【短編小説⑥】 川のささやき
その川には、奇妙な伝説があった。
「夜になると、川辺を歩いてはいけない。声をかけられても、振り返ってはいけない。」
村人たちはそう口をそろえて言うが、理由を聞くと皆が一様に黙るのだった。
ある日の夕方、都会から来た若い男、健一はその川辺を散策していた。都会の喧騒から逃れてこの村に来た彼にとって、広がる静かな自然は心地よかった。川は穏やかに流れ、夕陽に輝く水面がまるで黄金の絨毯のようだった。
ふと、彼は川の中に奇妙なものを見つけた。水面近くに何かが浮かんでいる。それは……人の顔のように見えた。
「……あれ?」
健一が目を凝らして見ると、それは消えてしまった。彼は一瞬、自分の見間違いだと思ったが、胸騒ぎがした。
その夜、宿に戻った彼は、川で見たことを村の宿主に話した。宿主は目を見開き、声を潜めてこう言った。
「その川は、この村の秘密なんです。夜には決して近づかないでください。」
しかし、健一の好奇心は抑えられなかった。「秘密」という言葉に惹かれ、夜更けにこっそり宿を抜け出し、川へと向かった。
月明かりの下、川は静かに流れていた。昼間の穏やかさとは異なり、不気味な静寂が漂う。彼が川岸を歩いていると、どこからか声が聞こえた。
「……ねえ、そこのあなた……」
それは甘い、しかしどこか冷たい声だった。振り向こうとしたが、村人たちの警告が脳裏をよぎる。「振り返ってはいけない。」
しかし、声は続けた。
「振り返って、こっちを見て。私、ずっと待ってたの。」
健一の足は止まり、身体が自然と声のほうへ向きそうになる。だが、振り向く寸前で理性が勝り、彼は走り出した。
声はなおも追いかけてきた。
「振り向いて!どうして逃げるの?」
全力で走り、宿に戻った健一は息を切らして振り返った。追いかけてきたはずの声はもう聞こえない。
翌朝、川辺で彼が落とした帽子が見つかったという知らせが届いた。しかし、村人たちはそれを拾おうとしなかった。
「触らない方がいいですよ。あの川のものには、何かが取り憑いている。」
健一は村を離れた後も、あの声を忘れることができなかった。都会に戻っても、川のささやきが夢に現れ続けたという。
そしてある日、彼は再び村を訪れた。誰もいない川辺で、夜になるのを待ちながら。
月明かりの下、川が再びささやき始めた。
「待っていたよ……ずっと。」
その夜を最後に、彼の姿を見た者はいなかった。