【大衆小説】夏から夏へ ~ SumSumMer ~ 第5回
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第五譚 五 年 生 編
*5年のクラス替えの話
5年生になるとクラス替えがあり、4年生の時の校舎とは少し離れた校舎に通うことになった。『1、2組は1階』『3、4組は2階』という風に分かれており、プリントを見て確認すると、ぼくは2組になったようだった。担任の先生は永谷先生という女性の先生で、明るくて面白そうな感じの先生だった。
新しく同じクラスになった子たちは、見たところ明るそうなタイプの子が多いようだった。前のクラスで一緒だった子が今度のクラスでは何人か一緒だったので、最初から知っている子が何人かいる分4年生の時のような不安はなく5年生をスタートできた。
そんな5年生のある日、担任をやってくれた、ながたに先生から、面白いものを見せてもらったことがある。小学生の時には、落し物があるとみんなの前で誰のものか確認するのだが、その時に誰も名乗り出ないということがたまにあった。
日本人特有の気恥ずかしさからなのか、単に不要だと判断したのか、教室に落ちているということは確実に誰かのものだと思われるのにだ。
そんな時にながたに先生が、「もし今、言いにくかったら、後で先生のところに言いにきてね」と前置きをした。
まず、エンピツの後ろの方を持って上下に揺らしてフニャフニャに見えるというものを見せてくれ、みんな興味を持って次々に自分のエンピツでマネをしていた。
次に、ハサミを空切りして見せて「これはハサミの刃に悪いからホントはやっちゃダメやからね」と教えてくれた。
それと、分度器が落ちていた時、もし道に迷った時に方角が分からなくなったら『南』がどっちか知るために『時計の短針を太陽の方に向けて、文字盤の12との間が南』だというちょっとしたウンチクを教えてくれたりもした。
あと、定規と言えば、5年生の時には『定規プロレス』という定規をペンで押さえつけてはじいて机から落とす遊びをよくやっていた。定規がくるくる回転したり、定規の下にペンを入れて自分の定規を叩いて、相手の定規を飛ばすというのもOKで、皆でかなり盛り上がっていた。
*明石海峡大橋についての話
小学校5年生の1998年4月に兵庫県神戸市垂水区と淡路市岩屋を結ぶ明石海峡大橋が完成し、当時世界最大のつり橋であったため、世間的に大きく話題になった。その際に約10万人が、その橋を歩いて渡れるというビッグイベントが行われ、抽選の結果なんとうちの家族4人もそれに参加できることになった。
当日は車で行くのは近隣の迷惑になるということで禁止されていたため、電車でJR垂水駅まで行って橋へと向かった。いざ橋の前に立ってみると、その壮大な規模に思わず圧倒されて感動した。
実際に橋を渡ってみると、1時間くらいで4キロの道のりを歩いて淡路島まで行くことができ、それから一息ついて本土まで戻って来た。大勢の人が一斉に歩いている様はなんだか滑稽(こっけい)で面白く、みんな笑顔で活気があって楽しかった。
この頃は『関門海峡』が1973年11月に山口県下関市と福岡県北九州市とを結び、『青函トンネル』が1988年3月に青森東津軽郡と北海道上磯郡を結び、『瀬戸大橋』が1988年4月に岡山県倉敷市と香川県坂出市とを結んだりと、社会にかなり伸びしろがあった。
九州、北海道、四国、淡路島の順に本州と繋がって行き、少し暗い雰囲気が漂い始めてはいたものの、チャレンジできる精神を持った人が多かった。だが、ぼくはこれからの日本も負けてはいないと考えている。『東北新幹線』や『九州新幹線』、『リニアモーターカー』など交通網の発展は目覚ましく、技術革新も日進月歩で行われているのだ。
「日本は終わった」と言って嘆いているよりは、これからできることに目を向け、追い抜かれてしまった中国、昔からの憧れである米国を、追い抜く日が来てもおかしくはないと思っている。
大切なのは現状を悲観するのではなく、しっかりと知力・体力を整えて成長し、時代遅れの集団とは離別して、金銭を稼ぐために自ら身を立て、捨て身の覚悟を持って明日への活力を見出して行くことではないだろうか。
*イトマン兄弟の話
ぼくと妹は神戸に引っ越してからすぐに、千葉で通っていたスイミングスクール『キッコーマン』の系列である『イトマン』に通うことになった。だが、これには問題があり、このイトマンはぼくの住んでいた東灘区から車で40分ほど離れた灘区内にあって結構遠く、いつも母に車で送ってもらっていた。
仲スポやJSSといったスイミングスクールが近くにあって、どちらもレベルが高く、イトマンに引けを取らないのだが、母は要領が良いタイプではなく、前にもらっていた級をそのまま使えるからと言ってイトマンを選んでいた。
大葉小で参加していた『ミニバス』を続けたかったのだが、母が探し方が分からないと、この地域にはないと思い込み(本当はあった)、結局続けることはできなかった。そのこともあり、その頃は水泳一筋で熱心に週2回ほとんど休まず通っていた。
ぼくはこの頃から指が逆に曲がって手の甲まで着き、腕が背中の後ろにベッタリ着くほどに体が柔らかったので、イトマンでできた友達に見せては驚かれたりしていたのだが、そこではイトマンに長年通っている兄弟が居て、その二人はぼくの1コ上と1コ下の年であった。
毎回進級テストがある度に兄の方とタイムを競い合っていて、千葉で通っていたキッコウマンでは負けなしだったので、彼はぼくにとって初めてライバルと言える存在だった。ライバルがいた方が記録が伸びるというのをこの時ぼくは実感できたこともあり、この二人とは仲良くしてもらっていたのを覚えている。
弟の方はプールに来る前に遊んでいたと言う『遊戯王カード』を見せてくれ、ぼくたちの地域ではまだやっている子が少なくて珍しかったので凄く興奮したことや、学校でのいろいろな出来事を話してくれて、他校の生徒と交流することで自分の世界が広がって行くのも楽しかった。
結局1級の上の特急になるのは先を越されてしまったものの、彼が卒業して中学に通うようになる時にはタイムで勝てていたので、水泳に対する自信は失わずに済んでいた。
また、プールに関する思い出はもう一つあり、一度だけ母が「今日だけね」と言ってプールを休むことにしてボウリングに連れて行ってくれたことがあった。父に言うとプールを休んだことをかなり怒られてしまうと予想されたため絶対に内緒という条件付きであり、普段厳しい母親に甘やかされたことがかなり嬉しかった。
そして、この時初めてスコアが150を超えたこともあり、幼少期の楽しかった思い出として今でも脳裏に焼き付いている。
*家庭科の授業の話
体質が古い時代には、男子は工具を使って『技術科』、女子は裁縫道具や調理器具を使って『家庭科』の授業を受けていた。だが、ぼくらの時代にはそれはもう古いということで、小学生の間はその二つを合わせた『生活』という授業を受けていた。
5年生の時にはわりと本格的に料理をやって、昼食としてそれを食べるようなことがあった。どんなやり方で料理を作ったかは大人になったら忘れてしまったが、コンロに火を点けてフライパンを熱して使うという『経験』をすることによって、料理をすることに対する抵抗が薄れたという効果があったように思う。
同じクラスの小坂は家でよく料理を教えてもらっているということで、卵の溶き方などもかなり洗練されていて凄いと感じた。後で知ったことだが、自然学校で一緒になる三村も家で料理をやっているらしかった。それを知って、“ええとこの子はテニスと料理をやっているんやな”と妙に納得したのを覚えている。小坂は、
「こんなん簡単やん」と言っていたが、
ぼくは慣れていなかったので、結局、目玉焼きだけできるようになった。それからは家で目玉焼きを焼くのが習慣になり、片面焼きの『サニーサイドアップ』や、両面焼きの『ターンオーバー』など色々な焼き方を試して行った。
また、裁縫の授業では、泊りがけで行く自然学校で使う布製の『ナップサック』を作るということをやった。
ぼくはわりと手先が器用な方なので、裁縫は苦にならずむしろ楽しいと思うくらいだった。『ニードルスレイダー』と呼ばれる銀色で女性の顔が彫られている糸通しを使って糸を通すのが、洗練された仕事をこなす熟練工のようで好きだった。
ここでやった『返し縫い』というやつが後々かなり使える方法で、要領としては2マス進んで1マス戻るというような手法であった。こういう授業はかなり実用的で大人になった今でもかなり役に立っているので、これからも変わらず教え続けてほしいと思う。
*ボーイスカウトの話
5年生の時に同じクラスになった小坂、石川、松宮が『ボーイスカウト』をやっていて、それがなんだか羨ましい時期があった。
『ボーイスカウト』は少年たちがキャンプを通して自然に触れ、年少者にはロープやナイフの使い方、サバイバル技術や料理などを教えるというものであり、生きて行く上で必要な技術をいくつも学ぶことができるのである。
その『ボーイスカウト』でもう一ついいなと思った点が『内輪での鬼ごっこ』だ。学校とは別に『ボーイスカウト』の人だけで続いており、入れてほしいと頼んでも
「これは俺らだけでやってるやつだから無理」
といった具合に入れてはもらえず、なんだか寂しい気もしたが、別にぼくだけが入れてもらえなかったわけでもなかったので、“グループを大切にしているのはいいことだったんだろうな”と今になったら思える。
*耳鼻科の話
今はそうでもないのだが、小学生だった頃は鼻炎が酷く、隣町の御影にある高野耳鼻科までよく車で送ってもらっていた。ここでは鼻に管を入れて鼻水を吸い出すのだが、鼻の奥まで入れるので、これが結構痛いのであった。
それで耳鼻科に行くのは憂鬱に感じ、あまり気が進まなかったのだが、この後に機械から出る煙を吸引すると鼻と喉が一気に楽になるので、それが終わってから帰ると爽快な気分になるのであった。この耳鼻科には、仲の良かったけんちゃんも通っていて、たまに会って話したりもしていた。
ただ、ここの他に近所の摂津本山駅の近くにもよさげな耳鼻科があるにも関わらず、母は自分が決めた納得の行く所へしか行かないというこだわりがあったので、そういうところは今日のぼくの性格にも影響を及ぼしているのかなと今になって思う。
他のクラスの子が耳から血が出た話に恐怖したりしながらも、ぼくはせっせと耳鼻科に通い続けるのであった。
*道草ばかりの帰り道の話
学校の帰り道というのはなぜあんなに短いのに魅力的なんだろうと思うことがある。5年生になりたての時、4年生で同じクラスだったきたと一緒に帰る約束をしていたのだが、すっぽかされて一人で帰るはめになったことがあった。たぶん悪気はなく、小学生は忘れっぽいので仕方がないことだと思う。
そこで、普段帰っていた東側の道ではなく、いつも行きしに通っていた西側の道から帰ることにした。子供は下の方を、大人は上の方を見ながら歩くというが、ぼくもご多分にもれず下を見ながら歩き、目の前にある犬のフンを難なく避けながら進んで行った。
すると、何かの気配に気が付いて見上げると、上に線路が通っているトンネルの壁にヘビがまとわりついて、ぼくを見下ろしながら舌をチョロチョロ出しているではないか。これは困ったなと思い、いなくなくのを待っていたが、いつまで経っても一向にどこかへ行く気配がない。
そこで意を決して通過しようとしたのだが、勢いよく通ったせいでヘビの方も驚いたのかぼく目掛けて壁から身を乗り出してきた。一体どうやってはりついているんだと思う余裕もなく、間一髪かまれずに済んだ。
後にも先にもヘビに襲われたのはその時だけだったが、今にして思えば別の道を通るようにすべきだったと思う。その後、落ちていた石を蹴り、枝を拾って得意げに歩きながら家まで帰ったのであった。
*さとうの話
5年生の時に同じクラスだった佐藤くんという友達がいて、ある日、図工の時間に少しじゃれあって遊んでいたのだが、グーパンで『頭の右側』を軽く叩かれて、その時にぼくは視点が合わなくなってしまって、5分くらいそのままの状態になってしまったことがあった。
回りや先生に言おうとしたが、みんな気付いてくれず、物が3重に見えて、もうずっとこのままかもしれないと、かなり焦ってしまった。どうやって解決したかというと、自分で『頭の左側』を何回か強く叩いて、バランスを取ったことで視点が元に戻り、普通に見えるようになった。今でも別に何の後遺症もなく暮らせているが、この時にこのままだったらと思うと少し恐ろしくはある。さとうから
「なに自分で叩いとんねん、アホちゃうか」と言われ
「うるさい、お前力強いんじゃ。目おかしなったやろ」
というやり取りを経て少し喧嘩になったものの、それからも普通に仲良くしていた。このさとうには天敵がいて、植竹くんという子が水泳の授業の時になぜかさとうの席に座ってタオルを敷かずに着替えるのだが、さとうがやめてくれと言ってもなぜかやめようとはしなかった。結局5年生の水泳の授業の間中そんな調子で彼が言うには「この席が気に入っているから」だそうだ。
だが、それよりも可哀想だと思ったのは、彼は6年生の2学期に親の仕事の都合で引っ越すことになり、みんなと一緒に卒業式に出られなかったことだ。一応卒業アルバムは送ってもらえたようだが、“卒業式の日だけでも参加できたらよかったのにな”と今になっても思う。
*神戸での習字の話
小学校高学年になっても、親の意向で習字をやっていて、家の近くの『北畑会館』というところに通っていた。だいたいどこもそうなのかもしれないが、そこも千葉で習っていた時と同じくおばあさんが先生をしていた。
ただ、千葉の時と違ってそのおばあさんは結構嫌味を言ってくるタイプの人で、ぼくはこの人がわりと苦手だった。同じクラスの岡野もそこに通っており、ある時家が近いので一緒に帰っていて習字の話になったことがある。
「おかの、明日習字行く日やんな?」
「そうやな。あ~めんどくせ」
「なんか俺、あの先生あんま好きじゃないんよな」
「おれも!あのババアめっちゃ嫌い」
「そうやんな!なんかいつも嫌味言うて来るし」
「俺、正直もうあっこ行きたくないねん」
「俺もやわ。行くの嫌になって来てる」
「一緒に辞めん?」
「そうやな、そうしよう。習字ならもう十分やったし」
悪口というのは得てして盛り上がるものなのだろう。それから家に帰るまでずっと、二人はこの話題で持ち切りだった。
そしてそこで、帰ってから親に『いかに習字が上手くなったか』を力説し、漢字の書き取りをまじめにやるという約束で辞めることを許してもらった。断言するが、あんなもん絶対人生に必要ないし、世間の風潮に騙されているだけなのである。
ぼくは小学生の習い事は、将来の役に立つ『英語教室』(日本では大学受験で英語が必須であるため)と『スポーツ』(男子はサッカー、女子は空手か合気道が良いと思う)、そしてその子がどうしてもやりたいのならあともう一つ、くらいにすべきだと考えており、それ以外は無意味なのでなるべくやらない方がいいと思う。
人生は短く、洗練されて来ている今の時代、あれこれ無駄なことをやるよりも、『役に立つスキル』を身に付けるべきでなのである。 来年から塾に行く
*湯沢の家での話
5年生になってから、もうだいぶ学校になれてきてわりと友達が増えていた。その中で友達になったのが、同じクラスの湯沢で、たまに約束して家に遊びに行っていた。そんなある日、その日は岡野も湯沢の家に遊びに行っており、3人でダベりながら遊んでいた。
この二人は野球が好きだったようで、どちらの家に遊びに行った時にも、わりと『実況パワフルプロ野球』をやっていた。これは、3頭身くらいにデフォルメしたキャラクター育成してプレーでき、実在するプロ野球選手のデータが使われているゲームだった。
だが、この日はそれにも飽きてしまって、特にやることがなくなって、湯沢の持っているポケモンカードを見せてもらったりしながら、暇を持て余していた。
「ゆざわなんかおもろいことないん?」岡野がそう言うと
「いや、特にないよ」と湯沢は気のない返事をした。
「それやったら、ゆざわのポケモン見せてや」
「ええよ。ほんなら、ちょっと待って」
そう言うとゆざわはゲームボーイを取り出してポケモン赤を起動した。
「うわ、すげえ。ミュウおるやん!」
「ええやろ。作り方おしえたろか?」
「うんうん。教えて教えて」
「まず、1匹目をサイホーンにして、一番下の技のPPを21にして2匹目をミュウってなまえのスリープにすんねん」
これは適当なポケモンとエスパータイプのポケモンならできるのだが、この2匹は捕まえやすく、サイホーンは技が『つのでつく』しかなくてやりやすいので、ここではそうしている。
「道具の上から16番目でセレクトを押して戻って、草むらに入って、さっきのPPが21の技のとこでセレクトを押してから逃げんねん」
「ふんふん、それで」ぼくとおかのは興味深そうに相槌を打っていた。
「そっから2番目のポケモンを育て屋に預けて、引き取ったらミュウになってるわ。1匹目にしてたやつはバグってまうから、かわいそうやけど逃がした方がええな」
「おお~すげぇ、ほんまにできとる」
ぼくらはそう言いながら、バグ技で誕生させたミュウを見て驚いていた。
また、ゆざわはスーパーボールを結構いっぱい持っていて、それを壁に当てて跳(は)ね返ってきたものをキャッチするという遊びをやり始めた。初めは軽く当てたものを普通に取っていたのだが、しだいにそれも退屈になり、誰が一番鋭い球をキャッチできるかという競争になった。
順番にやっていき、みんな上手く成功していったのだが、ぼくはこの二人とは違い、特に野球をやっていたりはしなかったので、思いっきり投げた球が受け止められず、岡野にスーパーボールが当たってしまった。
「痛っ」
「ごめん、大丈夫か?」
「大丈夫ちゃう死にそうや」
「ほんまごめん」
という具合で、彼とは家が近かったのだが、結局そのまま岡野にひたすら文句を言われながら帰ることになった。当たったところが赤く変色していたので、わりと心配していたのだが、次の日に学校に行くと、ちょっと痛むとは言っていたが、別に何もなかったように赤みは引いており、その次の日にはもう大丈夫だったようだ。
*さかあがりを教えた話
5年生の時に、違うクラスだが小体連で友達になった水野くんという子がいた。水野はサッカーを習っていて運動神経がよく、たいていなんのスポーツでもできるような子だった。だが、彼には運動において一つだけ悩みがあり、それは『逆上がりができない』ことであった。
小学校高学年ともなれば、男子ならほとんどの子は逆上がりができるようになっていて、スポーツが得意な彼としてはどうしてもできるようになりたいと思っていたようだ。
ある時、小体連のサッカーの練習が始まる前に彼がぼくの前で逆上がりができないと言ってその場でやって見せた。3回ほどやって見せられ、できなくて困っているということを伝えられた。それを見ていたぼくはあることに気づき、それを彼に教えることにした。
「何がダメなんやろな~?みんなみたいにできたらええんやけど。どうしても上手く行かんねん」
「手を伸ばしたままやから体が鉄棒の上まで行かんのちゃう?手、曲げてみたら」
「そうなん?ほんならやってみるわ」
そう言うと水野は鉄棒に向かって逆上がりをやってみた。
「できた!できたで逆上がり!」
「やったな!きれいにできとったで」
「ほんまありがとう!これ、できんでずっと悩んどってん」
「そうなんや。ほんなら役に立てて良かったわ」
「ほんまありがとうやで。けんたろうも何か困っとったら言ってな」
「おう。今んとこ大丈夫そうやから、何か困ったことあったら言うわ」
こんな感じで話したのだが、ぼくとしては『ただ思ったことを言っただけ』なのだが、この後も何回かこのことについて触れられ、感謝されることがあった。
このことでぼくが学んだことは、人によってできることは違っていて、自分にとっては何気ないことでも、誰かにとっては重要なことだったり、何かを解決できるようなことだったりするということだ。この本を読んだ少年少女も、ぜひ友達が何か困っていた時にはアドバイスしてあげるようにしてほしい。
情けは人の為ならずという言葉があるが、これは、誰かを助けてあげるのはその人の為だけではなく、自分が困った時に助けてもらえるかもしれないから、困っている人がいたら助けてあげた方が良いという意味の諺だ。人生では時に躓くことがあるが、そんな時に助け合えるのが、本当の友達だと言えるのではないだろうか。
*ハンドスプリングの話
5年生になると体つきもかなり大人に近づいており、身長は150cm台後半まで伸びていた。そんな折、体育の授業で『ハンドスプリング(手の力をバネのように使って行う前転、バク転の逆版)』というものをやったのだが、着地する時に足が伸びた状態だと失敗してしまい、上手くできないでいた。
そしてどうしてもハンドスプリングをマスターしたいぼくは体操を習いに行っていた、ミーミー(岬くん)に頼んで休み時間に大きい方の鉄棒の前の砂場で教えてもらっていた。
彼はぼくより少し背が高く、メガネをかけていて、細身だががっしりとした体形だった。だが、それには一つ条件があり、ぼくは教えてもらう度にある言葉を言うことになっていた。最初にお願いに行った時に、
「豆板醤じゃんって言ってくれたらいいよ」と言われ、
「豆板醤じゃん!」
「あはは、おもろい。もっかい言って」
「豆板醤じゃん!!」
「あははは。ほな教えたるわ」
というやり取りを経て始められたからだ。ある時、
「これって毎回言わなアカンの?」と聞いてみたのだが、
「うん。けんたろうが標準語で言うのがおもろいから聞きたいねん」と言われ、
“まあタダで教えてもらうのもなんか悪いしな“と思って毎回言っていた。そんな努力の甲斐あってか、1ヶ月経つころには完璧にハンドスプリングをマスターし、みんなの前でに見せびらかしていた。
ただ、『豆板醤じゃん』だけはその練習が終わってからもわりと頻繁(ひんぱん)に要求され、
“別に減るモンでもないしいいか”と思いリクエストに応えるようにしていた。
*学校までの距離の話
日本の学校にも校区というものがあり、その中で暮らしている7歳から12歳になる歳の子たちが6年間、小学校に通うことになっていた。ぼくの通っていた時点では4月になると桜が咲く中入学し、制度上はあるのかもしれないが留年することはなく、みんな一斉に進級して行くのであった。
中には家が遠い子もいて、学校まで30分近くかかる場合もあった。こういう子は遅刻には気を付けないといけないのだが、意外と遅刻して来る子は少なく、逆に家が近い子の方が油断して遅れてくることが多かった。
中でも極めつけに遅かったのは、学校の向かいに住んでいた猪爪くんだった。づめは学校まで1分で着くので、いつもギリギリに登校しており、たまに寝坊して数分遅れて来たりしていた。
*5年生のプールの話
昨年は小指を骨折したことで参加できなかったぼくも、この年にはプールに入ることができるようになっていた。だいたいは普通の水泳の授業なのだが、この学校でやった面白いものとしては『洗濯機』と『着衣水泳』だ。
『洗濯機』は関西風の発音でせんたっきと言っており、まず生徒たちはプールのふちに掴まって左側へと移動して行き、全員で動くので加速がついてプールに巨大な渦ができる。これをみんなんでやるのが凄く楽しくて、2クラス合同でやる大型授業の一つの楽しみになっていた。
そしてもうひとつの『着衣水泳』だが、これは最後の授業の一回前(雨が降ったら中止になるため最終日は予備日)にみんなでそれ用の服を持って行って服を着てプールに入るというものだった。
主に溺れそうになった時は無理に泳がず、体に力を入れないようにすれば自然と浮くから、その間に服を脱ぎ棄てなさいという内容の授業で、子供が海や川で溺れないようにするためのものだった。
幼稚園年長から水泳をやっているぼくにとって、溺れる心配はないと言えるようなものだったが、それでも服が重くて泳ぎにくくなるのは貴重な経験だった。
*将棋を習った話
小学校低学年生の頃まではわりと簡単な将棋しか嗜んでおらず、駒を一列に並べて1ターンに一度だけ前か横に動かせるという『はさみ将棋』や、将棋をしまう箱に入れて盤の上にひっくり返し、それを音が鳴らないように引き抜くという『つみ将棋』などで遊んでいた。
夏になり下松に帰った時におじいちゃんにせがんで勝負してもらっていたのだが、10回ほど連続で負けてしまい、そのことでおじいちゃんに文句を言ってしまったのだが、「勝負の世界は厳しいんよ」と言われ、珍しく譲ってもらえなかった。
だが、これは今でも間違ってなかったと思えることで、おじいちゃんからの初めての『男としての助言』であったと今になって思う。
また、おじいちゃんには面白い口癖があったりもして「お主やるなあ」と言って褒めてくれたり、ご飯を食べた後に「美味かった、うしまけた(馬勝った、牛負けた)」というギャグを披露してくれたりもしていた。ちょっと天然な発言もあったりして、
「はさみ将棋なら片目をつむってても勝てるよ」
「それじゃハンデにならないよ」
「そうね、おじいちゃん気付かんかったよ」
「ふふっ、おじいちゃんはドジなんだね」
などと言ったりもしていた。
高学年生になってからはそれでは少し物足りないということで、父から教えてもらった『本式の将棋』で遊んでいた。だが、これも歴が長いおじいちゃんにそうやすやすと勝てるはずもなく、挑んでは負けてを繰り返していた。
ただ、将棋をやっているうちに、どうやら『orになるように』置くといいということが分かってきた。これは例えば桂馬ならYの字の尻から頂点の二か所へ飛べるという動きなのだが、その二点両方に銀と香車があったりすると、どちらか一方しか動かせないため必ず一つは駒を取ることができるというものである。
これは、はさみ将棋などでも応用でき、結局はおじいちゃんに勝つことはできなかったのだが、ここで修業したことで将棋が強くなり他所で将棋をやる時には始めたばかりの人には大抵の場合は負けないという所までは強くなることができた。
*下松での思い出の話
おじいちゃんとおばあちゃんの家は二階建てで、1階にはみんなでご飯を食べる台所、おじいちゃんおばあちゃんが寝ていた畳の部屋、おじいちゃんがタバコを吸っていた応接間、なぜだか怖い『三面鏡』と呼ばれる状態の右、左、前に鏡がある洗面所と風呂、和式の上に洋式を増設したトイレがあった。
裏庭にはナスやキュウリ、トマトやミニトマト、ミカンなどが植えられており、収穫できたら、調理してもらってみんなで食べていた。この庭にはホオズキが植えられていて、ハチドリ、ムクドリなど可愛らしい小鳥たちが遊びに来ていた。
また、応接間には、昔夜市でつかまえた『あの時の金魚』があんなに小さかったのに尾ひれが大きくなり、まるでポケモンの『アズマオウ』のような風貌になって、金魚鉢一杯に悠然と泳いでいたりもした。
2階にはおもちゃがいっぱいあったテレビの部屋、ぼくら家族が泊った時の寝室、熊が鮭をくわえたこげ茶色の置物がある余りの部屋、母が勉強していて、ぼくか妹が夏休みの宿題をやっていた勉強部屋があった。1階と2階を結ぶ階段の下に、ぼくの愛車だった『子供用のペダルをキコキコ漕ぐ車』があり、小学校高学年になって体が大きくなって乗れなくなるまでそれで遊んでいた。
夏休みやお正月、春休みに下松に帰った時にはみんなで集まって食事をするのが慣例になっていて、食卓にはおじいちゃんが『さばいてくれた魚』や、ぼくが当時大好きだった『骨付きのフライドチキン』、おばあちゃんが得意だった『カレーライス』、母が作っていた『巻き寿司』、おばさんの得意料理の『チーズケーキ』がよく並んでいた。
そして、ご飯を食べ終わると、ぼくら兄妹がお待ちかねの『トランプ』をして遊んでいた。『ババ抜き』や『七並べ』、『51』というポーカーのようなルール、『ラストワン』というウノのようなルールなど、親戚があつまると決まってトランプをやっていた。
おじいちゃんとおばあちゃんは昔の人なので、じゃんけんをやる時に、親指と人差し指を伸ばす、『ピストルチョキ』を出していたのもよく覚えている。ぼくはスペードしか集めないので、周りの大人たちはみんな妨害しようと思えばできていたのだが、誰もスペードは集めようとしなかった。今思えば、みんな本当に優しかった。
*東京のおじさんの話
母は男女女の3人兄弟の末っ子で、東京のおじさんとは11コ歳が離れていた。これは恐らくおじいちゃんが船乗りだったことが関係していて、おじさんおばさんが生れてから仕事が忙しくなり、母が生まれる頃に一段落したと思われる。
東京のおじさんは大学に通い始めてからずっと東京に住んでおり、そのことで『東京のおじさん』と呼ばれていた。単におじさんとだけ言ってしまうと、親戚に4人いるおじさんのうち誰なのか分からなくなってしまうため、『どこのおじさんか』をハッキリさせる意味合いがあってのことだとも思う。
麻雀が好きで、サラリーマンを定年退職してからは雀荘を開いて運営していたくらいだった。ある時、ぼくが夜市で貰った、『車3台が変形して合体するロボット』が思ったより複雑で組み立てられないでいると、ぼくが出掛けている間に組み立てくれていたことがあった。帰って来てロボットが完成しているのを見て凄いと思って興奮し、夢中でおじさんに組み立て方を習ったのをよく覚えている。
田舎に帰るといつもおじいちゃんと囲碁をやっていて、ぼくはルールがいまいち分からなかったので、それをボーっと眺めていた。
ただ、いつもタバコをポイ捨てするので、クソ真面目だった幼少期のぼくは生意気にも注意したりしていた。歳が離れていて接する機会が少なかったからか、母はいつも東京のおじさんに遠慮しているように見えた。
*転校生の話
5年生の2学期になると南原という子が転校生して来た。この子は面白い子で、給食の時に替え歌を歌ってみんなを笑わせたり、5、6人で遊んでいたグループにすぐに入って来たりとコミュニケーション能力が高かった。
ただ、いつも笑顔でそのことで逆に感情をあまり表に出していないような印象を受けていた。転校生によくあるような、すぐに溶け込めるように愛想を振りまくタイプで、みんなの中心にいるのだが、なぜか逆に居場所がないように見える子だった。公園で遊んでいる時に
「やっとみんなと仲良くなれて嬉しいよ」と言っていたのが凄く印象的だった。
だが、その言葉も虚しく、2学期の終わりに彼は別の学校に転校してしまうことになり、教壇の前に立って別れの挨拶をした。
「今まで仲良くしてくれてありがとうございました。みんなと過ごしたこの3ヶ月は忘れません」
『テンプレ(テンプレート・定型文)』というか、このセリフを言い慣れているのだろうなと思わせるような感じだった。転校する子がいると、場合によっては本人を含め何人か泣く子が出てくることが多いとは思うが、ぼくらにはそんな思い出を作る時間もなかった。
だが、それは決して彼が慕われていなかったということではなく、まだぼくらには打ち解け、腹を割るだけの時間がなかったのだ。事実、彼を悪く言ったり、のけ者にしようとする子は一人もおらず、彼は間違いなくクラスの一員だった。お互いをよく知り、分かり合うには、3ヶ月という期間はあまりにも短かった。
日本にはまだ全国転勤のような先進国では禁止されているような非人道的な辞令が下されることがあり(社員には拒否権が与えられていない)、その犠牲となるのはいつも立場の弱い人々だ。南原が、ある意味みんなに心を閉ざすようになってしまったのも、この転勤というシステムの弊害であると言える。
日本の司法家は政治家と違って情けない人間が多く、前例主義や大企業への斟酌などで裁判員の声を無視し、大衆の声を黙殺してしまうことが多くある。
望まぬ転勤に違憲判決を叩き付けるような『尊属殺重罰規定』を廃止させた『石田和外最高裁判長』のような人道的で勇気のあるハートフルな司法家が、この日本から出てくることを願って止まない。
*天大中小の話
5年生の時と6年生の時、『天大中小』と呼ばれる遊びが流行していて、クラスメイトのこさか、まつみや、いしかわ、けんちゃん、さとう、なんばらとやっていた。
これはいわゆる『テイキュウ』という遊びで、地面に正方形を描いてそれを十字で区切り、さらにその真ん中に丸を描くフィールドを使っていた。
ルールは簡単。卓球と同じ要領で自分の陣地でワンバウンドしたボールをグーに握った手か足で弾(はじ)き、他の3マスにいる誰かのところに打つというものだった。なぜ『天大中小』というネーミングかというと、マス目がそれぞれランク分けされていて、天、大、中、小の順に偉いという寸法だ。
そして自分の陣地でボールが2バウンドするか、打ったボールが四角の範囲から出てしまうとアウトとなり、一つランクが下がってしまうのだった。呼び方は違えど、日本の学校に通ったことのある人ならわりとやったことがある人は多いのではないだろうか。
だが、この『天大中小』にはもう一つ特別なルールがあって、それはフィールド中央に描かれた『ドボン』と呼ばれる丸の中にボールが入ってしまうと一気に最下位である小の位までランクダウンしてしまうというものであった。
誰の打ったボールが『ドボン』に入っても盛り上がるのだが、とりわけ最高位の天の位置にいる人がミスして『ドボン』に入るとぼくらは大盛り上がりだった。
ドッヂボール用のボールが使いやすいのだが、ボールが2つしかないため、ドッヂボールをしたい子が多いとバスケ用のボールでやったりしていて、そこはみんなで話し合って少ない道具を協力して使っていた。
現代社会は物はなんでもそろっているが、人を思いやったり、誰かの意見を尊重したりすることが少なくなってしまっていて、そういう時こそ、『古き良き日本』というものを思い出し、そこへ立ち返るべきではないだろうか。
*自分の名前の話
転校してから1年くらいは岡本とか岡やんとか呼ばれていたのだが、5年生の中頃くらいに小坂が、
「岡本って健太郎って名前やねんな。今度から、けんたろうって呼ぶわ」
とみんなの前で言ったことで周りがみんな健太郎と呼ぶようになった。ぼくは正直、けんたろうという名前は少し古い感じがしていたので、たつやとかかずや、だいきとかなおきのような今風の名前に秘かな憧れがあったので、ファーストネームで呼ばれることに対して抵抗があった。
日本では後に『キラキラネーム』と呼ばれる、その人しかいないようなオリジナルの奇抜な名前というものが流行るのだが、それを考えればかなり小さな悩みと言えるだろう。また、逆におじいちゃんおばあちゃん世代のような古めの名前を『シワシワネーム』と言ったりもしていたので、どっちもどっちだと言え、ちょうどいい塩梅で名前を付けるのは親の知性が反映されるので難しいと考えられる。
読み方だけなら裁判所に行けばその場で変更できるということもあり、成人するまでに7年以上『通名』を使っているという既成事実を用いて『改名』するという人も少なからず居るようだ。
なんにせよ、名前というものは一生涯使い続けるものなので、周りの意見を重々参考にしつつ、その場のテンションに任せて突っ走るようなことがないようにすべきである。また、『元恋人の名前を付ける』などということは、妻か夫と子供への配慮を著しく欠いた背徳行為であり、必ずバレると考えてやめるべきである。
もし付けてしまってバレた際には、『誠心誠意』謝罪をし、改名したいと言われた場合は素直に同意するしかないと考えられる。
因みにぼくの名前は父が、妹の名前は母が付けたそうで、同性の親が名前を付けてあげるというのは、トラブルの基になりにくくていいのかもしれない。
*みやなりくんとの話
仲山第一小学校はわりと転校生が来ることが多く、5年生の時に転校して来た宮成くんという子と仲良くなって遊んだ時があった。その子の家に遊びに行かせてもらって、ゲームを1時間やって、まだ夕方になるまで時間があったので、公園に行くことになったことがある。そこで道に栄養ドリンクのビンが落ちていたのだが、宮成くんが、
「避けろ」
と言ってコンクリートの壁にそれをぶつけ、破片が飛び散ってぼくの目の少し横に当たってしまった。当たらなかったからよかったものの、目に当たったら失明する恐れがあるような危険な行いであり、何よりかなりの恐怖を感じたので、ぼくは
「やめろや、危ないやろ!!」とかなりのテンションで怒ってしまった。
「ごめん、そんな怒んなや」とみやなりくんは言ったのだが、ヘラヘラして本気にしていないようだった。公園に着いてから、みやなりくんは普通にしていたのだが、ぼくはモヤモヤが収まらず、どうしても許せない思いがあった。
恐らく本当に悪気はなく、ビンを壁に当てて割るというのが前の学校で流行っていたので、何の気なしにやったんだと思う。だが、危険な行為は一生ものの傷になることがあるので、この話を聞いた良い子も悪い子も普通の子も大人も年配の方も、人の迷惑になるような危ないことは謹むようにしてほしい。
*運動会でのダンスの話
今でも圧倒的な人気があるというのは言うまでもないことだが、1990年代にはもう『マイケル・ジャクソン』は大ブレイクしており、中でも一番売れたとされるアルバムのタイトルにもなっている曲『スリラー』は世界中の人々を熱狂させた。
そんな中、ぼくらの学校では『スリラー』を学年全体で踊るという一大プロジェクトが行われた。5年生2学期の体育の授業はほとんどその練習にあてられ、夏休みにはプリントに描かれた絵を見ながらせっせと練習していた。
また、この頃にも例の『虹色の謎の虫』が家の周りを飛び回っていて“夏になるといるやつなんだな”と思ったりもしていた。この学校はこういう運動系の行事にわりと力を入れていたようで、先生たちはだいぶ張り切っていた。
手を横に広げる時には『真横より少し上に出した方が綺麗に見える』とか、片方の足を軸に回転する時には、『軸足に体重を掛けた方が良い』といったコツを教えてもらい、毎回ダンスのクオリティが上がって行くので楽しかった。
今では踊り自体はほとんど忘れてしまったが、ダンスの基本のようなことはこのようにわりと覚えているので、やった甲斐があったのではないかと思っている。
ある練習の時、太田の真似をして手を曲げて前後に突き出す動作を思い切ってやったら、思いのほか二人とも褒められて嬉しかったのをよく覚えている。いざ本番になってみると大したミスもなく学年全体で演技を終えることができ、保護者からの評判も良かったので、いい企画だったという風に認識している。
練習は大変だったけれど、学年全体で一つのことをやり遂げたという達成感は大きく、今でもこのことはいい思い出になっている。
*5年生の学際の話
仲山第一小学校では毎年、クラスで出し物をやることになっていて、クラス内で二手に分かれて出し物をやっている人と、出し物を見に行く人に分かれて行動することになっていた。見に行く時は誰かと一緒に行くのもありなのだが、ぼくは人の意見に振り回されるのが嫌だったので、一人で回ることにした。
そこで何回か出店で出会う子がいて、聞くとその子は同じ学年で長堀(ながほり)という名前の子だった。ぼくと同じ4年生の時に転校して来た子で、すぐに意気投合することができた。
それからは時間いっぱい一緒にいろんな店を回って、学校で発行したオモチャの通貨で店を利用できるのだが、『ポケモンが描かれたアクリルのオマケ』だとか、この日だけ景品として持って来ていいことになっていた『余っているシール』だとかをたくさん手に入れることができてかなり楽しかった。
この日があったお陰で、それからながほりとはクラスは違ったものの、廊下ですれ違う度にわりと話すようになり“もともと全く知らなかった子とこういう形で友達になれたのはすごくいいことだった”と今になっても思う。
*イボの話
小学生の時というのは、まだ体が完成していないということもあってか変な病気にかかりやすいものだが、ぼくもご多分に漏れず、そういうものを患っていた。
5年生の秋ごろ左掌にイボができ、病院に行くとそれをドライアイスのような医療機器で冷却して治すという治療法を施され、後に足にできたものと合わせて3、4ヶ月通院することになった。
恐らくは通っていたスイミングスクールで移されたものだと思われるが、低温やけどのような感じになるのでこれが結構痛く、病院に行くのがかなり苦痛だった。最後は真ん中が芯のようになって抉るとポロっととれ、そこがかさぶたになって完治した。
完治した時にはやっと治ったという安堵よりも“なんでこんな治療法しかないんだ”という憤りの方が大きく、二度とこんなものができてほしくないと願うばかりであった。
*ケイドロの話
小学生の定番の遊びと言えばやはり、おにごっこと言えるだろう。じゃんけんで負けた子がおにになっておいかけ、タッチされたべつの子が代わりにおにになるという基本的なルールは、もはや大半の人が知るところだろう。
おにごっこには他のルールもあって、『高おに』というおにより高い所だとタッチされないが、10秒以内に移動しなければならない遊び、『色おに』というおにが決めた色をさわるとタッチされないが、ほかの子と同じ所はさわれない遊び、『氷おに』というおににタッチされた子はこおってしまうが、ほかの子にふれられると動けるようになる遊び、『影ふみ』というタッチする代わりに影をふむ遊びなどがあった。
ぼくらの地域では『ケイドロ』という遊びが流行っていて、これは警察(けいさつ)と泥棒の2チームに分かれて遊び、警察が鬼の役割で泥棒を逮捕して行くのだが、泥棒が牢屋で捕まっている仲間にタッチすると脱走して逃げることができるというものだった。
最終的に泥棒が全部捕まると終了という遊びなのだが、この遊びにはもう一つ面白いことがあって、それが『いろは歌で組み分けする』という所だった。
みんなで足を出して、「いろはにほへとちりぬ、るをわかよた」と誰かが歌って足をタップして行き、『ぬ』が回って来た子は盗人なので泥棒、『た』が回って来た人は探偵なので警察という具合で振り分けられていた。
探偵がみんな捕まえに行きたいからと牢屋を見張らず、逃げられてから追いかける『泥棒を見て縄をなう』ようなことがあったりもした。ドロケイという地域もあるようだが、基本的にルールは他所の学校でも同じだったようだ。
また、『かごめ歌』を使って囲まれた人の後ろに居た人が次に真ん中に入って囲まれるものや、前述の花いちもんめなど、この他にも歌を使った遊びがあったように思う。いずれにしても曲調や歌詞が覚えやすいものが多く、子供ながらに“よくできてるな”と感心したものだった。
*左利きの話
小学生の頃というのは異質なものにあこがれを抱くもので、金田一少年の事件簿に出てくる主人公のように髪を長くして後ろでしばっている子や、親が昔ヤンキーで髪の毛を茶髪に染めている子など、いろいろな子がいたものだ。
だが、そんな中でもひときわ異彩を放っていたのが、『左利き』の子たちだった。大人になれば改札で引っかかったり、テーブルに着くと隣の人とひじが当たったりと、何かと不便であることを知るのだが、この年頃の子供から見ると得も言われぬ特別感があった。
久保のおばさん、4年の同級生のあさぎ、きたなど何人かは見て来ていたのだが、中でも特に印象に残っているのが、手木くんだ。
てっちゅはなんでも器用にこなせるタイプの子であり、ドッヂボールや野球で右利きの子とは逆方向にカーブをかけたり、バスケで左側からのレイアップができていたりと、その優位性が凄くうらやましかった。
ただミラーになっているだけなのだが、スポーツではその効果は絶大で、野球のジグザグ打線(打席ごとに打者の利き腕が変わる)やサッカーで右サイドでのシュートが撃てることなど、当時から運動大好きなぼくとしては羨望のまなざしを向けざるを得ない特性であった。
トランプを配る時に左手を使ってみたり、ボールを投げる時に無理に左手を使ってみたりしたのだが、10年近く右手で行っているものがそう簡単に変わるはずもなくしばらくすると飽きてしまって、自分の中での矯正キャンペーンはいつの間にか終わってしまっていた。
*メガネをかけている子の話
5年生ともなるともうだいぶ読み書きやゲームをやっている年頃なので、それなりに目が悪い子もいたりした。同じクラスの伊藤くんもそのどちらのせいなのか、出会った時からメガネをかけていた。
運動をやっている時にふっ飛んでしまったり、プールの授業の時に見えにくそうにしていたりと、なにかと不便なようで気の毒な感じではあった。
ぼくはというとスーファミやプレステを自分や他所の家でプレーしてはいたものの、ゲームボーイを始めとする携帯ゲームの禁止、教科書を読む時には目を十分に離すということをしていたため、小学生の間の視力は1.0以上を保てていた。
だが、両親が二人とも近視であるため、いずれはメガネかコンタクトを使うことがくるのかなと考えると、なんだか億劫な心持でもあった。
近眼は遺伝しやすく、現代人はもはや電子媒体を避けて生きることは不可能に近いのだが、せめて高校を卒業するくらいまでは裸眼で生活できるようにしたいところだと思う。
あと、この子の名前はいわゆるメジャーな苗字と言われるもので、さとう、すずき、たかはし、たなか、わたなべ、やまもと、なかむら、こばやしなど日本には100万人を超えるようなものも存在している。
アジアではメジャーな苗字の大半が数種類だけで占められている国もあり、そのことでフルネームで呼ぶことが一般的であったりもするのだが、日本の苗字はなんと30万種類もあるそうだ。1位アメリカの150万種類には及ばないものの、世界的にみてもここまでの多さは珍しいと言えるだろう。
また、珍しい苗字としては、小鳥遊さん、春夏秋冬さん、東西南北さんなど、初見では到底読めそうにないような名前もあるようだ。
いずれにしても個性を司るものなので、名は体を表すということは多いのではないだろうか。
*その一言が面白い!話
5年生で同じクラスになった村田くんは、暗めだがどこか特別なオーラのある子だった。小学生の頃のアダ名というのは本当に安直なもので、みさきくんだからミーミー、むらたくんだからムームーというようにほとんど何も考えずに付けられていた。
何かあるとちょっと奇声を上げてみたり、走りが若干おぼつかない時にこけてしまったりと何の変哲もない普通の小学生なのだが、この子にはある特徴があった。
それは『発言に重みがある』ことで、キラーフレーズというか、何か一言発すると周りがドッと笑うようなそんな独特の感性があった。
そのことで謎の存在感があり、ぼくらの学校では大人しい子でもイジメられたりとかそういうのはなかったのだが、この子はわりと無口で大勢でいるとさほど喋らないのに、みんなから一目おかれているようなところがあった。
ある時、近所の中之町公園で遊んでいると、誰かが駄菓子屋に行こうと言い出し、みんなで移動することになった。するとそこに2Lのペットボトルのジュースがあり、これ一気飲み出来る?と聞かれたムームーが、
「それじゃ息ができなくなっちゃうよ」と言って大きな笑いを取った。
このことで場が凄く盛り上がり、本人も満足そうで、終始おだやかな雰囲気で遊ぶことができた。この出来事で笑いを生み出せるということは、ことコミュニケーションにおいて、それなりに有利に働くと言っていいと思えたのであった。
*夢についての話
妹と話していて気が付いたことなのだが、人は夢によって二種類に分類でき、その分け方とは『カラーかどうか』だ。ぼくは夢が『白黒』なので、当然みんな『白黒』の夢を見ているものだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしくて、なんと妹は『カラー』の夢を見ると言うのだ。
学校で聞いてみると確かに『白黒』と『カラー』両方のタイプが存在し、人によって異なることが分かった。
大人になってからそのことをもう少し考えた時に、恐らく記憶力のいい人は『カラー』の夢を見るという推測に至った。妹はピアノを続けていて、鳥が好きで図鑑を眺めて名前や特徴をよく覚えていた。学校の成績もよく、わりとなんでも覚えようとしたら記憶できるようだった。
対するぼくは考えることは昔から得意だったものの、こともの覚えに関しては大の苦手で、特に新しい言葉を覚えることが嫌いだった。もし今、子供を育てている人がいるなら、男の子ならサッカーとピアノを、女の子なら空手か合気道とピアノを習うことをお勧めする。サッカーは空間認識能力を向上させ、空手は暴漢に襲われそうになった時にその身を守ってくれると考えられる。
水泳を勧める人もいるかとは思うが、泳ぎのスキルは大人になってからは全く役に立たず、水泳歴10年のぼくとしては海かプールで教え、余計な選択肢を増やさないためにも習わせない方がいいと考えている。
また、それに加えて、アジア圏なら英語をアメリカ、ヨーロッパ、アフリカ圏なら中国語を習わせてあげることも併せてお勧めする。もし子供が嫌になってしまっても、半年くらい間隔を空けてから『別の先生』に習うようにしてあげてほしい。
*パンをほっておいたら――の話
小学生あるあるだと思うのだが、給食で出てくるパンを食べきれない時に半分だけ持って帰るという裏技が可能であった。そのパンは持って帰って家で食べるのだが、荷物が多い日にめんどくさくなって持って帰らないことがあった。教室の後ろに3段になっている生徒用の荷物入れがあるのだが、自分のロッカーに袋に入れたまま放置して、そのまま忘れて3ヶ月くらい経ってしまったことがあった。
ロッカーの中で袋を発見した時、中を見るのが怖いのでさらに一週間放置した後、意を決して中を開けてみた。見るとパンが石化していて、これで釘が打てるんじゃないかってくらい固くなっていた。周りの友達に見せたら
「アホやろお前」
と笑われたが、ごみ箱に捨てたら怒られそうなので、家に持って帰ってこっそり捨てることにした。それからはロッカーに余計なものを入れるのはやめようと固く誓い、授業が終わって使っていなかったピアニカや、工作の際に出たちょっとしたゴミを捨てるなど、積極的にロッカー整理にいそしんでいた。
*楽しい川遊びの話
5年生の2学期ごろ、同じクラスのけんちゃんとさとうと一緒によく遊んでいた時期がある。やっていたことは主に3つあって、一つは普通に家におじゃまさせてもらって遊んでいたことである。
当時、爆発的に流行っていた『ポケモン』を、攻略本を見ながらレベルアップさせて技を選んでいるのを見て、賢いなと思って感心していた。ぼくは目が悪くなるからと言われてゲームボーイは買ってもらえず禁止だったので、けんちゃんに
「ええやん、ちょっとくらいやったって平気やって」と言われても、
「いや、ダメって言われてるから」と頑なに拒否していた。
二つ目はけんちゃんの家の近くの川で遊ぶことだった。この『天上川』は、阪急電車の高架下から学校の西側を通ってJR、国道2号線、阪神電車の高架下、国道43号線を通ってずっと南まで伸びて海まで流れ込んでいて、地元民にはお馴染みの川なのであった。
石畳の上を水が流れているような凄く浅い川で、野生のイノシシが可愛く昼寝していたり、子連れで歩きながら我が物顔で闊歩していたりするのであった。ここは川べりの高さが5mほどあり、コンクリートに打ち込まれた梯子を下って行くくらい深いところで、いくつかのトンネルが存在していた。
途中でワッフルのような網目(あみめ)があり、奥までは行けないようになっているのだが、途中までは子供の足でも行くことができていたので、探検と称して散策していた。『鉄砲水』が危ないので雨の日は避け、先へ先へと進んで行くと、暗くて怖くてどこまでも続いていそうで、もう二度と帰って来れないんじゃないかと思うほどであった。
探検の他には、その『天上川』の支流の小さな川でカニを取って遊んだりもしていた。カニは横にしか歩けないというイメージが先行していたのだが、実際に捕まえてみるとそんなこともなく、縦や斜めにも動き回ったのでかなり驚いた覚えがある。
最後の一つはかんちゃんの家でやる『マンション内鬼ごっこ』だった。ほんとはダメなのだが、その頃はまだそういうところが緩かったこともあり、屋内だが走り回りながらやっていた。
鬼になった時にエレベーターの中にしゃがんで入って見えないようにして近づき、エレベーターを待っている子に奇襲を仕掛けてタッチしたり、外にある共用部分のベランダを飛び降りて逃げたりと、なかなか楽しい遊びだった。
今にして思えば、小学生の時にこうやって友達と外で遊んだり、生き物を捕まえたりして遊んだことが、大人になってから貴重な経験として記憶に残っていて、人生を彩ってくれているように思う。
2010年代くらいになると、公園でボールを使ってはダメだとか、大きな声を出してはいけないとか、子供が自由に遊べる環境が少なくなって来てしまっていると思う。
子供が楽しく遊べるような環境を創るためにも、少々のことには目をつむり、昭和のころのような寛容さを取り戻すようになるべきではないだろうか。
*ならはしとの話
5年生の時に楢橋さんという子が居て、その子は明るくて人当たりがよく、みんなに人気の子だった。男子の好意が集中していて、後に開催された同窓会の暴露大会で昔誰が好きだったか言い合った時に数人がこの子を選んで被ったりもしていた。ぼくも御多分に漏れず好きになっており、他愛もないことを話すのが楽しかったりした。
この子とは図工の授業で席が近かったので話すようになり、兄貴と父親が喧嘩になった時に、自分が買ってもらった注射器のオモチャを父親が兄貴の腕に刺して引いたという話を聞いたりしていた。
この子だけが呼んでくれていたあだ名があって、それが岡本なので『おかぽん』というものだった。そのことでちょっとした優越感のようなものがあったのだが、小学生の時のつたなく淡い恋にありがちな話で、特に何もないまま卒業を迎えることになった。
*個性があるということの話
5年生の時に藤川さんという女の子と同じクラスで、習字の授業の時に揉めた話があった。習字では墨を入れる硯に水を入れ、固形墨と呼ばれる墨を固めたものですって墨にするという方法を取っていたのだが、ぼくはその日は墨汁を入れていたのでそれをやる必要はなかった。
だが、ふじかわは何を思ったのかぼくの硯に水を入れてしまい、せっかく作った墨汁が薄められてしまった。ぼくはそのことでかなりムッとして、
「おい、勝手に入れんなよ!」
「いや、自分のとこに入れたで?」
恐らくふじかわはボーっとしていたので、隣の席の自分の硯に入れたようなのだが、全く悪びれず謝りもしなかったので、言い合いになってしまった。
この子はいわゆる優等生と呼ばれるような子で、手の下にティッシュを敷《し》いて手が汚れないようにしたり、率先してできていない子の面倒を見たりと周りや先生からの評判も良かった。
ただ、正しいと思ったら譲らないようなところがあったため、僕とはこんな風にたびたび喧嘩になってしまっていた。
また、クラスには松島と原のような面白い子も居て、この二人はかなり気が合うのか、
「おっさんやん」
「なんでや、美少女やろ!」
といったコンビのような掛け合いができていた。例のならはしとも仲がよくて、この子らがいるといつも教室が、にぎやかしい感じだった。
あと、頭のいい子としては、小島さんという女の子に給食でよく出るコッペパンを口に入れた後に牛乳で流し込むと食べやすいということや、野菜はキャベツやニンジンやなど、それ自体だと不味いと感じるものは、肉と一緒に食べればいいということを教えてもらったりもした。
いずれにしても何の特徴もない子というのは印象に残りにくいもので、人生を送る際には普通などという妄言にまどわされることなく、自らの道というのは何なのかというのを意識しながら進むことが重要であると考えられる。
*自然学校の話 ( 前編 )
5年生の時の一番大きかった体験と言えばやはり『自然学校』になるだろう。これは5泊6日で泊りがけで行く校外学習で、クラスが違う子たちと班を組んで行われるのだが、ぼくは一人も知っている子がいない状態での参加になった。
小学生の時というのは、大して人見知りしないもので、転校初日ほどは緊張せずに臨むことができた。だが、行きのバスの中で最悪なことがあって、それは、家庭科で作った『ナップサック』の中で、お弁当のコロッケが砕け散ってベトベトになってしまっていたことだった。
これは、お弁当箱を紙にしておいて、現地で捨てられるようにしておくという工夫を全員がしていて、箱がもろかったせいだった。今にして思えば“箱をビニールに入れておいてくれればよかったのに“と母に対して思う。
そんなこんなで現地に着くと、オリエンテーションがあり、同行していたカメラマンの野久保さんが紹介された。この人は基本的には優しいのだがちょっと怖い人で、ぼくらがこういう泊りがけの校外学習に行く時にはいつも同行して写真を撮ってくれていた。
夕食まで時間があったので、みんなでトランプをやっていたのだが、ここでは今までやったことがなかったルールを二つ覚えることができた。
一つは『スピード』で、これはまずトランプを『黒と赤』に分け、どちらか片方を手に持ってフィールドに一枚ずつ置く。そして、そのどちらでもいいので、その数字より1つ大きいか小さいカードを手前に5枚カードをストックしておいたものから出すというものだった。
お互いに出せなくなったら新しく山札から1枚めくって再開し、先に山札がなくなった方が勝ちというゲームだった。
もう一つは定番中の定番の『大富豪』で、これは何人でもでき、全員に均等になるようにカードを配ってフィールド中央にカードを出して行き、時計回りにそのカードより大きいカードを出していくというゲームだった。
だが、単純ではなく、13より『1と2が大きく』、『やぎり』という8を出すと強制的に場を終了させられるルールや、『イレブンバック』という11を出すと大小が逆転するルール、『革命』という4枚同じ数字のカードを出すとそこからずっと大小が逆転するルール、『しばり』という2枚目に1枚目と同じマークを出すとそのマークのカードしか出せなくなるルールや、『階段』という最初出す時に3枚以上連続した数字を出すというルールなど様々な要素があった。
そして、このゲームにある妙なリアリティーが、『1位の大富豪』に最下位である『大貧民』から2枚、『2位の富豪』に下から2番目の『貧民』から1枚、最初に配られた中から『最もいいカードを献上する』というものだった。
最下位は関西弁で『ベベ、べった』下から2番目は英語で『ブービー』などと呼ばれていた。なんだか現実を味わっているようで小学生ながら競争社会を意識せざるをえなかったのだが、みんなでワイワイやれて、ぼくはこの遊びが大好きになった。
こちら亀有区公園前派出所の作者である秋本治さんが、何気に大富豪の話を連載したら、そこから不幸の手紙のように読者からルールに関する指摘の手紙がくるようになったそうで、この遊びは地域によって多種多様な決まりがあるので、ゲームを始める前に、よく話し合って『どのルールを適用するか』決めておいた方が、後でもめなくて済むだろう。
*自然学校の話 ( 後編 )
『自然学校』でやった事柄で印象に残っていることは三つある。
一つ目は『あゆのつかみ取り』だ。これはあらかじめ手に入れておいたものを現地にあった水を張ったキャンプ場にあるような広い水道の洗面台に流して、手でつかむというもので、全員がつかまえられるまでやっていた。そして、自分で捕まえたあゆを包丁を使って自分でさばき、最後はくしに刺して焼いて食べるという寸法だった。
これは、子供に『命の大切』さを教えるというものだったと考えられ、実際にさばいてたべてみると、普段は肉や魚に対してどこか他人事のようになりかけていても、『命を頂いている』ということを実感せざるをえなかった。
日本では食事をする前に『頂きます』というのが通例になっているが、これが形骸化してしまわないように、毎回命に『感謝する』ということが大切なんだと思う。
二つ目は『凧あげ』で、『自然学校』に行ったのは秋だったのだが、正月にあげるのが一般的であることから考えると季節外れではあったが実施された。
これは現地にあった体育館の中で作ったオリジナルのものを、近くにあった広場であげたのだった。フェルトペンを使ってカラフルに模様を書き込んだ凧は、すごく愛着がわくもので、完成してあげてみるととても気分がよかった。
そして、ぼくはなぜだかこれに関して素養があったようで、全員の中で1番高い位置まであげることができ、なんだかそのことが誇らしかった。コツとしては『力強く引っ張りながら少しづつ糸を伸ばしていく』ことだった。
三つ目は、『夜に行われた肝試し』で、草が生い茂ったサトウキビ畑のような場所で行われて、その道を班の子たちで歩いてまわるというものだった。ここでは同じ班になった、三村から面白い歌を教えてもらった。
「ジャングルもじゃもじゃ、ジャングルもじゃもじゃ、ヤシの木一本!実が二つ!」
これを、班員に女の子がいるにも関わらず男子でハモりながら歌っていたので、全然怖くなく、その後のキャンプファイヤーの時にも合唱していた。
「「ジャングルもじゃもじゃ、ジャングルもじゃもじゃ、ヤシの木一本!実が二つ!」」
三村からの又聞きなので結局誰が創った歌なのかは不明だが“この短い歌詞でこのインパクトは秀逸やな“と今になっても思う。だが、先生たちもちょっとしびれをきらしたのか、みんなで集まって話を聞いている時に、
「あと、みんな楽しんでるのはいいんやけど、変な歌を歌わないようにね」
とクギをさされてしまった。そこからは歌わないようにしたのだが、20年以上経った今でも、たった1日この時だけしか歌っていないその歌を、なぜだかハッキリと鮮明に思い出すことができる。
それから楽しかった修学旅行を終え、バスで家路についたのだが、ここで三村と喧嘩になってしまい、かなり泣いて帰ることになった。そのことでそれからダミ声になり、そのまま『声変わり』して今の声になった。
*謎の虫の正体の話
4年生の夏ごろから、家の前の坂で見かけるようになった『虹色の謎の虫』。その虫は虹色に光っていてとても綺麗で、バッタのように跳ねるのだが、とても跳躍力があって羽根を使って3メートルほど飛んで行ってしまうのだった。
その虫のことがどうしても気になって、図書館にクラス全体で行った時に昆虫図鑑で探してみた。すると、数冊読んだ中に『ハンミョウ』という名前の虫を発見した。大きさ、色、形からして、あの虫に間違いなく、見つけた時はクラスの喧騒をよそに密かに感動していた。
仲山第一小学校では2週間に一度本を借りて読むということが義務付けられていたのだが、それから図鑑を借りてくるのが好きになり、全部で10巻あるファーブル昆虫記を5年生の間に借りて来て読破するほどであった。
特に珍しい虫に詳しくなったという程ではなかったのだが、カミキリムシやフンコロガシ、アリジゴクのような変わった虫がいるというのが妙に興味をそそり、運動ばかりしていたぼくにとっては本に触れる良い機会になっていたのかもしれない。
*家の中での遊びの話
雨の日や夜になってしまった日など、家で遊ぶと決めた時には外遊びより多少の制限はかかるものの、工夫とアイデア次第では外よりも楽しめるはずだ。
5年生ともなるともう神戸の家にも慣れたもので、廊下の壁に手足を押し当ててスパイダーマンか忍者のように移動したり、ペットボトルを並べてボウリングをやったり、『スリンキー』と呼ばれるバネのオモチャを階段から落としたりしていた。
あと、目覚まし時計ほどの大きさの容器の中に水と輪っかが入っており、ボタンを押すとぷくぷく浮かんでこれまた容器の中にはり付いている棒に引っかかると得点になるというオモチャがあって、なぜだかこれが好きで風呂の中で遊んでいた。
自前の工作としては、わりばしと輪ゴムで鉄砲、牛乳パックで船や戦艦を作ったりして、その出来栄えに一喜一憂したものだった。
だが、これよりも当時ブームだったのが、『紙ヒコーキ合戦』だ。これは単純にソファを盾の様に並べて紙ヒコーキを飛ばし合い、当たったらポイントというものであった。大体はぼくVS母と妹という構図でやっていて、目に刺さると危ないからという理由で先を折ったものを使用していた。
当時あった『ヘソクリでも隠してるんじゃないか』という多さの百科事典を置いておく棚の本と本の間にはさまって笑ったり、上にふんわり投げて頭に当たってこれまた笑ったりと楽しいものだったのだが、父が見たら危ないから止めろと言いそうなので、3人で居る時にこっそりやるようにしていた。
*神戸での遠出の話
小学校高学年の時、両親に妹と共に連れられていろいろな所に連れて行ってもらっていた。特によく行ったのが兵庫県加西市にある『丸山総合公園』だった。車で目的地に向かう途中、弁当や飲み物を買うためにスーパーに立ち寄る時、1個だけオヤツを買っていいという決まりがあり、子供ながらに真剣に選んでいた。
『丸山総合公園』に着いてからは、『逆立ち』が何秒できるかとか、土星の環のような形の『フリスビー』で遊んだりとか、『巨大な滑り台』から滑り降りたりしていた。
その中でも特に熱中していたのが『ローラーブレード』だ。今ではやっている人はあまり見かけなくなっているが、ぼくが小学生であった1990年代には、わりと『ローラーブレード』が流行しており、家の周りで気軽にできないこともあって凄く楽しみにしていた。
使い始めたのが5年生になってからだったということもあり、難なく最初から滑ることができたので、学校の校庭より少し広いくらいの大きさの公園中を走り回っていた。
また、冬には兵庫県三田市にある『フルーツフラワーパーク』に連れて行ってもらっていて、専用の手帳にスタンプを押してもらえるのが嬉しかった。ここはヨーロッパにある城のような雰囲気の建物がいくつかあり、その建物の間に庭やスケートリンクなどがあるという施設だった。
そして、ここで『スケート』をやるのが凄く楽しくて、毎週両親にせがんでは連れて行ってもらっていた。勢いよく滑り過ぎて後頭部を強打したり、転んでひざを強く打ったりしてもめげずに遊んでいた。
ここでは昼に食べるラーメンが格別に美味く、食というのは環境に左右され、暑い時には冷たい物、寒い時には熱い物が良いということを強く認識した場所でもあった。
そしてもう一つ、アニメのキャラクターの形をした『巨大なバルーン』があって、その中で遊んだのをよく覚えている。確か一回300円ほどで入れて、中がトランポリンみたいにボヨンボヨン跳ねる仕様になっていて、妹と二人で遊んでいた。
ぼくの両親は全国転勤に慣れていたこともあってか、大変だったろうにわりと遠くまでぼくたち兄妹を連れて行ってくれていた。そのことで普段できない貴重な経験ができたことに今でも感謝している。
特に母はタンスに足の小指をぶつけて骨折してしまったのに授業参観に来てくれて、ぼくがまゆ毛を動かして見せたので笑っていたり、週末に家族で祝い事があると出血大サービスと言って出前を取ってくれたり、忍たま乱太郎のシールに書いてあった、ヘムヘムと鳴く性格の犬という間違った日本語に憤慨して正してくれたりもした。
極めつけはクリスマスに当時手に入り難かったポケモン青を無理して買って来てくれたりして、その分、嬉しかったりもした。例えどんなに忙しい時でも、きちんとぼくたち兄弟に接してくれた。
2010年代に入り日本は未曽有の少子高齢化社会となってしまっているが、不況の世の中であってもなんとか工夫して自分の子供にも同じことがしてあげられたらいいなと思っている。
プロローグ *友達100人できたかな?の話
ちょっとむずかしい内容なので、分からないところは大人の人に聞いてみてね♪
ぼくはこの小学生の期間で確実に友達100人できただろうし、今会っていない子もいたりはするが、この友達たちと出会えたことで、成長して行けた日々があったように思う。ぼくは当時から、全然人見知りしない性格で、それは今にして思えば、以下の七つのことを心掛けているからだと思う。
もし、今学生だったり社会人だったり、人生に困窮していたりする人がいたら、つたないかもしれないが、コミュニケーションの参考にしてほしいと思う。
まず一つ目は、『相手の嫌がることをしない』ということ。だいたいの場合、嫌われる原因としてはウザい、不快だ、ムカつくなど負の感情を抱かれた時であり、特に連続で人を否定しない方がいいと考えている。過度(かど)にイエスマンになれとまでは言わないが、相手の意見に異を唱える時には最初に一度肯定してからにすべきであり、『相手を立ててあげる』ということを意識すべきである。
二つ目は何か嫌なことがあっても、『可能な限り許してあげる』ということ。人間関係には誤解や衝突がつきものであり、人間は体調や人生の調子が悪いことが多々ある。そんな時にすれ違ってしまったものをそのままにしておくと、いつしか孤独に暮らすはめになってしまう。友達は自分から積極的に誘うようにし、誘われたらなるべく参加する。そういう姿勢が人生を豊かに彩ってくれると思っている。
三つ目は、『頼まれた場合だけその人を助けてあげる』ということ。生きる時間は有限であり、人を助けるということは、自身にとってとても負担になる行為だ。だが、人と人とは支え合って生きており、誰しも自分一人で生きて行くことはできない。
人生は長く、時に険しく苦しい。そんな世界だからこそ、時に温かく寛容に接し、誰かの痛みを和らげてあげることも必要なのではないだろうか。
日本には『情けは人の為ならず』ということわざがあり、これは情けをかけた相手は、いつか自分に恩返しをしてくれるだろうから、なるべく人には親切にしておきなさいという教えだ。ただしこれには注意点があって、恩をあだで返すような不届きな輩もいるにはいるので、そういうやつは今後一切助けなくていいということだ。
三つ子の魂百までというが、人は三歳という若年の頃よりその心根というものは、なかなか変わらず、性根が腐っているやつというのは相手にする価値のない者なのである。映画ペイフォワードのように、一つの親切を受けたら、それを別の3人にしてあげるというようなことが万人にできたらいいのだが、残念ながら、どうしようもないような人間というものは一定数いるようだ。
四つ目は『嫌なことは嫌だと言う』こと。日本を含むアジアの国では特に敬語という年上や立場が上の人間には無条件にこびへつらわないといけないというような間違った考え方が植えつけられているが、人間というのは本来は常に対等であり、他者を隷属化したり、上下関係を強いたりすることがあってはならないはずだ。
違うと思う、信条に反するからやりたくないなど、はっきりとNOを突きつけることで、自分を大切にすることができるはずだ。NOが言いにくいというのはよく分かるが、そういう相手と言うのはもはや仲間でもなんでもなく、思い切って縁を切るということが正解として考えられる場合もある。
人間の時間は本来は一年を通した円環時間であり、現代のような直線的な時間というのは人間の生活に則したものではない。人はその一瞬一瞬をただ一生懸命に生きてきたはずであり、長年一緒にいただとか、家族だからとか、そんなことは本当にどうでもいいことである。
きっかけがあって悪に染まってしまった人などは、もはや自ら立ち直るより他なく、自分の人生を害されないということを念頭において付き合い方を決めるべきである。
五つ目は、『人の話をきちんと聞いてあげる』ということだ。人の心が離れて行く時というのは、もはやこの人とは話し合うことができないと考えた場合であり、それは相手の聞いたことを即座に答えない(結論ファーストができない)ことや、相手の話を遮って最後まで聞かないという時だ。人は誰しも理解され、認められたいと願っているものなのである。
六つ目は、『ありがとうとごめんなさいと、挨拶をしっかり言う』ということだ。
一言の感謝がないから不満を抱き、一言の謝罪|しゃざい》がないから怒りを|招き、一言の挨拶がないから疎遠になる。人間関係とは常に気遣いの連続であり、相手を蔑ろにしないということは、対人スキルの極意であると言える。
ただ、何でも過剰にやることは、過ぎたるは猶及ばざるが如しということであり、かのプーチン大統領も『謝罪するのは一回で十分だ』と述べているように、しつこいと逆に嫌われるから注意が必要だ。過度に気を遣わず、自然体で自分の心に従い、相手を思いやることが大切である。
七つ目は『決して人をバカにしない』ということ。日本では特にこういう頭の悪い人間が多く、人と自分との境界線を引くことができない恥ずかしい大人が多いため、目も当てられないような惨状がある。だが、これを読んだ青少年少女たちは、決して人をバカにするような『情けない大人』にだけはならないようにしてほしい。
大人になるということは『人の痛みがわかるようになる』ということであり、人は誰でも同じ状況になり得るものなのだ。まかり間違って人をバカにしたことのツケは必ずと言っていいほど自分に返ってくる。宇宙の法則は絶対であり、その因果律から逃れることは誰にもできない。人は裁かれ、罪は罰となり、恨みは呪いとなる。
人のために働き、傍を楽にすることができる人間こそが、これからの道徳の時代に必要となってくる。国際社会で活躍し、泣いている人が居たら寄り添ってあげられるような『立派な大人』が増えることを願ってやまない。
ほかのはなし
第二回 https://note.com/aquarius12/n/n485711a96bee
第三回 https://note.com/aquarius12/n/ne72e398ce365
第四回 https://note.com/aquarius12/n/nfc7942dbb99a
第五回 https://note.com/aquarius12/n/n787cc6abd14b