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百次のサムライ-薩摩平氏と石塔3-  森殿原の宝塔(薩摩忠直夫妻の宝塔)

はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの石塔をめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。

平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。


森殿原(もりどんばる)の宝塔


薩摩川内市宮崎町赤沢津に薩摩忠直夫妻の墓とされる宝塔(鎌倉時代)があります。薩摩川内市の有形文化財に指定されています。

薩摩忠直
(さつまただなお)は薩摩平氏一族で、平良道の三男頴娃忠永の六男です。または薩摩六郎忠直ともいいます。

薩摩六郎忠直は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活躍した人で、薩摩郡郡司、薩摩郡本地頭、平礼寺金剛院の要職を兼ねた豪族でした。

忠直は1160年頃薩摩郡(川内地方)に入部し、1162年~1183年の間のわりと早い時期に忠永から薩摩郡を譲り受けました。

忠直が薩摩郡で活躍するころ、1167年、都では平清盛が朝廷の最高職である太政大臣の地位につき政治の実権を握りました。まさに貴族から武士へと権力が移っていく時代でした。

近くには森稲妻神社があり、昔はこの境内に多くの宝塔があったようです。

薩摩忠直夫妻の墓とされる宝塔(右側2基)
薩摩忠直のものとされる宝塔  
塔身の四面に梵字が刻まれ墨書も確認できる。
薩摩忠直のものとされる宝塔  
垂木が14~18本見える
薩摩忠直のものとされる宝塔 相輪
薩摩忠直のものとされる宝塔 
塔身南側の梵字
薩摩忠直のものとされる宝塔 
塔身西側の梵字
薩摩忠直のものとされる宝塔 
塔身北側の梵字
忠直夫人のものとされる宝塔
石塔群全景
石塔残欠
石塔残欠
史跡看板
標識
森稲妻神社(元々、宝塔は神社境内にありました。)
境内と社殿
鳥居
宝塔の参考図 出典:川内市史 石塔編

【参考文献】
隈之城の歴史と文化財
川内市史上巻
川内市史 石塔編

近くに駐車場はありませんので注意してください。
ほかの薩摩平氏の石塔についても随時アップする予定です。



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