
Sくん
Sくんはわたしの仲良しの男の子だった。
同じ幼稚園で同じさくら組で家もわたしの住んでるアパートから走って5分の所にあった。
幼稚園が終わるといつも公園で遊んだ。
「Sくーーーん!あそぼー!」
大声で叫ぶとSくんが家の中から飛んでやってくる。
Sくんの家からゆるい坂道をこれまたいつもどおりにおいかけっこしながらくだり、行きつけの駄菓子屋さんによって50円で上手におやつを選ぶ。
それから近所の三角公園で、滑り台をかけあがるかけあがりごっこをしたり、ベンチの屋根の支柱を早登り競争したり、砂場の飛び石で鬼ごっこをしてすべって落ちて怪我をしたり…
怪我した足をびっこひきひき泣いて帰ると「あぶなかことしてあそぶけんやろうが!!」と母にこっぴどく怒られたりもした。
痛くて泣いたのに今度は怒られて泣いていた。
とにかくいっいつも一緒でわたしはSくんのことが幼心にかなり気になっていた。
その日は公園でなくてわたしの家の前でボール遊びをしていた。
いつもなら夕方5時頃「またね」と帰っていくSくんなんだけど、今日はお出掛けなのかお父さんとお母さんがわたしの家の前までSくんを車で迎えに来た。
車も立派な普通車でなんだろうメーカーとか詳しくないんだけど、うちの中古の軽自動車よりは全然立派なのは小さいわたしにもわかった。
Sくんが「いまからお出掛けなんだ~」って嬉しそうに言った。
わたしは「いいなあ」って言った。
「また明日ね」
「うんまた明日遊ぼうね」
と言ってSくんの車を見送った。
どうやってわたしはこの事実を知ったのかよく覚えていない。
だけれど、あのいつもの駄菓子屋さんの前でわたしは霊柩車を見ていた。
「死んじゃったんだよ」
よく知ってる近所のおじちゃんおばちゃんやあまり知らない人たちがまもなく火葬場に出発する霊柩車の周りを取り囲んですすり泣いていた。
わたしは悲しくなかった。
Sくんともう遊べないなぁ。
Sくん、もうここにいないんだなぁ。
「死」という意味がよくわかってなかったわたしは周りで声をあげて泣く大人たちが不思議てならなかった。
記憶はここで終わっている。
わたしが「死」というものに身近に関わったのはこれがはじめて。
あのひ、ガムテープて閉めきった車内でSくんとSくんの両親はガスを吸って一家心中したのだ。
理由は「借金が」「親戚が」と色々噂があったみたいだけれどどれも定かではない。
きっとSくんは明日もわたしと遊ぶつもりだった。
Sくんの両親はわたしとSくんが「また明日ね」と言ってるときからすでに死のうと考えていたのだ。
両親はきっと一人っ子のSくんだけを残して行くのが忍びなかったに違いない。
でもSくんはもっともっと遊びたかったに違いない。
お母さんとお父さんとお出掛けするのを楽しそうにしていたSくん。
いまではその記憶も薄れてしまっている。
ふとしたときにおもいだし、都合よくまた、忘れてしまうのだ。