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【短編小説31】沈む記憶
「海は、人の記憶を呑み込むんだ」
そう言ったのは、親方の藤木だった。
漁師歴四十年のベテランで、俺たち若い漁師にとっては師匠のような存在だった。
「時々、不思議なものが網にかかることがある。だがな、そういうものは見なかったことにするんだ」
「見なかったことに?」
「そうだ。そうしないと、海に引きずり込まれる」
俺は冗談だと思っていた。
だが、それが冗談でないことを知るのは、もう少し後の話だ。
その日、俺たちは沖に出ていた。
空は曇り、波は穏やかだったが、なんとなく嫌な感じがしていた。
「今日の海は変だな……」
仲間の一人が呟く。
確かに、魚がほとんど獲れない。
こんなことは滅多にない。
「潮の流れが変わったんだろう」
親方はそう言ったが、どこか不安そうに海を見ていた。
夕暮れが近づく頃、突然、網が大きく引かれた。
「おい! なんかかかったぞ!」
「バカでかいぞ!」
全員で網を引き上げる。
だが、それは魚ではなかった。
それは、一艘の木造の船だった。
古びた小舟だった。
漁に使うようなものではない。
手漕ぎのボートのような形をしていた。
だが、異様だったのは、その船がまるで昨日まで使われていたかのように綺麗だったことだ。
「……こんな船、見たことねぇな」
誰かが言った。
俺はふと違和感を覚えた。
この船、どこかで見たことがある気がする。
「親方、これ……」
俺が言いかけたとき、親方が顔をしかめた。
「すぐに海に返せ」
「え?」
「こんなもん、持ち帰るな」
親方は急かすように言ったが、俺はどうしても気になって、その船の中を覗いた。
すると――
船底に、一枚の写真が落ちていた。
俺はそれを拾い上げ、思わず息をのんだ。
そこに写っていたのは、若い頃の親方だった。
親方は、その写真を見て青ざめた。
そして、無言のままそれを奪い取ると、船ごと海に投げ捨てた。
「出航するぞ」
「でも……」
「いいから!」
親方の剣幕に押され、俺たちは船を港へ戻した。
その夜、親方は一人で酒を飲んでいた。
俺はどうしても気になり、声をかけた。
「あの写真、親方ですよね?」
親方はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと語り始めた。
「……俺が若い頃、ある嵐の日に、船が転覆したことがあった」
「幸い、俺は助かったが、一緒に乗っていた親友は戻らなかった」
「その時、俺たちが乗っていたのが、あの船だった」
俺はゾッとした。
「でも……あの船は、沈んだんじゃ……?」
「だから、言っただろう?」
親方は苦笑しながら煙草に火をつけた。
「海は、時々、呑み込んだものを吐き出すんだよ」
その後、俺たちはあの海域には近づかなくなった。
だが、時々思い出す。
あの時の、親方の表情を。
そして、ふと考える。
次に、あの船が引き上げられるのは、誰の番なのだろうか。