n/ne72e398ce365
第四回 https://note.com/aquarius12/n/nfc7942dbb99a
第五回 https://note.com/aquarius12/n/n787cc6abd14b