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苦手な人を思うほど追い詰められる

胃が痛い。
めまいがする。
これから実家に帰るつもりだったけど、「今日はやめとく」と連絡を入れた。

調子が悪い原因は、ここんとこ消化が追いつかず、眠れない日が続いてること。
そして近々、苦手な人とシフトが一緒になるという緊張。


その人は攻撃性なんてないのに、ニコニコしてる人なのに。
私は「嫌だなぁ」と思う。
シフトが一緒になる数日前からつらくなる。
何事もなく同じシフトの日を乗り切っても、「嫌だったなぁ」と何日も引きずる。
彼女のことは前にも書いたことがあります。
というか、私にとって苦手な人というのはほとんどこの人のことで。


昼前からだるさと眠気が襲って横になる。
あーやだやだと思ってるから、なかなか寝付けない。
「どうしてそんなに嫌なの?」と、自分に問いかけてみる。
でも、私の心の中心部は語ろうとしない。

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「どうしてなの?」と幼い頃、親や幼稚園の先生に問われたことは何度もある。
そのとき、ちゃんと理由を言えたんだろうか。
子どもながらに「言ってもわかってくれなさそう」と口をつぐんでた記憶。
なんとか理由を言葉にしても、「そうなんだ。でもさぁ」と大人は続けたんじゃなかったか。
「楽しいよぉ」
「みんなももちゃんのこと待ってるよ」
「怖くないから、行こうよ」

そうして手を引かれて表に出たんだろうけど、「結局”進む”しか道がない」と、これまた幼心に観念した記憶。
無邪気に遊ぶ私を見て大人は、「ほらね、表に出てよかったでしょ」「みんなと遊べてよかったよね」とホッとしただろうし、私にそう声をかけてきたこともあった。
はにかみながら「うん」と言えれば可愛いんだろうけど、私は「うーん」と固まる。

(素直じゃない子…)
大人からそんなため息が漏れる。


「どうしてそんなに嫌なの?」
内側に問いかける自分は、あのころの大人みたいに雑な解決をしようとするんじゃないか。
自分で自分にどこか不信感をいだいてる。
ただ理由を挙げただけだと「でもさ…」という社会的なジャッジが入る。

「別にあなたに攻撃を加えてないと思うんだよ」
ーー暴力や意地悪さだけが攻撃じゃない

「気にしすぎじゃない?」
ーー出た!”気にしすぎ”
そうかもしれないけど、この不快感にどう対処すればいい?

「数時間だけのことなんだし、まぁ忍耐というか」
ーー出た!”忍耐”
でも忍耐した分の反動があって、何日も引きずるんだ…

「じゃあどうしろっていうのさ!?」
ーーほら、キレた!

自分の内側に「じゃあどうしたらいいか」という回答がない。
あるとしたら、職場に「あの人とシフト一緒にしないで」とお願いすることであり、それを言いに行けば上記とほぼ同じような問答が繰り返されるだろう。
「いい人」であるあの人を、一体嫌う人なんているのか?
いるとしたら、嫌う人のほうに問題があるのでは?

・・どうなっても行き止まりになる。
それがわかってるからめまいも起こるわけで。
「めまいもあの人にせいにするかね!?」
内側でそんな声も響く。

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彼女はほうぼうで自分語りをする人で、聞く分には害がないと分かってても、嫌でしょうがない。
自分が深い話をした分、私の触れてほしくない領域にも踏み込んでくることもある。
うまく言えないけど、何かが人質に取られた気分になる。

「あなたにこんな深い話を打ち明けたんだからさ…」

彼女は私との間に橋を架けようとする。
私は架けてほしくない。
でも橋が伸びてくるので私の地盤(ベース)を差し出さざるを得ない。
この「ざるを得ない」のとこで、うまく誰も傷つかない方法を考えてるんだけど、職場の同僚に「橋、架けないでください」とは言えない。
悪口ならまだしも、自分語りの橋は誰しも何本か架かってるんだろうし。

ただ、橋とかいっても実際は納豆の糸みたいなもので、「途切れたら途切れたで」って思い合うから適度な友好関係が成立するのだろうとも思うんですよね。
彼女は「切れた」と感じたらすぐまた橋を架けにくる。
だんだん丈夫なやつ=もっと打ち明け話っぽいやつ。
「も、来ないで!」という怒りといえばそんな気もしてきた。
しかも、私になんて架けなくていいじゃんと思う。
私にどれだけ橋を渡しても、距離縮まってないじゃん。わかるじゃん。
たぶん彼女は、誰との間にもそれなりに丈夫な橋を架けたいんじゃないか。
「架かってない人帖」みたいのをいつもチェックして、「あ、あの人にも話聞いてもらお」ということをする。
「つながった」という事実が彼女のカードになっていて、あちこちで「あの人もこうらしいよ」と、切り札として消費されてる感じは私の被害妄想かもしれないんだけど、「嫌」としか言えない。

多くの人は、彼女の架ける橋をなんとも思ってないのだろう。
「どうぞ」って自分の地盤を差し出す。
みんなはそれができてるっぽい、というところも、私が自分を責めるゆえん。
彼女とかつて一緒に仕事をしていて、それなりにハードな時期を乗り越えてきた分、一時期太い橋が架かったのは確かと思う。
それはもう10年も前なのに、彼女はせっせと補修する。
「もう撤去しませんかね?」
なんて、もし私が言ったら、永遠に言葉を交わさないくらいの間柄になるだろう。
私はそれでもいいんだけど。
「けど」をそうは実現できない自分と社会。

何をどう書いても誇張してる気になるし、被害妄想っぽくなる。
悩ましい。胃が重い。


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