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内輪ネタの儚さ

世の中には内輪ネタなるものがある。集団内で共有されたお笑いを、集団内で楽しむこと。だからその話で笑える人はその集団のメンバーに限られてたりする。

私は高校生の時この内輪ネタの恐ろしさを痛烈に実感した。高校生の頃、グループがいくつくもできると思うんだけど、自分のグループが一番面白い集団だと本気で心の底から思っていたし、それに比べて他の集団のつまらなさたるや、なんてこともちゃんと思っていた。でも他の集団から見た私たちのグループも同じように「なんでこんなつまらないんだ」って思われてただろうしな。

内輪ネタ自体が悪いわけでは全くなくて、内輪ネタがあるからこそ、その集団だけで共有できる何かがあって、これは何だか文化のようなものだなあと感じたりもする。その集団内だけで通じる共通言語だとか、面白さとか。それってもう文化じゃん。そういった文化がその集団の結束を高めたりするのだろうな。

ただ、その内輪ネタを公に発信してしまったり、他の集団に見せびらかせたりするとひどいことが起きる。その内輪ネタが、世間一般の「面白い」と親和性が高い場合は特に何も言われないだろうけど、世間一般から離れたような尺度での「面白い」だった場合、内輪ネタとして冷笑される。

これは、もう集団の中に収めておこうよという考え方もできるし、内輪ネタくらい優しい目で見てあげようよという考え方もできる。異国文化として「ああ色んな文化があるんだなあ」って見てあげることはできないものだろうか。まあなかなか厳しいよね。私も自信ない。 

でも私は、SNSはひとりごとのたまり場であれば良いと思っているし、逆にSNS上で対話をできている人がいるかと聞かれるとほとんどいないんじゃないかと思っているから、内輪ネタなんて別にあげちゃえばいいのになあと考えてなくもない。

内輪ネタの気色悪さって、「これが俺らだぜ、面白いだろ?」っていうスタンスが動画とかから滲み出てしまうところにあると思う。だからこそただただその人たちが楽しんでいるだけの動画とかは見ていてこちらも楽しくなる。「ああ、全くこちらに遠慮してないところで楽しんでる」「楽しいがこの人たちだけのもので完結している」と感じる。お笑いのネタで、芸人さんたちがネタ中に笑っているのを見ると、なんだか嬉しくなってしまうのと同じ。ああこの人たちにだけ見えてる面白いがあるんだなあ。そしてそれを無理に周りに共有しようとしていないところもいい。解説されたら冷める。多分。だから内輪ネタは儚い。あんなにも尊いものなのに、他の人が触れようとすれば容赦無く崩れていくからね。

みんなに、画面越しの誰かに面白いと思ってもらいたくてやっている内輪ネタとかを見ると、「そんなに見ず知らずの人に面白いと言ってもらわないと、自分たちのことを面白いと思えないのかな?」と考えてしまう。誰からの視線も気にせず、遠慮なくただただ自分たちが楽しんでいるみたいな内輪ネタであってほしい。

そしてSNSにあげれば赤の他人がつまらない世間一般の評価基準を背負って 審査員になりきっているのだから、それが鬱陶しいのであればSNSに内輪ネタをあげない方が善だったりもするのかな。じゃあSNSって何のためにあるのだろうね。

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