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成長って人より早くないとダメなのか?
講師という職業柄、色んな生徒さんに出会って、思うことがあります。
苦手なことや得意なことって人それぞれで、専門学校の少人数制の教室で生徒さんの取り組みを見ていると、成長の度合いも全くバラバラです。
英検合否のボーダーライン
今年英検2級を目指している私の教え子は3人いたのですが、うち2人は年度内で1次試験に無事合格し、1人はスコアがあと2点で合格でした。
わずかあと2点を弾くボーダーライン。
その子はもともと英語が出来る子で、英検のスコアの2点とは、「英作文のわずかひと単語の綴りミスが無ければ合格」というくらいの僅差だと思われます。
たったひと単語の綴りミスで不合格。
このくらいの僅差になると、合否を分ける境目は最早運くらいのものなのに、それだけで「不合格」というレッテルを貼られるのは、何だか悔しいというか、不服な気がしてしまいます。
勿論全員合格という訳にもいかないので、ボーダーラインが設けられるのは仕方の無いことですが。
成長の証は「他者との比較」?
そもそも個人の成長の証左のうち、現代社会で与えられるもので大多数を占めるのは、
資格試験の合否、受験の合否、コンペの勝ち負け、入社試験の合否など、大勢の他人と推し量られた結果勝ち取るというものだと思います。
それは効率的な方法で、たくさん人のいる時代で、個人にそこまで割く時間や余力がない。
同じ年代、同じ立場のたくさんの人達からとったデータを基準にすれば、その個人が何者であるかを知らない人にも分かりやすく、客観的な判断が下せるので選ばれているのでしょう。
気づけば「量的研究」の視点に立っている
「平均と比べて足が遅い」
「この年齢なら年収は○○万円が妥当」
「この模試の結果では今回のテストも合格は厳しいだろう」
これらの考え方は全て、量的研究の視点からくるものではないでしょうか。
量的研究とは、集めたたくさんのデータの「量」に着目して、それらを統計的に分析して、その差や共通項を見出します。
この研究方法は、統計学や理数系の学問の分析のみならず、言語学などでも、方言データなどたくさん結果が得られたものを分析する時に扱うことがあります。とても便利な分析方法です。
この量的研究では、「量」に着目しているので、「外れ値」と呼ばれるデータは除外します。外れ値とは、取れているデータから極端に値が下振れている、上振れている数値を出すデータのことです。
講義で軽く聴講したことがあるだけですが、確か地震の研究とかでも、シグナルとノイズを分ける段階があったような気がします。シグナルは研究対象となり、ノイズは研究対象とならない省くべきものです。
このノイズは外れ値と似ているものではないでしょうか。つまりデータを説明しようとする際に、数が少な過ぎてややこしくなるために切り捨てるものです。
上の視点と同じように、現代社会において、大勢の中の比較対象として、人をデータとして扱う時、外れ値的な不要なデータは切り捨てられることがあります。
例えば私も、きっと「正社員」などの枠で見れば切り捨てられる外れ値の1つだと思います。外れ値は「例外」とも言え換えられるでしょうか。
が、人間を個々として見た時、外れ値なんてものは存在しません。生き物全般を個々として見た場合にも、本来は無いはずです。
たくさん人と関わることの出来る現代社会では忘れがちですが。
一方で、実は学問では、研究の視点はこれに留まりません。量的研究の視点に対して、質的研究というものもあります。
「質的研究」という視点
質的研究とは、その個人や個々のデータの「質」に着目し、それぞれの持つその主観に焦点を当てて分析を行う研究法です。
動向の変化を5年、10年単位で追って、その経年変化などを俯瞰的に分析するものなどもこれにあたります。
私は大学等でずっと方言学、社会言語学を専攻していましたが、ゼミ生の研究の分析方法でもこちらの質的研究がメジャーな印象でした。
もちろん質的研究にも定量的視点はあって、質的研究と量的研究を合わせたような分析方法も有り得ます。
ところで、人間は(あと聞いたところによると株価なんかも)、よっぽど阻むものがなければ基本的には成長していくものです。
例えば昔苦手だった数学の問題があったとして、何年後かに教科書を見てみれば「ああ、こんなに簡単なものか」「あの頃何を悩んでいたんだろう」なんて思うかもしれない。
何が言いたいかと言うと、世の中を生きる他人に自分を分析される際、他のデータがいくらでも見つかる故に、つい量的研究の視点になりがちだと思うのですが、「自分だけは質的研究の視点から自分を追いかけてみてもいいのでは無いか」ということです。
あの頃に比べて、初対面の人と話すことができるようになった。
知らなかった言葉や気持ちを沢山知った。
選挙に行くようになった。などなど。
赤ちゃんの頃からしたら、もう数え切れないほどできることが増えています。
語彙数なんてえげつない伸び方をしているのではないでしょうか。奇跡が山積みですね。あとyoutube閲覧時間とかも。時間って恐ろしい。
私がお世話になった社会言語学の先生方は、子供が成長する度に「こんな言葉も喋れるようになった」「こんな複雑な文法が分かるようになったのか」と一つ一つの発話に感動するそうです。質的研究の視点でお子さんを追い続けている。
視点を変えることの重要性
質的研究的視点で自分を見た時に良いところは、成長が早いか遅いかを他者と比べなくて良いところです。
数ではなく個の変化を見ているという点で、他者のデータに振り回されなくて良くなるんですね。
以上、壁にぶつかった時や人生が上手くいっていない時、時には視点を変えてみてはいかがでしょう、というお話でした。
なぜこれを書きたくなったかというと、いかだは第2回の英検準1級に通らなかったのですが、
「私は人に英語を教える立場なのに、通訳にだってなろうとしてるのに、あの人は受かってるのに、まだ英検準1級にも受かれないのか」なんて、つい自分に思ってしまったからです。圧強めなパワハラ上司を脳内に飼うべきでは無かった。
仕事しながら頑張ってるんだから十分偉い。
前回よりもリスニングと単語力が向上した。
英作文の要約も、新形式にしてはよく立ち向かった。
褒めて伸びるタイプなので、こういう言葉をかけてあげる方が伸びると思います。私は。
今回以上の結果を今後の自分が出してくれるかもしれないのに、現状ここまで頑張った、取り組んだという過程を歩んできた自分を否定する必要はない。質的研究によって脳内モンスターペアレント誕生です。
現代社会では難しいことですが、他者との比較は程々に、できたことを数えてあげられる人になりたいものですね。大事に思うほど不安になって、たくさんのデータを求めたくなるような気持ちもよくわかりますが。
ストップ自己嫌悪。
自分を最も叱咤激励する機会をもつのは自分だけど、だからこそ自分だけは自分の味方でいたい。マイペースに成長していきましょう。
かく言う直近の私は、好きな人にお誕生日おめでとうのLINEを送ることが出来たのでもう今年の目標はクリアとしました。去年出来なかったことが出来たので勝ち。
英検準1級の壁はまだ厚いけれども、とりあえず今年は勝ちです。TOEICの方が才能あったりして。しばらく自分の一つ一つの発話に感動しながら生きていこうと思います。学問に感謝。