メトロノミック・マン
会えばみんなが「退屈だ」と感じる男、それがメトロノミック・マン。しかし人生において重要なことは一見退屈で地味な姿をしているものだ。
メトロノミック・マンは毎日同じ日課を7歳の頃から続けている。朝は6時半に起き、夜は22時半に寝床につく。腕立て伏せ&腹筋100回とスクワット&背筋100回を月曜日から土曜日まで交互に続け、毎日10km走っている。飲み物は水か日本茶。何か質問されない限り自分からは絶対に口を開かず、他人を無闇に褒めそやしたりしない。そのかわり陰口を叩くこともない。
中学高校と公立街道をひた進み(途中、何度かいじめられたが一度も弱音を吐かなかったし、媚びることもなかった)、大学は自宅から一番近い場所にある国立大学に進学。まるで機械のように淡々と講義を修め、講義終わりには大学から一番近い場所にあるコンビニすなわち学食横で毎日4〜6時間働いた。そうして稼いだお金は使うことなく貯金箱の中に埋蔵されていった。
毎学期必ず30単位を一つも落とすことなく取っていたメトロノミック・マンは大学2年の終わりには卒業に必要な単位をほとんど取り切ってしまっていたので、仕方なく大学の最寄りの資格予備校へ行き、公務員講座を受け始めた。
そこでもやはり講座を一日たりとも怠けなかったメトロノミック・マンはほとんど苦もなく公務員試験をくぐり抜け、大学卒業と同時に自宅から一番近い役所で働き始めた。
役所のマニュアル仕事はメトロノミック・マンの肌にたいそう合っている。書類を見る→自分の権限で処理できるか考える→yesならそのままやっつけ、noなら最寄りの上司に引き渡す。そんなふうに、「if……then〜」の条件プログラムを頭の中で構築することが彼はとても得意だった。もの言わぬメトロノミック・マンの堅実な仕事ぶりは次第に周りの同僚からも頼りにされていった。誰からであろうと質問を受けたら、自分が持てる限りの全ての知恵を相手に簡潔に伝え、嫌味も皮肉も言わない。そんなメトロノミック・マンは、周りで働くほとんどの人間から戸惑いながらも愛された。
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役所で働き始めて10年経った頃、メトロノミック・マンは、ある一冊の本に出会った。それは明治から昭和期にかけて林学者・投資家として活躍した本多静六の『私の財産告白』である。無一文から長い時間をかけて確実に財産を築いていくための知恵が余すところなく記されたこの本では、まず投資のための元手となる「種銭」を作るための手段として「4分の1天引き貯金法」というものが紹介されている。これは毎月入ってくる定期収入の25%と臨時収入100%を入ってくると同時に貯蓄用の口座に入れてしまい、毎月の生活は残りの75%で凌ぐという方法である。本多は米と胡麻塩で腹を満たす生活を送りながらこの方法で種銭を作り、それを元手におよそ100億円規模の資産を築いたという。投資や資産運用にはとんと関心がなかったメトロノミック・マンは、けれど毎月一定額を積み上げ続けるという行為にはどうしてだか興味を持ち、早速それを始めた。
役所でのキャリアが積み重なっていくにつれて、メトロノミック・マンの口座に入ってくるお給料の額が着々と増えていたが、彼は全く色気を出すことなくその25%、それからボーナスの全額を途切れることなく貯め始めた。色恋沙汰にも賭け事にも世界一周にも興味のなかったメトロノミック・マン。彼が唯一面白いと思ったのは、余計なことをしない限り減ることなく積み上がっていく「何か」を、余計なことをせずに淡々と積み上げていく行為そのものだった。普通は手早くやろうとする。人生の時間は限られていることをみんなが知っているからだ。しかしメトロノミック・マンは生まれてから一度も焦るということがなかった。それは彼が通常よりもあらゆる欲求が少ない人間だということも手伝ったのかもしれない。しかし一度目標を見定めたら阿呆のようにある一定方向に向かって焦らず絶やさず進み続けるメトロノミック・マンのやり方はどんな場面でも一定の効果をもたらしてくれるのだった。
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いつの間にか定年間近になっていたメトロノミック・マン。その頃には貯蓄は1億5000万円を超えていた。通帳の数字を見て微笑むメトロノミック・マン。その姿を周りの人間は憐れんだ。「この人は、人生の殆どの楽しみを知らずに生きてきたのだ。たとえお金がたくさんあったとして、そんな人生の何が楽しいだろうか」。そう言って自分達の無資産を慰め合う人たちは、メトロノミック・マンが実のところ貯蓄という行為から、彼らよりもはるかに多くの快楽を享受していることを知らなかった。彼らが恋に溺れ、豪華絢爛な料理に舌鼓を打ち、趣味に情熱を燃やすのと同じような形の喜びを、1億5000万を貯めていく過程でメトロノミック・マンは感じていた。そういう点で、彼は変温動物的だった。
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ついにメトロノミック・マンは定年を迎え、およそ40年間勤めた役所を退職した。退職金は2,500万円。これを全て貯蓄し、メトロノミック・マンの資産は2億円になった。
退職した翌日。メトロノミック・マンは両親亡き後の家でぼうっと寝椅子に座り、宙を見つめていた。傍には通帳が置いてある。最後に記帳された数字は「¥201,093,262」。これからは、この数字が減ることはあっても増えることはないのだ。そこに一抹の寂しさを感じたのだろうか。メトロノミック・マンはタウンページを拾ってくると、赤ペンを片手に求人情報を最初から最後まで隅々までチェックし、目ぼしいところへ片っ端から電話をかけ続けた。メトロノミック・マンは必ず第2の職場を得るだろう。そうしてこれからも貯蓄を続けるだろう。一体彼はどこまで行ってしまうのか。後期高齢者になって病に侵され、高額な治療費が必要になった時に彼は貯蓄を減らすのか。いずれにせよ、もうしばらくはメトロノミック・マンの貯蓄道は続く。
※メトロノミック・マンは著者の創作物であり、実際にはそんな人存在しません。
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