実母の死と非常識な毒義父母
ピアノレッスンを終えて、子ども①を保育園に迎えに行こうと思っていたところに父から着信。
「母さんが病棟で倒れた。
病院に向かってるから、お前もすぐに向かえ!」
「エッ?
ちょっと、どういうこと?」
「とりあえず病院に向かってくれ!」
父は慌てていた。
【母さん、家に帰ってくるはずでしょ!むこうへ行くには早すぎだよ】と思いながら
「子どもを保育園に迎えに行ってから、すぐに病院へ向かう!」
と答えて電話を切った。
保育園に迎えに行くと、園長先生がすぐに帰れるように準備してくださっていた。
「落ち着いて病院に向かうのよ!」
と送り出された。
子ども①は、2歳7か月だから深刻な状態ということを理解できず。
でもいつもと違う方向に車が向かっていることに気が付いたようで、騒いでいた。
病棟へ着くと、ナースセンター横の部屋に移動していた。
父は思い詰めたような表情で、母の横に立ち尽くしていた。
母はうわごとのように「痛い」と繰り返していた。
私が到着して30分くらいして妹も到着して、母を見て泣き崩れた。
少しして主治医が部屋に入ってきて、
「ご家族が揃ったので経過をご説明します。」
と話し始めた。
母はデイルームへお茶を取りに行った帰りに、廊下で苦しいと言って倒れたそうだ。
検査の結果、血栓が肺あり、それが原因とのこと。
このまま看取りの方針になるので、出来るだけ苦痛を和らげてあげたい。
そのためにはモルヒネを使用するので、意識は戻らないままになること。
モルヒネ使用については、家族で話し合って今晩中に決めてほしいと伝えられた。
私と父はモルヒネ使用について賛成だが、妹は回復するかもしれないから悩むと言って泣いた。
子ども①は、無邪気に『バァバァ、起きて~』とニコニコしている。
父が妹をエレベーターホールに連れ出し、説得してくれて、モルヒネを使ってほしいと主治医に伝えた。
投与が始まると、母は穏やかな表情で寝息をたて始めた。
主治医から、会わせたい人がいるなら連絡してあげてほしいと言われ、翌日、母の友人や毒義父母に連絡した。
危篤の2週間、いろんな人が会いに来てくれた。
母は56歳と病棟のがん患者の中で若い方に入るらしく、心臓が思いのほか元気だった。
父はその日から簡易ベッドを借りて付き添った。
父がお風呂等で一旦帰宅する時は、私が付き添った。
危篤でも耳は聴こえていると言うので、いろいろ一方的に喋り続けた。
「ねぇ、母さんは女の子の孫が欲しかったんだよね。
抱っこさせてあげられなくてごめんね。
もし可能なら、私の娘になって生まれ変わって来てよ!」
たまに意識がないと言われていても、手の指の先が動いて、私の話に反応しているような気がした。
病棟で倒れて14日目の午前、主治医から尿量が減ってきているから、今日かもしれないと告げられた。
私はどうしても短大へ行かなくてはいけなかったので、
「母さん、私が短大から戻ってくるまで、頑張っててよ!」
と声をかけて出掛けた。
夕方、病院に戻ると毒義父母も来ていた。
しかし食道がんを患っていた毒義父は、病室に入らず。
毒義母は、なぜかずっと居て、邪魔としか思えなかった。
そして20時過ぎ、とうとうお別れの時がやってきた。
母が深呼吸のように大きく息を吐いたと思ったら、モニターの波形がフラットになり、家族のみの病室に緊張が走った。
急いでナースコールをしたら、看護師と主治医が走って来てくれて、確認してくれた。
主治医が「8月●日午後●時●分、御臨終です」と頭を下げた。
子ども①は、私に抱っこされて、まだほんのり温かい母の頬を触りながら
「バァバァ、起きて~!遊んで~!」
と声をかけてた。
父と妹と私は「お疲れさまでした」と声をかけた。
なぜかずっと居座っていた毒義母も、母の最後に立会っていた。
そして騒動の中、静かに帰ればいいものを
「大変そうだから、子ども①を連れて帰ってもいいわよ」
とか言い出す始末。
父が
「子ども①が一緒に居たいようなので、
預かっていただかなくて結構です!」
と言ってくれて、やっと帰っていただいた。
これは2005年7月末~8月初旬のエピソード。
在宅酸素の手続きをして退院できると喜んでいたのに、急変してしまい、そのままでした。
母の通夜にはイケちゃんも来てくれました。
会社の先輩の義母だからという理由で来てくれたと思っていましたが、私を心配して来てくれたのだと後から教えてもらいました。
そして毒義父母は、やはり常識が欠けまくっていて、私の親戚達が嫌がっていました。
通夜振舞いも精進落としでも、毒義父は酒を呑みまくって、大声で佳哉の話をした挙げ句、親戚達に絡みまくっていました。
そして車では来ていないと言っていたはずなのに、飲酒運転して帰っていたというので驚きです。
父が呆れていたのは、言うまでもありません。