うつろ姫
この世に生を受けた人間であれば、うつろ姫という名を知らぬ者は一人としておるまい。
その名を聞けば、世界のありとあらゆる男達はどうにかしてこの女を妻にしたいと思い惑う。うつろ姫が住んでいるという噂が広まるや否や、たちまちその屋敷の周りには瞳を怪しく光らせた狼共が行列をなし、求婚や見合いの手紙を送りつける者は引きもきらない。中には屋敷の者たちに近づき、何とかして思いを伝えてもらおうと画策する者も大勢いたが、相手にはされなかった。
そのうち、あれほどの熱情を傾けていた者たちも、積み重なる歳月の重みに現実を見たのか、それとも自慰行為や風俗通いで性欲を満たす日々の虚しさに耐えきれなくなったのか、手頃で面白みのない女たちを嫁にもらい、うつろ姫の屋敷を取り囲んでいた有象無象は一人、また一人と減っていった。
その中で、諦める事なく求婚を続けていたのは、世間でも「ただのヤリチン」、「暇人」、「親ガチャの勝者」、「理屈っぽい」などと名の通った五人の男たちで、彼らは夜も昼もなく、何年間もうつろ姫の邸宅に通い続けたので、その涙ぐましい努力に心を打たれた姫の翁の計らいによって、遂に姫の前で自らの想いを伝えることが許された。
見合い当日、姫の屋敷に男たちが集った。彼らは、姫の母親によって屋敷でもとりわけ大きな部屋に通され、優美な模様のすだれで仕切られた最上座に鎮座しているうつろ姫と向かい合うようにして横並びに正座した。
家人達が部屋の外へ引っ込み、襖が締め切られると、姫が口を開いた。
「今日お集まり下さったのは、私に言い寄ってきた十億をゆうに超える数の男たちの中でも、とりわけ強い情熱を持ち、辛抱強くこの屋敷に通って下さった方々です。私ごときのために、何年もの星霜を費やし、あまつさえ今日のようにご訪問下さったこと、まこと感謝に絶えませぬ。本心を言えば、あなた方全員に私の人生を捧げて差し上げたいものですが、まこと無念なことに、私の体も心も、たった一つきりのもの。月から金の五日に分けて各々の許に通うとて、あまりの背徳に私の心はいずれ跡形もなく砕け散ってしまうことでしょう。そこで、五人の中で私の見たいと思っている物を見せてくださる方があれば、その方の愛こそが本物だったのだと心得ることにして、お仕え申し上げようと考えているのです」
姫の言葉を聞くと、五人の男たちの顔にはそれぞれ高揚と不安の入り混じった表情が浮かんだ。姫は立ち上がると、すだれを手で押し上げ、五人の前にその姿を現した。その美貌に、男達からは思わず吐息が漏れ出た。姫は、男達を見回すと、また次のように語り始めた。
「私たちが夜ごと仰ぎ見る月。その地表には、無数の隕石が衝突した大小の穴がいくつも空いていますね。隕石の中には、千万に一つの確率で、『ソリオライト』という珍しい鉱石が含まれていると、著名な博物学者に教えて頂いたことがあります。月の地表には、他の惑星にはない特別な成分が含まれており、ソリオライトを含んだ隕石が月の地表にぶつかった時の高熱で両者が化学的な融合を果たし、持つ者に不老不死の力を授けるという月光玉になるそうです。その幻の石こそが、私が貴方たちに探し出してもらいたいという物なのです」
うつろ姫の途方もない話を聞き、それまで夢心地の様子だった男達は一転、取り乱した。
「そんなの無理に決まっているじゃないですか!」
と、結婚詐欺師が泣きそうな声で言った。
「うつろ姫ともあろう方が、そんな与太話を本気で信じているのですか!」
と、三十五歳職歴なしの男が半泣きで叫んだ。
「うっ……あんまりだ……一体何年かけて貴女の屋敷に通ったと思っているんだ……」と、著名な政治家の息子が泣き崩れた。
司法浪人の青年は失禁しながら泡を噴いて失神し、屋敷の家来達に運ばれていった。
こうしてうつろ姫の屋敷に勇み足で集まってきた男達のうち、四人が去って行くのを満足げに眺めていたうつろ姫は、たった一人残った線の細い、長髪の青年に目を向けた。うつろ姫の荒唐無稽な話を聞いても、唯一人表情を崩さなかった男である。
「……貴方は、どうなさいますか?」
長髪の青年は、うつろ姫を正面から見つめ返した。その瞳のただごとならぬ様子に、うつろ姫は内心ひやっとした。
「貴方こそが、私の望みの物を探し出しに行ってくれる勇敢な御方なのでしょうか?」
うつろ姫の問いに、長髪の青年は頷くと、初めて口を開いた。
「いかにも。貴女様を生涯お守りする資格があるのは、私以外に考えられますまい。申し遅れましたが、私、名をキハノと申します。先祖は代々毛利家に仕えてきた由緒正しき武士の家系でございまして、忠義を重んじ、命を賭して主君をお守りする義理堅さと、絶体絶命の状況にあっても決して怯まぬ胆力がこの私にも脈々と受け継がれております」
と、口上をつらつらと述べたかと思うと、キハノと名乗ったこの青年は、突如うつろ姫の真っ白な手を取り、その顔をひしと見据え、
「このキハノ、全生命を賭けてお望みの物を見つけ出し、必ずや貴女様の許に帰還して参ります」と言った。
うつろ姫は、青年の突然の変貌饒舌ぶりにあからさまに戸惑いながら、それでも柔和な笑顔を取り繕って、キハノの手を握り返した。
「ええ。きっと、約束よ」
ところで、このキハノという輩、実のところ武士の家系でも中国の生まれでもなんでもない。それどころか、彼には親もなく、稚児の時分から尾張の片田舎にある孤児院で育てられたのである。国に届けられている名義も、花子太郎という、ありきたり過ぎて逆に珍しい名前で、キハノという呼び名を、一体どこから持ってきたのか見当もつかない。
この青年は、十八歳で孤児院を出た後、下水清掃人をやって日銭を稼いでいたが、二十四歳の時、強烈な癲癇を起こして以来、精神病院に収容されていた。彼は独房のような病室で古今東西の書物を読み漁るうち、ある日からほとんど回復の見込みのない誇大妄想を抱くようになった。その妄想は堅固で、医者でも魔術師でも治癒することはできない。青年は、自分のことを、世界を自在に書き換えることのできる超人だと思い込んでいたのである。英雄や超人には、手始めにその広大な器量に見合う伴侶が必要である。そこで、絶世の美人だと絶えず風の噂の聞こえてくるうつろ姫を自分の花嫁としてもらおうと思い立ち、精神病院を脱走してここへやってきたというわけであった。
うつろ姫と対面した頃には、この青年の全能的妄想は、すでに揺るがしようのないほど強固なものとなっていたから、姫の言う「月光玉」とやらも、正しい方向に努力を積めばきっと見つけ出すことができるだろうと思っていた。
月光玉を得るには、月に行かなければならない。月に行くためには、宇宙飛行士にならなければならない。宇宙飛行士になるためには、名門の大学で理系学問を優秀な成績で修め、孤独な宇宙空間であらゆる作業を冷静に粛々と、効率よく行うための精神力と強靭な肉体を得なければならない。
そこで、翌日からキハノは小さな荷物一つを持って高尾山へ赴き、一日二十三時間、滝行と筋力トレーニングと大学受験勉強を並行して行いはじめた。これは、滝行の後に筋力トレーニング、その次に勉強という悠長なことではなく、キハノはこの三つを文字通り同時に行ったのである。すなわち、滝にあたりながら、腕立て伏せ(日に一万回)、腹筋(日に一万回)、スクワット(日に一万回)を行い、腕を屈曲させて頭が地面に近づいた瞬間に英単語を一つ覚える、腹筋で頭を起こした後、戻すまでの数秒間で数学を一問解くという風に、滝が岩にぶち当たる壮大な音を通奏低音に、肉体的鍛錬と試験勉強の有機的なハーモニーを生かしたこの勉強は熾烈を極めた。幾度かの心肺停止を経ながら、それでもキハノはこの苦行を一年間やり遂げ、遂に一流大学の宇宙工学科に合格した。大学の学費は、日本全国の高級住宅地にある全ての家々を練り歩き、頭が地面にめり込むほど土下座して寄付を募ることで得た。そうしてやっとこさ入った大学でも、キハノは常に講義室の最前列真ん中で二百五十キロのダンベルを振り回しながら、教授の話す内容を数秒後に大声で復唱するという猛烈な勉強で首席をもぎ取った。
三十年後、月から地球へと戻る宇宙船を操縦するキハノの腕の中には、眩い白光を放つ、真珠を一回りも二回りも大きくしたような宝玉が握られていた。
地球に降り立ったキハノは、大勢詰めかけていた報道記者や女性ファン達をちぎっては投げ、ちぎっては投げしながら、真っ直ぐにうつろ姫の屋敷へ向かった。
しかし、屋敷にはもううつろ姫はいなかった。屋敷の大家に消息を尋ねると、うつろ姫は、十数年前に翁と嫗を病で相次いで失ってから、とある大富豪と結婚して芦屋に移り住んだものの、一年も経たずに捨てられ、今は板橋区の場末のスナックで雇われママをしながら、さもしい暮らしを送っているとのことであった。
早速、キハノは大家に教えられた住所を訪ねてみた。うつろ姫の家は、賑やかな大通りから狭い路地をずんずんと進んで行った先にあるスナックの二階にあった。うつろ姫は、自分の勤める店の二階に間借りしているのであった。
キハノは所々錆びや剥がれが目立つ鉄階段を上り、木造のドアをコンコンとノックした。
内側から「はあい。どうぞ」という声が聞こえた。その声は、野太く、かすれており、あのうつろ姫の声だとは到底思えなかった。
中に入ると、コンビニ弁当や飲みかけのペットボトル容器、そして無数のゴミ袋が散乱し、すえた臭いの充満する狭い四畳半の万年床に、すっかり老いたうつろ姫が横になっていた。
うつろ姫は明らかに重病の様子で、骨と皮だけになっていた。しかし、部屋に入ってきたキハノを見た瞬間、その死んだような眼は驚愕の色と共に見開かれた。
「あんた……あんた、覚えているよ。まさか……でもそんなはずは」
キハノはうつろ姫の枕元に膝をつくと、ポケットから取り出した月光玉を握らせた。
「姫。少しお待たせしましたが、約束通りに、月へ行ってコレを手に入れて参りました」
うつろ姫は、月光玉をまじまじと見つめた後、キハノの顔に視線を戻した。その顔は、やはり驚愕の色を湛えている。それもそのはず、キハノの容姿は、三十年前にうつろ姫と初めて会った日から、鋼のような筋肉を新しく身に纏っている以外はシワ一つ、シミ一つ、白髪一本増えていないのだった。
「あんた……なぜ……なぜ、歳をとっていない」
こう問われたキハノは、うつろ姫のか細い灰色の腕をさすりながら、
「私が老いないのは、恋の魔力のせいなのです」と返した。
「人間とは、何かに真心で焦がれているうちは、永遠に歳を取らないでいられるのです。それを私に教えてくれたのは、他でもない貴女様でした。でも……」
と、キハノはそこで言葉を切り、うつろ姫の変わり果てた姿をじっと眺め、悲しそうな顔で、
「でも、貴女様はそうではなかったようですね」と呟いた。
うつろ姫は、キハノの言葉を聞くと、力なく笑ったが、もはや笑い声を立てるほどの余力も持っていないようだった。
「初めて見た時から、あんたは筋金入りの狂人だとは思っていたけど、まさかここまでとはね……」
そこで言葉を切り、激しく咳き込んだ後、うつろ姫は布団の中から左腕を出して、キハノの毛穴一つない顔を手の甲で撫でた。
「いいよ。約束通り、最後の瞬間ぐらいは一緒にいてあげる」
それから数時間後、うつろ姫はキハノに見守られながら、眠るように息を引き取った。その手には、この世の夢を全て凝縮したような輝きの月光玉が残された。
息を引き取る寸前、うつろ姫は月光玉を手のひらで転がしながら、か細い声でキハノの耳元に囁いた。
「本当に存在するなんて、微塵も思っていなかったよ。だって、これは元々あんたみたいなしつこい男たちを諦めさせるために、あたしが想像でこしらえた幻だったのだからね」
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