児童虐待問題のひとつの柱~届いた感想から改めて思ったこと~
寄贈分の発送も少しずつ行っており、現在のところ、計77冊の発送を終えることができました。当初の設定していた「まずは全国に100冊配布」という目標まであと23冊。クラウドファンディングの金額が増えたことで、これに20冊プラスした合計120冊を送付する予定ですが、最近、本をお届けした方から、色々と感想などもいただいているので、今日はその辺りのことについて振り返ってみたいと思います。
ある方からは「私は逆にこのお母さんの方が心配になってしまう」という感想をいただきました。「このお母さん、家に帰った後、大丈夫だったのかしら。夫に暴力とか受けていたのかとか、色々考えてしまった」と。
言われた瞬間は、「えっ、そっち?」と思った私ですが、よくよく考えれば「なるほど」と妙に納得させられました。確かに母自身も辛かったことは間違いないと思うし、母親の側に感情移入して見る人も確かにいるのだろうな、と。
子どもの側の立場に立って読んでくださった方からは、「ヒヤヒヤしながら読み進めたけれど、本当に助かって良かった」、「改めて、命の繋がりって色々な奇跡の上に成り立っているのだと実感した」等。
また、子育て支援に携わっている方は「こういう風にどちら側へも転がれる気持ちの揺れは、子育て中の母に多くあるように思う」とおっしゃっていました。
こうやって、どの視点で見るかによって、見えるものも変わってくるところにこの物語の真実があるのかな、と改めて感じている次第です。
親の目線と子の目線。それぞれの交錯するところに色々な物語がある。それがきっと現実なんだろうと思います。
でも、これだけは間違いないと確信を持って言えるのが「たとえどんなに辛かったとしても、子どもに手をかけてもいい、ということにはならない」ということ。「こどもはかわいそうだったけれど、親がこんなに追い詰められていたんだから仕方ないよね」というのは違う、ということ。なぜなら、こどもは親の所有物ではなく、こどもにもこどもの意思や気持ちがあるからです。
先日、俳優の高知東生さんが親子心中の報道に関し、自身のXにて、「立派な殺人」「だったら子供を捨てた方がいい」との私見を述べていて、心から同感、と思いました。
母親が自死したという高知さん。「捨てられたと思った」、「それでも生きていて良かったと思ってる」、「死んだら道なんてない」、「だったら子供を捨てた方がいい」と。
私も「もし、母がひとりで自殺していたら」ということは何度か考えました。きっと、それはそれで辛かっただろうし、傷を抱えて生きることになったかもしれない。でも、じゃあ、一緒に死ねた方が良かったか、と聞かれたら、そこはいつも「いや、絶対、生きられた方が良かった」という結論に達していました。
なぜならば……。母の気持ち=私の気持ちではなく、そこに「私の意志」は何ひとつなかったから。
傷を負った私がどう生きていくかも私次第だし、それは私自身の意思や感情によって決まっていくこと。でも私の意思に反して命を絶たれてしまっていたら、私自身がそうやって悩んだり、考えたりする権利すら一方的に奪われてしまうということで、これはやはり親のエゴでしかないよな、としみじみ思ったからです。
こどもは親の所有物ではない。これは児童虐待問題全般に通ずる、ひとつの柱だと私は思っています。この考え方が世の中に浸透していくことを、心から願っています。
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