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地震物語(11)
[第13日(1月29日)]
朝刊による死者5092人。北区のYさん宅を早朝暗いうちに出て、両親を垂水区の叔母の家まで送り届ける。今日は日曜日だ。有馬街道を再び東へと向かうと次第に夜が明ける。東側から神戸市内に入る方向へ、品川や練馬のナンバーを付けた警察車が何台もすれ違う。その風景を見ていると全てが虚構であるかのような錯覚に陥る。
非現実が日常に入り込んだとき、人は倒錯するのかも知れない。沢山のメディアを通して見るとき、事実は映画やドラマのように単に向かい合う対象になってしまう。クーデターが起こって内戦状態になっても、私は市内を蹂躙する戦車をカメラに収めるのかも知れない。核戦争が勃発してもクルマで峠の渋滞を逃げるのかも知れない。
私が失った物は他の人々に比べればずっと少ない。多くは経済的損失だ。死者を目撃した訳でもない。空腹と寒さに苦しんだ訳でもない。フィクションを見ているような気分は、言わばその気楽さゆえなのか。望んでひどい目に遭おうとは当然思わない。もちろん人の死や抵抗不可能な不幸には涙することもあるだろう。しかしCNNが伝える湾岸戦争がそうであったように、私もまたこの大災害を疑似体験している、そう思い始めていた。
そう思うことは危険なことだと思う。そう思うことは反逆でさえあるようにも思う。そしてやがて気づいたとき、その疑似体験が現実に対して強烈なボディーブローを持続的に打ち込んで来ることも理解しているつもりだ。現実とは思えないほど爽やかな阪神間の風景を見下ろしながらの峠越えは比較的スムーズだ。事件から13度目の朝の太陽だった。