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地震物語(10)

[第10日(1月26日)]

 朝刊による死者5074人。午後から体調が良くない。夕方は残業をせずに早く退社し、気のおけない取引先の数人と軽い食事を済ませる。21時過ぎに帰宅し、マンションの理事長に話をしに行くと、他の住民との議論に巻き込まれる。大した話ではない。このマンションは22世帯しかない小ぢんまりとした長屋のような付き合いだけに、お互いの距離が近く、震災直後の助け合いは極めてよく機能した。逆に揉めごとも起こりやすい。みんな苛立っているのだろうか。何か胸騒ぎのような気分がして、この日は巧く眠れない。

[第11日(1月27日)]
 
 朝刊による死者5083人。残業後、部下のHさんと、被災者仲間でもある先輩のK氏とで食事。昨日から体調が良くない。消化器系がダメージを受けているらしく、ビールしか喉を通らない。

[第12日(1月28日)]
 
 土曜日だ。マンションの住人で一斉に不燃ゴミをゴミ置き場に出す。私同様、食器関係は皆こなごなになっていた。陶器やガラス類が50袋分ほどもあった。朝刊による死者5090人。

 長田区の実家に向かうため、2時間半かけて有馬街道を抜けて市内へ。街道はまるで軍用道路だ。どこからどこへ向かうのか、ダークグリーンの自衛隊の大型トラックが、給水車を牽引して何台も対向車線を通過する。思わずカメラを向ける。長田区の実家から、昔からの知り合いのYさん宅に所帯道具を運搬するのが私の役割。家具を運び出すことはできないが、衣服や家財道具をクルマに詰め込む。セダンだから沢山は入らず、2回に分けることになる。

 市内の交通は夕方にかけて混雑を極めた。北区への搬出作業は、片道15キロメートルほどだろうか。2往復で3時間もあれば終えられるだろうと思ったが、2時に始めて8時までかかる。

 クルマで両親を運びながら長田区内の惨状を見ることになる。少なくとも高校生の頃まで、自分の町だと愛着を持っていた町並が焼失し倒壊し尽くしている。恐らくこの数平方キロの中に、私のかつての同級生が100人は暮らしている筈だ。もう殆ど会わないのに、下町で遊んだ彼らの思い出が噴き出して来る。もう私が育った町はないのだ、元のような姿に戻ることはないのだ。そうとしか思えなかった。結局この日はYさん宅に泊めて貰うことになる。


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