日本初の水中出産はこう始まった(1)

思えば、29年前(この文章は2013年6月にアメブロに投稿、今なら36年前になりますね。)
自分が思い描いた出産を当たり前にできると思っていたら、
当時の日本では、どこも前例もなく、受け入れ先も理解も情報も殆ど無い状況でした。

でも、不思議と、
大丈夫、
望んだようなお産になると確信もありました。

もう、8ヶ月になろうとしているのに、お産に関わる専門職がまだ決まらなかったけれど。
(定期健診には病院にかかっていましたが)

そんな中、
当時、助産院ではベテランで名も通っている助産師の方が、
引き受けてくださると、知人を介してご紹介いただきました。

それは素晴らしい助産師さんで
とりあえず、フランクに診察の前に皆で食事をしましょうと言うことになりご飯をたべることになりました。

その時に、その方は、フランスのピティビエの病院まで見学に行かれて、
オダン先生も知っていると話されて、大変頼もしくもありました。


しかしながら、

自分のお産のイメージがすでに決まっていた私は、
反面、困ったとも思いました。

それはなぜかというと、主導権が助産師にあり、言う通りにするとうまくいくという感じ(ベテランの助産師さんのお産は割と多いです)のお産は自分とは違うと感じていたのです。

自宅に帰ってからも、
しばらく、悶々と考える日々が続きました。
かと言って、
せっかくの紹介と快く引き受けてくださった行為を断ることもできずにいたんです。
初産ですからね。

すると、
向こうから、助産師さんの体調が良くないので責任を持てないのでと、お断りがありました。
(多分、助産師の方はベテランなので私のお腹の大きさと身長とを見て半分心配もあったのでしょうけど、真意は定かではありません。しかし、私は自分の母の身長と、子どもを産んだ時の体重と頭位を聞いていたので、そして母の身長もわかっていたので経膣分娩ができない心配はなかったのです。)

それまで、
おそるおそる、あちこちに電話したり聴いたりして自分でも探していたけれどもなかなか見つからず、やっと見つかった状態でしたが、
何故か、ほっとしたのを覚えています。

そこで振出しに戻ったのですが、
きっと出来るところは見つかると信じていました。

フランスやイギリスにいけばできるけど、あるいはゲリラ的に自宅でというのもありでも、
それはしないと決めていました。

なぜならば、
こんな思いをしている人は他にもいるのだから、
特別なこととしてこのお産をすべきではないと思っていました。

それと、安全に対して、不確実な状態をきっちり潰しておくことが(仕事がコンピュターのシステムエンジニア【SE】でしたのでコンピュータのバグは潰すという考えとリスクマネジメントの考えはありました。)、これから同じお産を望む人の道しるべにもなるし、
なにより、医療者も含めて、キワモノ扱いになることは避けたかったからでもあります。

たまたま、運が良くとか、
お金があれば(お金はあるわけではななかったですが)出来るというお産にはしたくなかったのです。

さて、それから
また、引き受けてくださるところを探すのですが、
またもや、ご紹介により、今度は個人の産婦人科の医院で可能性がありということで、
お尋ねしました。

何度か話し合いをして、

自分のバースプラン(日本で最初にバースプランを書面でチャートで作ってだしたのは私です。このバースプランの考えが、徐々に広まって今当たり前のようになっていることを嬉しく思います。バースプランをチャートでつくることを思いついたのは、仕事でSEをやっていたので、当時の仕様書などの作り方をお産のに応用したのです。これはその後のワークショップで多くの方に使ってもらえるようになり、たいへん役に立ちました。)を元に、
綿密な話し合いをすることになりました。


疑問点を、フランスのミシェル・オダン先生にも問い合せたりと安全に望みどおりのお産に向けて準備は進んでいきました。

フルマラソンに匹敵するというお産に耐えれるように、
マタニティースィミングも週2回、1時間に約700m~1Km泳ぎ、
食事と日常の生活や散歩などに気を配って体づくりをしていましたので、
あとは、本番をまつ待つのみでした。


日本初の水中出産(2)に続く

‐‐‐‐あちこちに記録しているものを自分の整理もかねて誰かのお役に立てれば幸いです。

いろいろ順不同で、過去の記録や、今の考えなども気ままに毎日UPしていきます。-------------------

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