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くたばれCM

 一体いつごろからだろうか、商品の具体的な機能やメリットを出演者がペラペラと語るコマーシャルが増え始めたのは?、と言いつつ私は広告やメディアの専門家でも研究者でもなく、興味もさほどないから実際のところ昔のコマーシャルはどうだったのか、よく知らない。しかし最近放送されるコマーシャルに苛立ちを感じることが多いのは確かである。


 中でも一番怒りを禁じ得ないのは洗剤のコマーシャルで、次点が自動車保険。洗剤のコマーシャルでよく見る、茶色いソース的なものが残ったお皿を2枚並べてみせ、既存の洗剤と新しい洗剤、洗浄力がこんなに違います。あ、さっそくお買い上げありがとうございます嗚呼……というあれ、私が母胎にいた頃からちっとも変わり映えしない。既存の洗剤、というのは一世代二世代前のということではなくて、きっと二十年も三十年も前のレトロなものをずっと使い回しているんじゃないかしらと突然思い至り、こんなことを公の場で暴露したら界面活性剤で爆殺される私と夜中ふと飛び起きるも、追従者数十人のアカウントには杞憂すぎる杞憂也。

 自動車保険のものは、単に役所広司が出ているから嫌いである。役所広司が嫌いなのではなく、私の好きな役所広司を自動車保険ごときの宣伝で使うから嫌いなのである。西川美和監督の『すばらしき世界』での匂い立つような元ヤクザの演技。あれを観た後にソニー損保のコマーシャルを観ると、なんだか映画の中の三上正夫すら泡となって消えてしまいそうで切なくなる。とはいえ、これはあくまで個人的情感の話。

 反面、住宅や自動車のコマーシャルは俳優たちが機能について無駄口を叩かない。それもそのはず、住宅メーカーが売っているのは細かな機能を揃えた建物ではなく、その建物の中で営まれる暮らしである。また自動車メーカーが売っているのも、製品自体ではなく、製品が醸し出すイメージ(コマーシャルの中ではランクルはいつも崖だらけの悪路を走破しているし、レクサスはいつも洗練された夜の街を走っている)である。ただファミリー向けのワゴン車CMは積載量や座席や視界の広さなど、機能についても余念なく触れるものが多い印象がある。それはそれで良いのだが、個人的に罪深いと思うのは美女と美男とガキとパパイヤ鈴木とポップ音楽を大釜にぶっ込んで三日三晩煮詰めたタイプのCMで、「ソ!ソ!ソーリオ! ソ!ソ!ソーリオ!ニュー!」を一日に二度聴くと『暗い日曜日』を聴く以上に死にたくなる。反対に、最近観たダイハツのムーヴ・キャンバスのCMはとても良かった。藤原さくらのカバーした『君は天然色』をBGMに、学校帰りと思しき娘の迎えやサーフィン帰りの女性が乗り込むところを、離れた位置から捉える演出によって暮らしの中に溶け込んでいる製品の姿を映し出す。ソリオは乗りたくならないが、ムーヴは乗りたくなる。そう考えると、あらためてCMは罪深いものだなと思う。作り手たちは明確にターゲットを決めてコマーシャルを作っている。売り上げるためには、ソリオのようなデザインの車を買いそうな人たちを想定して、CMも彼らが好みそうなものに先鋭化させていけばいいのだし、ムーヴについても同じ話で、あれだけ奥ゆかしい演出も実は先鋭化の結果に過ぎない。

 今でも思い出すCMがある。それは確かJT社の缶コーヒー「Roots」のキリマンジャロブレンドのCMで、夜空に浮かぶキリマンジャロの山陰をバックに、キリンやゾウなど草原の動物たちがゆっくりと歩いてる。BGMは口笛バージョンの「Don't Worry, Be Happy」であった。そのCMを初めて観た日は、私は中学の入学試験を受けに福岡に行った帰りで、飛行機の窓から雲海の向こうに沈んでいく太陽を眺めながら、当時はまだその曲名すら知らなかった「Don't Worry, Be Happy」をずっとハミングしていた記憶がある。それからなのかもともとそのような傾向があったのかは分からないが、私は山や動物が好きになり、代わりに人間に対してはずいぶん控えめに接するようになった。至近距離から人が踊っている様子を映すソリオのCMを嫌い、遠くから景色と乗り手と渾然一体となった様子を映すムーヴのCMが好きになる私の嗜好も、やっぱり昔観たCMに強い影響を受けている。


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