出産 ~子ども①~
夜中に点滴のルートに逆血していて、ちょっとした騒動で眠れずに朝を向かえた。
主治医は女性なのだが、
「私、出産経験が無いからさ、
どんな痛みかわからないんだよね~
でも、子宮口が開くときはツライみたいね。
陣痛はそれ以上らしいから、頑張ってね~」
と、子宮口を開く処置をしながら笑顔で脅してくる。
その後、点滴から促進剤投与も始まり、前日以上の痛みに襲われ大騒ぎな私。
処置が始まる前に佳哉が陣痛室に来てくれたが、何も役に立たない。
昼食にカレーライスが配膳されたが、痛みと空腹で吐き気がするほど。
助産師さんから、勿体ないからダンナさんが食べちゃって!と言われ、佳哉は黙々と食べていた。
15時頃に、空気の読めない義父母登場!
陣痛室には妊産婦の夫または実母しか入れないというのに、稀琳ちゃんに会わせなさい!と騒いだらしい。
【イヤイヤ、私は痛みと闘ってるんだから、お前たちには会いたくないんじゃー】
と叫びたかった。
挙げ句、カレーの匂いすら気持ち悪いというのに、唐揚げ弁当なんかを差し入れしやがって、陣痛室が油の匂いが充満して吐き気が増強した。
夕方になり、実母登場!
さすが私の母だけあって、食べられないだろうから水分だけでも…と言って、スポーツドリンクを差し入れてくれた。
他にも常温で置いていても大丈夫なサンドイッチとおにぎりも入っていた。
私に会えないのは理解していたので、陣痛室前の廊下から
「もう少しで会えるから、頑張ってね!」
と少し大きな声だったけど励ましてくれた。
(帰る時に助産師さんに注意されたらしいけど)
そして佳哉に言って、吐き気の元の唐揚げ弁当を持って帰ってもらった。
夕飯も配膳されたが食べれず、やはり佳哉が「美味しいよ!」と言いながら食べていた。
体力の限界かなぁと、意識が朦朧とし始めた21時前。
子宮口が全開大となり、陣痛の合間に廊下を挟んで前にある分娩室に裸足で小走りで移動。
分娩室は立ち会い不可のため、佳哉は廊下で待つことになった。
ここからは痛みも最高潮で苦しかったけど、アドレナリンがドバドバで、テンションがおかしな人状態。
そして22時過ぎにやっと誕生!
予想より大きな男の子が産まれてきた。
佳哉は産後40分の我が子を慣れない手つきで、5分ほど抱っこさせてもらったらしい。
日付が変わるまで分娩室で親子2人で過ごし、その後、子どもは新生児室へ、私は病室へ。
残念なことに病室は海が見えない方の病棟だった。
翌朝、ふくらはぎが激痛で起床。
可能なら新生児室へ来るように言われたが、痛すぎて、今度は歩くのがツライ。
普通は、産後に痛いにはオシモだと言うけど、私は円座も必要ないほど。
それよりもふくらはぎが真っ青で、所々線状に色が変わっていた。
助産師さんに伝えると
「陣痛の痛みで暴れてたからね~
覚えてない?
ベッド柵に両足かけて、バタバタやってたじゃないの!」
確かに、両側のベッド柵に足をかけて、オマタを開いて暴れてた気がする・・・
入院生活は、授乳と足の痛みで大変だった。
それ以上に毒義両親が面会に来て、“三つ目のぼた餅”を置いていきやがった。
あんこは好きだけど、ドデカイぼた餅(おはぎ)3個入りを持ってきて、母乳のために食べろと言われてもムリです。
これも佳哉が見舞いに来たときに持ち帰らせた。
おまけに病院の規則で、入院中に子どもを抱っこできるのはパパが1回のみで、ジジババは退院まで待てと言われているのに、新生児室前で抱っこさせろと騒がれた。
本当に佳哉の家族は、常識が無いということを思い知らされた。
そしてクリスマスイブに退院となった私たち。
なんとホワイトクリスマスイブになるという天気予報!
となると、5月に買い換えたばかりの車(LIBERTY)のスタッドレスタイヤが無い!
以前のカミノのタイヤはサイズ違いで使用不可!
実父が心配して、ディーラーやショップに問い合わせて、無事に履き替えてからお迎えに来てくれた。
義両親には会いたくなかったので、退院時間を伝えず、私の両親が佳哉と一緒に来てくれた。
早速、新生児室卒業した子ども①を、母に抱っこしてもらった。
母は女の子がよかったのに~と言いつつも、満面の笑みで喜んでくれた。
とりあえず私の目標が1つ達成できた。
これは2002年12月のエピソード。
産後、私が入院している間に佳哉は散髪へ行き、白髪染めしてきました。
退院時にあの助産師さんに
「これでパパらしくなったわね~」
と嫌みを言われていましたが、本人はご満悦でした。