見出し画像

結婚そして出産

実母が大阪から帰ってきて、バタバタで両家の顔合わせや、入籍、家族親族のみの結婚式と食事会、そして安定期に入ってから友だち関係の結婚披露パーティーと怒涛の如く行事(?)を熟していった。
私は総合病院の循環器科と産婦人科が組んで経過観察していただいた。
24歳の妊産婦ということで、医師や助産師さんから
「若いからって無理しちゃダメよ」
と、何度も言われた。
私は無理してるつもりはないけど、傍から見たら無茶しまくりだったらしい。
出産したら、ディ●ニー●ンドは我慢しなきゃいけないからと言って、隙間時間を探しては毎月のようにインパしていた。
その頃は年間パスポートを持っていたし、行かなきゃ勿体無かったしね。

ちなみに赤ちゃんの予定日は、2003年1月1日。
実は義父と同じ元旦生まれにはしたくなくて、絶対に2002年中に出産すると意気込んでいた。
佳哉は、2002年中に産まれた方が、税金等が優遇されるからという理由で、2002年内に産まれて欲しいと言っていた。

2002年12月に入り、お腹もかなり大きいのに総合病院まで自分で運転して通っていたら、助産師さんにメッチャ叱られた。
どうしても産婦人科の診察日と、佳哉の仕事の休みが合わず仕方なかった。
実母もちょっとは心配してくれたが、さすがに元看護師だからなのか
「妊娠って病気じゃないからねぇ~
 稀琳は運転好きだし、その方が精神的にもいいでしょ?!」

なんてことを言っていたくらい。
とりあえず、予定日までまだまだだし~なんて、思っていた私。
実は、思い出すと出産の1週間前もディ●ニー●ンドに行ってたっけ。

そして、その日は突然やってきた!
佳哉の仕事が休みだったので、昼前までのんびりしていた。
お腹が空いたからと言って、近所のお弁当屋に昼食を買いに行き、帰りに下腹部が規則的に痛いことに気が付いた。
お腹を触ると、痛い時にメッチャ硬くなっている。
とりあえず帰宅して、お風呂にお湯を溜めをながらお弁当を食べる。
この時も10~13分おきに規則的に痛くなる。
「これって陣痛かもしれない」
佳哉はビックリして慌てながら
「病院に連絡しなきゃね。
 入院準備は大丈夫だったもんね?」

やはり頼りにならない、新米父ちゃん。
というか、子どもが生まれる前に散髪に行って、白髪を染めろって言ってたのに、伸びきって真っ白なまんまじゃないか?!
私は、いろいろ指示を出してから入浴して準備をした。
総合病院に15時前に電話したら、とりあえず来院してと言われたので、佳哉の運転で向かった。
行く途中で偶然、仕事復帰した母が退勤するところに遭遇し、
「陣痛かもしれないから病院に行ってくる!」
と伝えた。
(母は、葬儀屋の雑用のパートに行ってた)

総合病院に到着すると、主治医が待っていた。
内診の結果、子宮口はまだまだだけど、心臓のこともあるから入院しちゃおう!とのことで、病棟へ案内された。
病棟へ着くと、助産師さんに
「お母様は、準備が終わるまでこちらでお待ちください」
と言われて、【ん?私?】と思っていたら、助産師さんに
「あなたはこっちで準備よ!」
と、陣痛室へ連れて行かれた。
【お母様って誰?】って不思議に思いつつ、着替えや点滴確保、室内の説明が終わったところで佳哉が連れてこられた。
助産師さんが苦笑いで
「旦那さんだったのね~
 ゴメンね~、義理のお母さんかと思っちゃったわ~」

とのこと。
ほら、散髪してなくて山姥みないな状態だから、オバサンに間違えられるんだよ・・・
そして陣痛は、入院した途端に消えてしまい、“前駆陣痛”だったらしい。
その晩は、点滴につながれたまま過ごした。
ただ、翌朝から子宮口を開く処置と、陣痛促進剤を開始すると予告された。

これは、2002年5月~12月のエピソード。
次回は出産当日のことを書きたいと思います。
それにしても、山姥は今も変わらず。
子どもたちが幼い時は、白髪染めをしていましたが、子ども③が小学生になってからは白髪染めをしなくなりました。
そのため子どもたちが、学校行事に来ることを極端に嫌がるようになったと同時に、コロナウィルスのせいで、佳哉は行事に一切参加しなくなりました。

いいなと思ったら応援しよう!